第3章『5年間の沈黙』エド視点
馬車に打ち付ける、雨音が、激しくなってきた。車輪が回りすぎて、壊れそうな音を立てている。
シャロンが僕にしがみついている。
「エド……怖い」
「大丈夫」
僕は何度も同じ言葉を繰り返す。でも、僕自身が震えている。
◇
シャロンが結婚して、最初の1年は、月に1度は手紙が届いた。
「お元気にお過ごしでしょうか。」
「こちらは新しい生活にも慣れてきました。」
「夫は立派な方です。」
短い、社交的な手紙。でも、行間から彼女の書かなかった想いが滲んでいた。
僕も返事を書いた。
「元気にしています」
「こちらの白百合もきれいに咲いています。」
嘘だ。僕は元気じゃない。
「会いたい」「愛している」「幸せにならないでくれ」と書きたい。
——でも、それは書けなかった。
2年目、手紙が減った。
「ご無沙汰しております。」
「こちらは変わりません。」
文章が短くなり、行間から、彼女の孤独が感じられた。
「幸せではありません」と書かれている気がした。胸が締め付けられるような気持になる。
僕の方が壊れそうだった。彼女の短い文字を見るだけで。
僕以外の男と幸せになってもらいたくない。僕は最低だ。
3年目、ほとんど来なくなった。
「エド、元気ですか。私は、元気です。」
あぁ、シャロンは元気じゃないんだなと知る。でも、こんなことは望んでいなかった。
何かを飲み込むようにうつむく。
たった一行の手紙が、僕の毎日を支配した。
そして、4年目。
「シャロンから、手紙は?」
「いえ、ございません。」
執事は、毎朝の僕の問いかけに、毎朝丁寧に答えてくれた。
数か月がたち、心配になり、僕は叔父に手紙を書いた。
「シャロンは元気でしょうか。」と。
叔父からの返事は曖昧なものだった。
「元気にしているようです。」
いや、嘘だ。手紙が来ないのだ。元気なはずがない。大丈夫じゃない。わかっていたはずだ。
僕たちは、離れてはいけなかったのだ。
親族の集まりで、奥方たちが噂をしているのを耳にした。
「シャロン、まだ子ができないらしいわ。」
「もう4年よ。夫の家も、気にしているんじゃないかしら。」
「……こればっかりはね……。」
僕は拳を握りしめすぎて、手が白くなっている。
シャロンが、苦しんでいる。
それは分かった。
でも、僕には何もできない。他家の夫婦の問題だ。口出しできるはずがない。
5年目、さらに悪い噂が流れた。
「ところで、聞いた? シャロンの夫に愛人がいるらしいわよ。」
その言葉に、僕は息をのんだ。
「え? 本当なの?」
「ええ。しかも、身分の高い方だとか」
「まあ」
「未亡人らしいわ。美しい方だそうよ。」
僕は、グラスをギリリと握りしめる自分に気が付き、割ってしまう前に、グラスから手を離した。
シャロンの夫に、愛人。シャロンを手に入れておきながら。怒りで手が震える。
「それで、シャロンは?」
「気づいているでしょうね。でも、何も言えないでしょう。」
「可哀想に……。」
僕は、拳を握りしめた。全身の筋肉が緊張で震える。
君は、今、どんな想いで暮らしているんだ。感情が波立つ。
夫に愛されず。
子供もできず。
愛人の存在を知りながら、ただ耐えているのか。大丈夫だと抱きしめられない事実が胸を裂く。
「愛人に、子供が?」
「ええ。男の子と女の子、二人も。」
僕は、血の気が引いた。動けない沈黙が身体を縛る。
シャロンの夫は、他の女性に子供を産ませた。自分の心の声すら聞こえない。
「このままでは、離縁されるかもしれないわね。」
その言葉に、僕の心臓が跳ねた。心の動揺を悟られまいと胸を押さえる。
離縁。
シャロンが、戻ってくる?
——いや、違う。喜んではいけない。
離縁されるということは、シャロンが傷つくということだ。
僕は、痛みが胸の奥に広がる。
シャロン、君はどれほど、苦しんでいる?
僕は、いつだって、何もできない。
君が、幸せでありますようにと祈れるか?
——嘘だ。
本当は、君に戻ってきてほしい。
でも、それは君を苦しめることになる。
僕は、祈ることすらできない。どうすればいい?
書斎に戻り、僕は椅子に座り込んだ。
シャロンが、苦しんでいる。それは、分かった。
でも、結局、僕には何もできない。何度考えても、答えは同じだ。
どんなに、愛していたとしても。
僕は、何の権利もない。シャロンを守る権利も。シャロンを救う権利も。僕らは、ただの従兄妹だ。それ以上でも、それ以下でもない。
「くそ……。」
僕は、拳で机を叩いた。痛みが、手に走る。でも、痛みを感じる余裕さえ奪われていた。
シャロン。
ごめん。僕は、いつだって、君を守れない。君が苦しんでいるのに、何もできない。
そんな、ある日。
父に呼ばれた。
「エドモンド、そろそろお前も結婚してもいいだろう。」
僕は、何も感じなかった。
「相手は決めている。イリーナ・ハーウッド嬢だ。」
ハーウッド家は、有力な伯爵家だ。政略結婚として申し分ない。
「……分かりました。」
僕は、どんなに願っても叶わない状況で、抵抗する気力もなく、素直に従った。心の中で乾いた笑いが湧いてくる。
どうせ、誰と結婚しても同じだ。シャロンではない。それだけで、この結婚には意味がない。
「よろしい。では、来週、彼女と会ってもらう。」
父は満足そうに頷いた。
僕は、頬が硬く固まって動かないが、口角だけ軽く上げた。
数日後、イリーナと初めて会った。まっすぐ背筋を伸ばし端正に座っていた。
応接室に通されると、彼女は立ち上がって、きれいなお辞儀をした。
金色の髪。はじけるような笑顔。若草色のドレス。美しい人だった。
「初めまして、エドモンド様。」
彼女は緊張しながらも、明るく挨拶してくれた。
「……初めまして。」
僕は視線を落とし、静かに答えた。
心は何も感じなかった。
美しい、とは思った。
良い人そうだ、とも思った。
でも、それだけだった。
シャロンではない。それだけが、頭の中を占めていた。
彼女は、そっと花が咲くような微笑みを浮かべた。
僕も、ちゃんと笑顔を作った。
残念ながら、会話は、僕のせいでぎこちなかった。
彼女は一生懸命話しかけてくれる。
僕は、適当に相槌を打つ。
時間が、ゆっくりと過ぎた。
面会が終わり、彼女が帰った後。
僕は、何も覚えていなかった。
彼女が何を話したのか。
僕が何を答えたのか。
全て、上の空だった。
彼女が笑うたび、僕の胸の奥で何かが軋んだ。何かが壊れた音だと分かっている。
ただ、「シャロンではない」という事実だけが、胸に残った。
数ヶ月後、結婚式の日が来た。
僕は、誓いの言葉を述べた。
「彼女を愛し、守り、生涯をともに歩むことを誓いますか?」
「誓います。」胸の奥でなにかが折れた気がした。
嘘だ。
愛することなんてできない。
イリーナは、白いドレスを着ていた。ベールの向こうで、微笑んでいる。僕は、彼女にキスをした。唇に、触れた。
——違う。
シャロンではない。この感触は、シャロンではない。
式が終わり、披露宴。
イリーナは、嬉しそうにふんわりと微笑んでいた。
僕は、彼女の隣で泣き出しそうなのに微笑み返した。
心はここにない。
シャロンは、今頃どうしているのだろう。
——いや、考えるな。
それは、僕には関係ない。そして、考えても何もできない。
僕は、イリーナの夫だ。これから、彼女と生きていく。そう思うと、額の奥が痛むような、口元に微笑みが浮かんだ。
シャロンのことは、忘れなければならない。
——忘れられるはずがないが。
イリーナとの結婚生活が始まった。
父たちは僕に侯爵位を譲ると、近くの領地へと引っ越していった。
朝はイリーナと二人で、一緒に朝食を取ることになった。
「おはようございます。」
イリーナは、笑顔で挨拶してくれる。
「……おはよう」
僕は苦しさを誤魔化す笑みで応えた。
でも、会話は続かない。イリーナには悪いが、何も思い浮かばなかった。
イリーナは、何か話そうとする。侯爵家に来てからの感謝を述べてくれたりする。
でも、僕の反応が薄いと気づき、黙り込む。
気まずい沈黙が流れる。
カトラリーが、皿に当たる音だけが響く。
「……あの、お仕事、頑張ってください。」
イリーナが、小さく言う。
「ああ。ありがとう。」
僕は嬉しそうに頷いてみせた。
彼女は、また相手を大切に包むような微笑みを浮かべた。
僕が笑顔を返すと、彼女は安心したように、ほっと息をついた。
僕は、それに気づいていた。期待させてはいけないと思っていたが、不親切にもできなかった。
どうすることもできなかった。
◇
「今度、一緒に公園にでも出かけないか?」
僕は朝食の席で、イリーナに声をかけた。
父から「妻をもっと大切にしろ」と言われていた。侯爵家の当主として、妻を粗末に扱うのは良くないと。
イリーナの目が潤み、唇が震えた。
彼女は、本当に嬉しそうだった。
——ごめん。これは、愛じゃない。義務なんだ。
数日後、馬車が公園へと向かう。御者も、侍女も、騎士も、シャロン以外は全員同じ人間だ。
元気にふるまおうと、頑張ったが、すべての行動にシャロンを思い出してしまう。
窓の外の景色を見ながら、僕の胸は重かった。この道はシャロンと繰り返し往復した道だ。
僕の心とは関係なく、今日も気持ちいいくらいの晴天だ。
——なぜ、湖のある公園を選んでしまったんだ。
他にもっと、場所があっただろう。
でも、ここを選んでいた。
シャロンと二人、並木道で、白い花弁を集めたあの日々。
数えきれないほどに、あの湖で、ボートに乗った。
シャロンに、会いたかったのかもしれない。
せめて、思い出の中で。
馬車が止まった。僕は先に降りて、イリーナに手を差しだした。彼女の手が、僕の手に乗せられる。
シャロンは僕の手を取ると、抱き着くように、飛び降りてきたものだった。
イリーナは淑やかに、静かに、足台に足を下ろして、僕の手を握りしめるように確認しながら降りた。
——違う。
この手は、シャロンの手ではない。
柔らかさも、温度も、全てが違った。
僕は彼女を降ろすと、腕を差し出した。イリーナは、恥じらうように僕の腕に手を添えた。
イリーナは目元までやさしく緩めて微笑んだ。僕は一瞬息が止まるのではないかと思いつつ、口角をあげる。
僕が微笑むのを見ると、彼女はいつも安心したように再度微笑む。
二人で並木道を歩いた。風が吹くと、白い花弁がひらりと舞い上がった。
「綺麗ですね。」
イリーナが、嬉しそうに言う。
僕は、喉が締め付けられて、声にならない返事の代わりに頷いた。
でも、目の前に見えているのは、イリーナではなかった。
おろしたままの長い髪を揺らしながら、くるりと回りながら白い花弁を掴もうと、手を伸ばすシャロン。
「綺麗ね?」と言いながら、笑うシャロン。
吹き抜ける風の中、シャロンの声が、聞こえた。
——ああ、シャロン。
君は、今、どこにいる?
この花を、見ているだろうか。
不意に、視界がぼやけ、頬を伝って一筋の涙が滑る。
「旦那様?」
イリーナの声。
僕は、慌てて目元を拭った。
「ああ——目に何か入ったのかな。」
そう言って、誤魔化した。
イリーナは、どこか嬉しそうに僕を見上げている。僕がこの光景に感動しているのだと思ったのかもしれない。
——ごめん、イリーナ。
君は、何も悪くない。悪いのは、いつだって、僕だ。君の隣にいながら、別の人を想っている。最低な男だ。
小高い丘を越えると、湖が広がった。
「さあ、ボートに乗ろうか。」
僕はイリーナの手を取った。なのに、いつもシャロンと走っていったこの道についたら、足が走り始めてしまった。
気が付くと、息せき切ったイリーナが付いてきていた。イリーナは上気して嬉しそうにしている。
——この湖で、シャロンと何度ボートに乗っただろう。
僕がオールを漕いで、シャロンは水に手を入れて、僕に水しぶきをおくって笑っていた。
水面に映る光を見て、「綺麗」と言っていた。
イリーナを、ボートに乗せる。
彼女の手を取った瞬間、また、一瞬だけ、シャロンの顔が重なった。
僕は、ズキッと胸が震え、短く息を吸った。
イリーナは気づかない。嬉しそうに微笑んでいる。
僕は、オールを漕ぎ始めた。
ボートは、静かに進む。
水鳥が鳴いている。
水面を渡る風が、一瞬強く吹いた。イリーナの金色の髪が、風に飛ばされた。
——違う。
シャロンの髪は、もっと明るい金色だった。こんな風に、風になびいていた。
僕は、イリーナを見つめた。でも、見ているのは、彼女じゃない。シャロンの面影を、探している。
イリーナは、帽子を押さえながらこちらを見つめ返して、微笑んでいる。
その笑顔が、あまりにも無垢で。僕は、視線を逸らした。
——ごめん。
ボートから降りると、侍女のミーナが敷物を用意していた。
ピクニックボックスには、サンドイッチ、果物、紅茶。
「これは、キュウリだろ。こっちは、スモークサーモンとクリームチーズ。ローストビーフに、エッグマヨ。あと、ハムとマスタード。どれが好き?」
僕は、シャロンにしていたように、説明した。
——違う。
これは、シャロンとの時間だ。
イリーナとの時間じゃない。
「あの、キュウリのを。」
イリーナが、遠慮がちに言う。
僕は、サンドイッチを渡した。
「美味しい?」
イリーナは、目を細めて頷いた。
僕も頷き返したが、胸の奥が痛んだ。
——シャロンは、夫と一緒に、こうしてピクニックをしたのだろうか。
いや、考えるな。
「寒くないか?」
僕は、用意されていた膝掛けを広げ、イリーナの膝にかける。
その時、イリーナの手と、僕の手が触れた。
イリーナは、びくりと震えた。
頬が、赤く染まる。
——ああ、彼女は、僕を愛そうとしている。
でも、僕は応えられない。
僕の心は、シャロンだけのものだから。
その日、僕はイリーナを完璧にエスコートした。父に言われていた通り、夫として、当然のことをした。
でも、心はここになかった。ずっと、シャロンを想っていた。
イリーナ。すまない。
君は、何も悪くない。
悪いのは、僕だ。
◇
ある日、イリーナが花を部屋に飾った。
白百合の香りが部屋中に漂っている。
「庭に白百合がたくさん咲いていたので、飾ってみました。お好きですか?」
その言葉に、僕は凍りついた。声にならない返事の代わりに頷く。
白百合。
シャロンが、いつも髪に飾っていた。
庭園で、一緒に摘んだ。
湖で、ボートに乗った時も、持っていた。
「……ああ」
僕は、やっとの思いで答えた。でも、声が震えていた。
イリーナは、それに気づいたようだった。
「あの……何か、ご不快でしたか?」
彼女は、不安そうに聞く。
「いや、そんなことはない。」
僕は首を振った。
「綺麗だ。ありがとう。」
イリーナは、ほっとしたように温かく微笑んだ。
「それなら、良かったです。」
彼女は、嬉しそうに優しい足取りで部屋を出ていった。
僕は、絶望の中で、白百合を見つめた。
シャロン。
君は、今も白百合が好きだろうか。
君の庭にも、咲いているだろうか。
——考えるな。
僕は、頭を振った。
でも、シャロンのことが、頭から離れなかった。
夜、イリーナの寝室を訪れる。優しく、丁寧に扱う。夫としての義務を果たすと、侍女に任せて、部屋を去る。
触れているようで、触れていない。心はどこにもなかった。
僕の心は、シャロンだけのものだから。
イリーナは、いつだって幸せそうに目を閉じる。
でも、僕は——
心の中で、シャロンの名を呼んでいた。最低だな。
イリーナ。すまない。君を、愛せなくて。
でも、僕の心は、シャロンしか愛せないんだ。
シャロンも僕しか愛せない。
今、ここにいるのは、ただの抜け殻だ。
シャロンからの手紙が完全に途絶えている。
僕は、不安で眠れない夜が続いた。
シャロン、無事か?
君は、生きているのか?
そして——
ある日、手紙が来た。
「離縁されました。」
「実家に帰ります。」
その言葉に、僕の世界が揺れた。
胸の奥で圧し殺していた声が、一気に溢れ出しそうになった。
——シャロン、君はあの5年間、どれほど苦しんだのだろう。
君がいなくて、僕も生きているとは言えない日々だったよ。
◇
窓から、完全な暗闇が見える。馬車道の先にあった、谷に差し掛かっているのか。
「エド。」
シャロンが僕の胸にしがみつく。
「大丈夫、僕はもう君を離さないよ。」
「わたしもよ。」
僕は彼女を強く抱きしめる。
そして今、僕たちを乗せたこの馬車は――谷へと向かっている。




