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きつね日和

作者: ハレマ
掲載日:2026/05/25

 いつからだろうか……。朝目が覚めて最初に濡れた頬を拭うようになったのは。

 いつも何かの……、誰かの夢を見ている気がする。暗闇の中、少女が蹲り一人で泣いている。それ以外は夢の内容は思い出せない。ただ、理由のわからない喪失感と焦燥感だけがはっきりと胸に残っている。

 ふと時計に目をやると、時計の針が7時を少し過ぎた辺りを指している。


 学校の支度しなきゃ。


 2階にある自室からリビングに降りる途中、母が朝食の準備をする音が聞こえてくる。父はもう仕事に向かっているだろうから、私と母の分だろう。

「お母さんおはよう」

「あら、おはよう夕子。もう少し遅かったら叩き起こしに行ってたわよ。」

 いつもの微笑みをむけてくれる。

「高校生になったんだから、自分で起きれるよ。」

 毎日同じやりとりをして飽きないのだろうか、寝ぼけた頭を覚醒させるため、洗面所で顔を洗う。

 朝の身支度を整え、朝食の並べられた食卓へと向かう。母はいつも、私の準備が終わるまで手をつけずに待っていてくれる。なんて健気な母親だ。

「今日は夕方に雨が降るかもしれないってい天気予報士が言ってたわよ」

 トーストにバターを塗りながら、母は言う。

「一応傘持って行きなさいね」

「確実に降るわけじゃないならやだよ〜、荷物になるじゃんか」

 私は口を尖らせてみせる。

「もし大雨降ったらどうするの?風邪ひいちゃうでしょ。」

「じゃあ折り畳み傘ちょうだいよ。それなら荷物にならないからいいよ」

 うちに折り畳み傘がないことはわかっている。先週の雨の日に母がどこかに忘れてきたのだ。傘を持って行く気のない私は、これ以上のやり取りは面倒なので少し意地悪をしてみた。

「わかったわよ、風邪ひいても知らないからね!」

 母は自分の失態に何か思うことがあったのだろう、少し語気を強めてそう言い放った。

 雨さえ降らなければどうとう言うことはないのだ。私は母のお節介をよそにトーストを頬張り、水で流し込む。そろそろ家を出ないと、学校に遅刻してしまう。

「きっと大丈夫だよ、行ってきす!」


 勢いよく扉を開け、自転車をに跨る。ふと庭の方へ目をやると、母が大事に育てている花が今日もきれいに咲いている。小さな青色の花びらをいくつかつけた、可愛らしい花だ。


 名前は聞いたことないけど、大雨が降ったらあの花もダメになっちゃうのかなぁ。


 私とあの青いきれいな花のためにも、雨が降らないことを祈るばかりだ。

 春の暖かな風を感じながら、いつもの通学路を自転車で駆けていく。家と私が通っている高校の中間くらいの場所に、神社がある。道の脇に10段くらいの階段があって、その階段を登り切った先の少し開けた場所にある、こぢんまりとした古い神社だ。誰が管理しているのかわからず、人が参拝に来ているのもほとんど見たことがない。階段は廃れ、ところどころひび割れている。


 私は神社が苦手だ。なぜかここの前を通ると頭痛がする。何か悪い土地神でも封印しているのだろうか、なんて幼稚な考えが頭をよぎる。できれば避けて通りたいのだが、生憎ここを通るのが1番の近道なのだ。

 今日もこの道を通らなければならない。私は意を決して、勢いよく自転車を漕ぐ、

 ブワッ

 神社の前を横切る瞬間どこからか突風が吹いた。

「きゃっ!」私は思わずよろめく。

 思わぬ出来事に驚いたと同時に、制服のスカートが捲れ上がる。

 私は周囲に誰もいないことを確認しほっと胸を撫で下ろす。


「春一番ってやつ?」そう呟いたとき、ある事実が頭に過ぎる。――頭痛が起きない



 ――キーンコーンカーンコーン

 終業のベルが鳴り響いたと同時に、先ほどまで授業をしていた古典の先生が号令をかける。

「起立、礼、ありがとうございましたー。」

 頂上の薄い頭にサイドが白くなった髪をしている、いかにもといった様子のおじいちゃん先生が、授業で使った教科書やら資料やらをまとめて、教室を後にする。

 

 今日の授業が終わり、あとは帰るだけという解放感と、先ほどまでの眠気から、私はあくびと共に大きく背伸びをする。

「あはは!変な顔!」

 大欠伸をかます私を指差して、クラスメイトのかすみが楽しそうに笑っている。

「まじ中田の授業眠いよねー。あれで起きてっろていう方が無理だわ。」

「それなー。まじ古典なんか勉強してもいつ使うのって感じ」

 私ははにかんで、かすみの意見に賛同する。

「ところで夕子、今日カラオケ行かない?」

「あーごめん。このあと雨降るかもしれないから今日はまっすぐ帰ろっかな。傘持ってないんだよね。」

「なんだーそっかぁ。じゃあまた今度だね!」

 そう言って、かすみは踵を返し、長い後ろ髪を揺らしながら自分の席へと帰っていった。

 いつも遊びに誘ってくれるかすみにはとても感謝している。高校に入って最初にできた友達で、気恥ずかしくて本人には言えないけれど、親友だと思っている。今度また私から遊びに誘ってやろう。


 学校を出て朝の通学路を辿ってうちまで帰る。今朝は珍しく頭痛がしなかったので、なんだかあそこを通るのも気が楽に思える。帰りも頭痛がしませんように!そう思いながら神社の前を自転車で横切る。またしても頭痛がしない。嬉しくなった私は、何度か前を往復してみた。しかしやっぱりどこも痛くならない。側から見ると神社の前を行ったり来たりしているどこか頭のおかしいjkに見えるだろうか。––––って何やってんの私

 途端に羞恥心が溢れてきた私は帰宅しようと踵を返した。


 その時、どこからか少女の泣き声のようなものが聞こえてきた。辺りを見渡すと、どうやら階段の上––––神社の方から聞こえてくるようだった。その声を聞くと何故かいてもたってもいられなくなり、自転車を道の脇に止め、その声の主を探すようにゆっくりと神社の階段を登った。


 階段を登りきり、鳥居をくぐろうとした瞬間、激しい頭痛に襲われた。その間も少女の泣き声が聞こえてくる。締め付けられるような痛みに、一歩後退りしようとしたその時、後ろから突風が吹き、押し流されるように鳥居をくぐり、境内へ足を踏み入れた。と同時に、小さな祠の前の賽銭箱の横に、蹲って泣いている少女の姿が目に映った。


 似てる、あの夢に。


 脳裏に電流が走ったようだった。少女の顔はよく見えないが、背格好や状況が、あまりにもあの夢と似通っている。

 思わず身震いする。それと同時に、もしかしたらあの夢と何か関係があるのかもしれない、という期待に満ちた好奇心が私の心を支配する。

 そして私は一歩、また一歩とゆっくり少女の元へと歩を進める。いつの間にか頭痛は消えていた。



「どうしてこんなところで泣いているの?」

 私は、恐る恐る少女に声をかける。

 すると少女はようやくこちらに気がついたようで、ピタリと泣くのを止め、じっとこちらを見つめてくる。見た目は7歳くらいで、とても可愛らしい容姿をした少女は、やはり夢に出てくるあの少女とどこか似ていた。

 その泣き腫らした目から溢れる大粒の涙は神社の石畳を濡らし、一体いつから泣いていたのだろうか、鼻は真っ赤になっていた。その少女の痛々しい姿を見て先ほどまで私の中を支配していた感情はすっかり引っ込み、落ち着いた声で問いかける。


「私の名前は夕子、あなたのお名前は?」

「ヨウコ……。」

 ヨウコと名乗る少女は不思議そうな顔でこちらの言葉を待っているようだった。


「そう、ヨウコちゃん、初めまして。ヨウコちゃんはどうしてこんなところで泣いているの?何か悲しいことでもあった?」

 私はこれまでに無いくらい柔らかな声で話し、彼女の顔を覗き込む。

「わかんない。わかんないけど、なんだかとっても悲しいの」

「おうちはどこ?お父さんやお母さんはいる?」

「…………。」

 少女は悲しそうな表情を浮かべ俯いて黙り込んでしまった。

 私は弱り切ったように眉を寄せる。一体この身元のわからない少女をどうやって家まで送り届ければいいのだろうか。とりあえず話しかけると泣き止んでくれたのは良かったが、流石にこのまま一人でおいていくわけには行かない。そうやって考えあぐねていると、ぽつり、と後頭部に雫が落ちてきた。


 その一拍後、空から大量の雨粒が降り始め、私は少女を連れて急いで祠の少し屋根になっているところに逃げ込んだ。

「ヨウコちゃん大丈夫?濡れてない?」

 少女の方を見やると、彼女は空を指差しながら言う

「雨降ってるね、こんなに晴れてるのにね。」

 その言葉を聞いて初めて、私は空に目を向ける。

 空は晴れ渡っているのにも関わらず、足元を濡らす雨粒は、太陽の光を反射し、まるで光の粒が落ちてきたのかと錯覚するほどに煌びやかで綺麗なもののように思えた。私はこの奇怪な状況に思わず息を呑んだ。今まで天気雨を見たことは何度かあったがここまで美しく映ったのは初めてだった。


「天気雨だね」

 私は呟くように彼女にそう告げた。

 すると、

「狐さんが結婚式してるんだって!素敵だよね!私もお嫁さんになりたいなぁ」

 この美しい光景に楽しくなったのか、そう言った少女の笑顔は、私の目に映る景色の中で、1番の輝きを放っていた。

「よく知ってるね!」

「ママが言ってたの、晴れているのに雨が降る天気を”きつねのよめいり”って言うんだって」

 私も子供の頃、母に聞かされた話だ。だがその話には確か続きがあったはず……。


 何故だろう、どうしても思い出せない。まるで記憶に蓋をされているかのようにその先の話は思い出しちゃいけない気がする……。これ以上思い出そうとすると頭が痛く……。


「……こ、ゆうこ、ゆうこ!」

 はっ、少女の声で我にかえる。見ると、少女は心配そうにこちらを覗き込んでいる。

「どうしたの、ゆうこ?」

「ごめんねちょっとぼーっとしちゃってた。大丈夫だよ!」

 そう言うと少女は安堵の笑みを浮かべる。こんな小さな子に心配をかけてしまったことに少し気が咎める。


「ヨウコちゃんのお家はどこにあるの?」

 改めて私は問う。

「ヨウコはずっとここにいるよ」

 少女は屈託のない笑顔でそう答える。しかしそんなはずはない。揶揄っているようには見えないが、到底信じられない話だ。

「ずっとって、ずっと?一人でいるの?」

「わかんない。でも、ゆうこが来てくれたからもう泣かないよ!」

 なんて無邪気な笑顔なんだろう。私がこの子と同じくらいの時は、こんなに素直ないい子じゃなかったと断言できる。あまり幼少期のことは覚えていないが、きっとそうだ。


 しかしこのままではいけないので、警察に連れていくなり、この子の親を探すなりしないといけない。逡巡している間に気がつけば雨が上がっていた。私は鳥居の方に歩いて行き、自転車が盗まれていないことを確認する。

 どうやら私の愛車は無事のようだ。

 ––––ヨウコちゃん、雨も上がったみたいだし、とりあえず雨宿りはやめてどこか移動しようか

 そう言おうと彼女の方へ振り返った瞬間、私の思考は停止する。


 彼女の姿がどこにも見当たらなかったからだ。



 目を覚ますと、時計の針は8時を指している。いつもならすぐにでも飛び起きて、いつまでも寝ている私をどうして起こしてくれなかったのだと母に不満を垂れながら朝の身支度をするところだが、幸いなことに、今日は土曜日だ。学校が休みでよかった。


 昨日のあれは何だったのだろうか。あの後あたりをさがしたが、ヨウコはどこにも見当たらなかった。名前を呼んでも反応はなく、幽霊や怪異的な何かだったのではないかと怖くなった私は急いでその場から逃げ出した。帰り道のことはよく覚えていない。ただ無我夢中で自転車を漕いだ。幻でも見ていたのか、白昼夢でも見ていたのか。家に帰ってからはただ恐ろしく、すぐに自室に逃げ込んだ。母の心配する声をよそに、 私は先ほどまでの出来事を頭の中で反芻した。布団の中で震えているうちに、いつの間にか寝てしまったのだ。


 今日はあの夢を見ていない。覚えていないだけかもしれないが、頬を伝う涙を確認できないことから、その線は薄いだろう。ただ、あの神社を飛び出した瞬間に頭の中に響いた”私のこと、忘れないでいてね”というヨウコの声だけが、帰宅してからずっと頭の中で繰り返し響いている。忘れられるはずもない。忘れたくても忘れられない。あの少女は何だったのだろうか、恐ろしくなって逃げ出してしまったが、あの少女にもう一度会いたい。いや、会わなければいけないような気がしてならない。


 そう思って私は、寝巻き姿に、寝癖のついた髪の毛を整えることもせずに、昨日の神社に向けて自転車を漕ぎ出した。玄関に向かう途中、憂色を浮かべた母に声をかけられたが、

「すぐ戻る!帰ったら朝ごはん食べるね!」

 そう言い残し、家を飛び出した。


 道中、恐怖心や好奇心、使命感や焦燥感のようなものが入り混じったように、心がざわざわして仕方がなかった。もう一度あそこにいけば、何かがわかる、そんな気がしてならなかった。


 しかし、神社の階段を登って境内に入っても、ヨウコの姿は見えなかった。ただ古ぼけた祠と、ところどころひび割れた石畳が敷かれているだけだった。私は肩をおとし、仕方なく家に帰るしかなかった。

 階段を降りようとすると腰の曲がった老婆とすれ違う。

「おや、こんなところに若いお嬢さんが一人なんて珍しい。あなたもお参りに?」

「ええ、そんなところです。お婆さんはよくここへお参りに来るの?」

「たまに元気がある時は、運動がてら来るようにしてるの」

 ここによく来るのであれば、私と同じような体験をしたことがあるかもしれないと思った。それでなくても、あの少女について何か知っていることはないかと、駄目で元々聞いてみるしかなかった。

「ここで小さな女の子を見たことはないですか?」

 突然の問いかけに老婆は少し目を丸くする。

「さぁ?私は見たことないわねぇ。最近じゃこんなところに小さい子は来ないんじゃないかしら。」

 想像通りの返答に少し落胆してみたものの、先日の出来事をこの老婆に話してみることにした。

 怪訝な顔をされるに決まっている。頭のおかしい人だと思われるかもしれない。だが、どうしてもこの話を誰かに聞いて欲しくなったのだ。


 しかし老婆は、私の想像とは裏腹に私の話を疑う素振りもなく、時折不思議そうな顔をしながら黙って聞いてくれた。

 老婆は、少しの間宙を眺めていたが、やがておもむろに口をひらく。

「そんなことがあったんだねぇ。私は何度もここに来ているけれど、そのヨウコという少女には会ったことがないねぇ。」

「そうですか。聞いていただいてありがとうございました。」


 私が視線を落とし、家に帰るため踵を返そうとしたその時、老婆はゆっくりとこんなことを話し始めた。

「何年か前にこの神社では事故があってねぇ、まだ小学校に上がったばかりほどの小さな女の子が亡くなったそうよ。遊んでいる最中にこの階段から足を滑らせてねぇ、打ちどころが悪かったみたいで、まだ若いのに気の毒よねぇ。もしかしたらあなたにはその子の幽霊が見えたのかもしれないわねぇ。」

 私は息を呑んだ。それと同時に、激しい頭痛に襲われた。



思わずその場に座り込み、老婆に心配をかけまいと口を開く。

「もし私が出会ったのがその子だとしたら、その子はどうして私にだけ姿を現したんでしょう?」

「さぁ?本当のところはわからないけれど、あなたに話を聞いて欲しかったのかもしれないわねぇ。成仏したかったんじゃないかしら。」

「成仏……。」

 なぜ私なのだろうか、あの子が私に何か訴えかけていたから、ここの前を通るといつも頭痛がしたのだろうか。あの子が私に助けを求めているのなら、どうすれば成仏させてあげられるのだろうか。さまざまな考えが頭の中に浮かんでは消え、消えては浮かぶ。


「あなた、すごく顔色が悪いけど大丈夫……?」

 座り込んで黙り込む私に、老婆は眉間に皺をつくり、心配そうな面持ちでこちらを覗いている。

「少し頭痛がして……、大丈夫です。色々教えていただいてありがとうございました。」

「そう?大丈夫ならいいんだけど……。帰り道気をつけてね。」


 親切な老婆に手を振り、私は神社を後にする。あの場所を離れるとやはり頭痛は少しずつ引いていったが、まだ少し気分が悪いので、私は自転車を押しながら頭の中を整理することにした。


 数年前に亡くなった少女が、幽霊となって私の前に現れた。

 なんて、到底信じられない話だが、名前以外は何もかもが不明の少女、あの子が突然消えた理由や私の頭痛、理由を結びつけるには十分なことのように思えてならなかった。


 ––––未練があるから成仏できないのかな?


 だとしたらどんな未練だろう。若くして亡くなったのだからもっと生きたかったのは当然だろう。もしかしたらあの子は誰かに殺されて、その犯人が見つかっていないから成仏できないのだとしたら……。


 流石にそれは考えが飛躍しすぎな気もする。

 

 そうこうしているうちにいつの間にやらうちの前まで戻ってきていた。

 母の心配をよそに家を飛び出してきてしまったことを思い出す。うちに入って母にこれまでのことを話そう。余計に心配をかけることになるかもしれないが、何も言わないより幾分かマシだろう。もしかしたらあの神社について何か知っているかもしれない。


「ただいまー。」

「お帰りなさい、そんなボサボサの頭でどこいってたのよ?」

「んー、ちょっと散歩?」

「あら、健康的でいいわね」

 昨日と比べると私の顔は幾分か晴れやかになっていたのだろう。私の顔を見るなり、安堵の色が母の顔に浮かぶ。

「手洗ってご飯食べちゃいなさい。」

 食卓には私の分の朝食が用意されていた。


 まだ湯気が立ち上る味噌汁をゆっくりと口にし、私は母に尋ねる。

「お母さんさー、あそこの神社わかるー?」

 台所で食器を洗っている母の手がぴたりと止まる。

「うちの近くにある、狛川神社のこと……?」

 そう言いながら、母の表情が一瞬曇ったような気がした。


 ––––その神社のことで聞きたいんだけどさ


 私がそう言おうとした瞬間だった。

「あの神社には近づいちゃだめ……。」

 今まで聞いたことのないほど低く、くぐもった声で母は言った。



「え、どうして」

「いいからあそこには近づかないで!!」

 思わずこぼれた私の疑問に対し、母は激越な声口調で繰り返す。

 母のこんなに取り乱した姿を見るのは初めてだったため、私はかなり動揺した。

「大きい声を出してごめんなさい。でも、お願いだからあそこには近づかないで。この話ももうやめて。」

 そう言った母の身体は小刻みに震えており、目には涙が滲んでいた。

「そんなこと言われても、納得できない。せめて理由を教えてよ。」

 母は何かを知っている。そう感じた私は引き下がるわけにはいかないと思った。

「……神隠しに遭うからよ。」

 そう言って母は、逃げるようにリビングを後にした。


 神隠しなんて子供騙しで私を騙せるはずない。以前の私ならそう思っただろうが、先日の超常的な出来事を現実だと捉えるのであれば、神隠しというのもあながち子供騙しでもないのかもしれない。

 だが、いくらなんでも母があの神社について何も知らないなんて思えない。

 母は何かを隠している。それが一体何なのか、なぜ母が知っているのか。不明な点は多いが、これ以上は母に何か聞き出せそうもない。

 ネットで調べようにも、正確な発生日もわからない、こんな地方の事件や事故など、いくら探しても見つかるはずもない。


 ––––お父さんなら、何か知っているかもしれない。


 私は急いで父の書斎へと駆け込んだ。幸い今日は休日なので今は自室にいるはずだ。リビングを出ていった母は、庭の花に水をやっていることがリビングの窓から確認できた。そうしている方が気がまぎれるのだろう。母を一瞥し、私は二階にある父の書斎の扉を数回ノックする。


「入っていいぞ」

 父の了承を受け、私は書斎の扉を開け、扉に背を向けている父に声をかける。

「お父さん、ちょっといい?」

「どうしたんだ夕子。さっき母さんの大声が聞こえたが、何かあったのか?」

 父は私の方へ向き直り、まっすぐこちらを見つめ、私の返答を待っている。

「狛川神社のこと、何か知ってる?」

 その言葉を聞いて父は、顔をこわばらせる。私の口からその単語が出てくるのが意外だったのだろう。少しの沈黙の後、父は合点がいったような顔をし、ゆっくりと長い息を吐く。

「母さんが怒鳴った理由がわかった。どうしてあの神社のことが気になるんだ?」

 父は少し困ったように眉を顰めて、こちらの返答を待っていた。

 私はヨウコと名乗る少女のこと、昨日から今に至るまでの出来事を、ゆっくりと父に説明をした。父はあまりの衝撃に言葉が出ないようだったが、徐々に私の話を咀嚼し、長い沈黙の後、口を開いた。

「そうか、あの子が……。」

 私は確信した。この二人はあの私の求める答えを知っている。

 父はゆっくりと、思い出すように話を始めた。


 「落ち着いて聞いてほしい––––」


 父の話を聞き終え、私は家を飛び出した。制止する両親の声が後ろから聞こえてきたが、私の足は止まらなかった。何かに押されるようにあの場所に向かった。無我夢中で走った。肺が潰れるほどに、息も忘れるほどに走った。喉が、目頭が、とてつもなく熱かった。知らぬ間に蓋をしてしまっていたものが、堰を切ったように溢れ出した。全てを思い出した。あの日のこと、ヨウコのこと、母が私をあそこに近づけたくなかった理由、神隠しの意味、母があの花を植えた理由、全てを理解し、思い出した。


 ––––あの夢は私だったんだ……!しゃがんで泣いていたのは私だったんだ……!


 やがてあの階段が見えた。重い足で、あげることもままならない足で必死に階段を駆け上がる。鳥居をくぐると少女の––––陽子ヨウコの後ろ姿が見えた。


 息を整える間もなく、喘ぐように私はその少女に言葉を投げかける。

「全部思い出したよ!今まで忘れててごめんね、お姉ちゃん!」


 泣きじゃくる私の手に陽子が触れる。

「思い出してくれた、ゆうこ?」

 何度も何度も大きく首を縦に振り、何度も何度も謝罪の言葉を紡ぐ。

 私は思い出した、あの日のことを。陽子が––––姉が死んだ日のことを。


 ––––私たち姉妹はよくこの神社で遊んでいた。あの日は天気雨だった。

『風邪ひいちゃうし、危ないから、雨が止むまで雨宿りしていこうよ。』

 姉の制止に効く耳を持たず、私は一人でも家に帰ろうとした。

『大丈夫だよ、早く帰らないと楽しみにしてるテレビが終わっちゃう!』

 私は幼かったのだ。急いで階段を駆け降りようとした。ところどころ苔むした階段は雨粒のせいもあり、私の足を滑らせた。その私を庇い、陽子は階段から転げ落ちたのだ。私の身代わりに階下で血を流している陽子の姿を見て、私は一気に血の気が引いていくのを感じた。全身から冷や汗が吹き出し、心臓の音だけがバクバクと鮮明に聞こえる。慌てて陽子の元に駆け寄り、何度も声をかけたが、反応はない。幼い私は自責の念に駆られ、どうすれば良いかわからなくなり、その場でしゃがみ込み、泣きじゃくるしかなかった。

 やがて、日が暮れても帰ってこない私たちを心配した両親が、ずぶ濡れでただ肩を震わせて泣きじゃくる私と、その横でぴくりとも動かない陽子を発見したというわけだ。

 幼かった私は、あまりの出来事に、それ以前の記憶を欠落し、発見時の私の姿があまりにも痛々しかったためか、思い出して自責の念に押しつぶされないようにするためか、両親はそれ以来私が姉のことを思い出すことがないように努めてくれていたらしい。

 私の頭痛も、記憶を戻さないようにするための防衛本能のようなものだろう、と父は言っていた。––––


「ごめんね、ごめんねお姉ちゃん」

 あの日のように、しゃがみ込み、泣きじゃくる私の頭を小さな姉は優しく撫でてくれる。

「泣かないでゆうこ、自分を責めないで」

「ごめんね、私のこと恨んでるよね、そのせいでずっと成仏できずにいるんでしょ?」

 幼子のように泣きじゃくる私に、陽子は呆れたように優しい笑顔を向ける。

「恨んでなんかいないよ。伝えたかったの、ゆうこのせいじゃないよって。」

 陽子は、変わらず私の頭を撫でながら少しはにかんで続ける。

「それに、ずっと忘れたまんまでいられるのは寂しいから、私のことを思い出して欲しかったの。私は、ゆうこが幸せでいてくれたら、それでいいの。」

 陽子の言葉に、さらに涙が止め処なく溢れてくる。

「私、幸せだよ。高校生にもなって、親友だってできたよ!」

 私は、濡れ雑巾のようになった顔に精一杯の笑顔を作り、陽子に向ける。

「そう……、これからも幸せに生きてね。パパとママと仲良くするんだよ。私の分まで……しっかり、生きてね。」

 陽子はそう言って、ほっとしたような、穏やかな笑顔を私に向ける。

 その直後、陽子のからだは光に包まれ、足元からゆっくりと、光の粒子に変わっていく。

「待って、お姉ちゃん!私は、もっと話がしたいよ……!」

 いつまでも泣きじゃくる私をよそに、陽子であった光の粒は、少しずつ少しずつ、天へと昇っていき、泡沫のように消えていく。


 


 晴れ渡った青空の日に、大粒の雨粒が私の足元だけを濡らしていた。


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