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第3章『5年間の沈黙』エド視点

馬車に打ち付ける、雨音が、激しくなってきた。車輪が回りすぎて、壊れそうな音を立てている。

シャロンが僕にしがみついている。

「エド……怖い」

「大丈夫」

僕は何度も同じ言葉を繰り返す。でも、僕自身が震えている。



シャロンが結婚して、最初の1年は、月に1度は手紙が届いた。

「お元気にお過ごしでしょうか。」

「こちらは新しい生活にも慣れてきました。」

「夫は立派な方です。」

短い、社交的な手紙。でも、行間から彼女の書かなかった想いが滲んでいた。


僕も返事を書いた。

「元気にしています」

「こちらの白百合もきれいに咲いています。」


嘘だ。僕は元気じゃない。

「会いたい」「愛している」「幸せにならないでくれ」と書きたい。

——でも、それは書けなかった。


2年目、手紙が減った。

「ご無沙汰しております。」

「こちらは変わりません。」

文章が短くなり、行間から、彼女の孤独が感じられた。

「幸せではありません」と書かれている気がした。胸が締め付けられるような気持になる。

僕の方が壊れそうだった。彼女の短い文字を見るだけで。

僕以外の男と幸せになってもらいたくない。僕は最低だ。


3年目、ほとんど来なくなった。

「エド、元気ですか。私は、元気です。」

あぁ、シャロンは元気じゃないんだなと知る。でも、こんなことは望んでいなかった。

何かを飲み込むようにうつむく。

たった一行の手紙が、僕の毎日を支配した。


そして、4年目。

「シャロンから、手紙は?」

「いえ、ございません。」

執事は、毎朝の僕の問いかけに、毎朝丁寧に答えてくれた。


数か月がたち、心配になり、僕は叔父に手紙を書いた。

「シャロンは元気でしょうか。」と。


叔父からの返事は曖昧なものだった。

「元気にしているようです。」


いや、嘘だ。手紙が来ないのだ。元気なはずがない。大丈夫じゃない。わかっていたはずだ。

僕たちは、離れてはいけなかったのだ。


親族の集まりで、奥方たちが噂をしているのを耳にした。

「シャロン、まだ子ができないらしいわ。」

「もう4年よ。夫の家も、気にしているんじゃないかしら。」

「……こればっかりはね……。」


僕は拳を握りしめすぎて、手が白くなっている。

シャロンが、苦しんでいる。

それは分かった。

でも、僕には何もできない。他家の夫婦の問題だ。口出しできるはずがない。


5年目、さらに悪い噂が流れた。


「ところで、聞いた? シャロンの夫に愛人がいるらしいわよ。」

その言葉に、僕は息をのんだ。

「え? 本当なの?」

「ええ。しかも、身分の高い方だとか」

「まあ」

「未亡人らしいわ。美しい方だそうよ。」


僕は、グラスをギリリと握りしめる自分に気が付き、割ってしまう前に、グラスから手を離した。

シャロンの夫に、愛人。シャロンを手に入れておきながら。怒りで手が震える。


「それで、シャロンは?」

「気づいているでしょうね。でも、何も言えないでしょう。」

「可哀想に……。」


僕は、拳を握りしめた。全身の筋肉が緊張で震える。

君は、今、どんな想いで暮らしているんだ。感情が波立つ。

夫に愛されず。

子供もできず。

愛人の存在を知りながら、ただ耐えているのか。大丈夫だと抱きしめられない事実が胸を裂く。


「愛人に、子供が?」

「ええ。男の子と女の子、二人も。」


僕は、血の気が引いた。動けない沈黙が身体を縛る。

シャロンの夫は、他の女性に子供を産ませた。自分の心の声すら聞こえない。


「このままでは、離縁されるかもしれないわね。」

その言葉に、僕の心臓が跳ねた。心の動揺を悟られまいと胸を押さえる。


離縁。


シャロンが、戻ってくる?

——いや、違う。喜んではいけない。

離縁されるということは、シャロンが傷つくということだ。


僕は、痛みが胸の奥に広がる。

シャロン、君はどれほど、苦しんでいる?

僕は、いつだって、何もできない。


君が、幸せでありますようにと祈れるか?

——嘘だ。

本当は、君に戻ってきてほしい。

でも、それは君を苦しめることになる。

僕は、祈ることすらできない。どうすればいい?


書斎に戻り、僕は椅子に座り込んだ。


シャロンが、苦しんでいる。それは、分かった。


でも、結局、僕には何もできない。何度考えても、答えは同じだ。


どんなに、愛していたとしても。


僕は、何の権利もない。シャロンを守る権利も。シャロンを救う権利も。僕らは、ただの従兄妹だ。それ以上でも、それ以下でもない。


「くそ……。」


僕は、拳で机を叩いた。痛みが、手に走る。でも、痛みを感じる余裕さえ奪われていた。


シャロン。


ごめん。僕は、いつだって、君を守れない。君が苦しんでいるのに、何もできない。


そんな、ある日。


父に呼ばれた。

「エドモンド、そろそろお前も結婚してもいいだろう。」

僕は、何も感じなかった。

「相手は決めている。イリーナ・ハーウッド嬢だ。」


ハーウッド家は、有力な伯爵家だ。政略結婚として申し分ない。


「……分かりました。」


僕は、どんなに願っても叶わない状況で、抵抗する気力もなく、素直に従った。心の中で乾いた笑いが湧いてくる。

どうせ、誰と結婚しても同じだ。シャロンではない。それだけで、この結婚には意味がない。


「よろしい。では、来週、彼女と会ってもらう。」


父は満足そうに頷いた。

僕は、頬が硬く固まって動かないが、口角だけ軽く上げた。


数日後、イリーナと初めて会った。まっすぐ背筋を伸ばし端正に座っていた。

応接室に通されると、彼女は立ち上がって、きれいなお辞儀をした。


金色の髪。はじけるような笑顔。若草色のドレス。美しい人だった。


「初めまして、エドモンド様。」

彼女は緊張しながらも、明るく挨拶してくれた。


「……初めまして。」

僕は視線を落とし、静かに答えた。


心は何も感じなかった。

美しい、とは思った。

良い人そうだ、とも思った。

でも、それだけだった。


シャロンではない。それだけが、頭の中を占めていた。


彼女は、そっと花が咲くような微笑みを浮かべた。

僕も、ちゃんと笑顔を作った。

残念ながら、会話は、僕のせいでぎこちなかった。

彼女は一生懸命話しかけてくれる。

僕は、適当に相槌を打つ。


時間が、ゆっくりと過ぎた。

面会が終わり、彼女が帰った後。

僕は、何も覚えていなかった。

彼女が何を話したのか。

僕が何を答えたのか。

全て、上の空だった。


彼女が笑うたび、僕の胸の奥で何かが軋んだ。何かが壊れた音だと分かっている。

ただ、「シャロンではない」という事実だけが、胸に残った。


数ヶ月後、結婚式の日が来た。

僕は、誓いの言葉を述べた。

「彼女を愛し、守り、生涯をともに歩むことを誓いますか?」

「誓います。」胸の奥でなにかが折れた気がした。

嘘だ。

愛することなんてできない。


イリーナは、白いドレスを着ていた。ベールの向こうで、微笑んでいる。僕は、彼女にキスをした。唇に、触れた。


——違う。

シャロンではない。この感触は、シャロンではない。


式が終わり、披露宴。

イリーナは、嬉しそうにふんわりと微笑んでいた。

僕は、彼女の隣で泣き出しそうなのに微笑み返した。

心はここにない。


シャロンは、今頃どうしているのだろう。

——いや、考えるな。

それは、僕には関係ない。そして、考えても何もできない。

僕は、イリーナの夫だ。これから、彼女と生きていく。そう思うと、額の奥が痛むような、口元に微笑みが浮かんだ。


シャロンのことは、忘れなければならない。

——忘れられるはずがないが。


イリーナとの結婚生活が始まった。

父たちは僕に侯爵位を譲ると、近くの領地へと引っ越していった。

朝はイリーナと二人で、一緒に朝食を取ることになった。

「おはようございます。」

イリーナは、笑顔で挨拶してくれる。

「……おはよう」

僕は苦しさを誤魔化す笑みで応えた。


でも、会話は続かない。イリーナには悪いが、何も思い浮かばなかった。

イリーナは、何か話そうとする。侯爵家に来てからの感謝を述べてくれたりする。

でも、僕の反応が薄いと気づき、黙り込む。

気まずい沈黙が流れる。


カトラリーが、皿に当たる音だけが響く。

「……あの、お仕事、頑張ってください。」

イリーナが、小さく言う。

「ああ。ありがとう。」

僕は嬉しそうに頷いてみせた。

彼女は、また相手を大切に包むような微笑みを浮かべた。


僕が笑顔を返すと、彼女は安心したように、ほっと息をついた。

僕は、それに気づいていた。期待させてはいけないと思っていたが、不親切にもできなかった。

どうすることもできなかった。



「今度、一緒に公園にでも出かけないか?」

僕は朝食の席で、イリーナに声をかけた。

父から「妻をもっと大切にしろ」と言われていた。侯爵家の当主として、妻を粗末に扱うのは良くないと。

イリーナの目が潤み、唇が震えた。

彼女は、本当に嬉しそうだった。

——ごめん。これは、愛じゃない。義務なんだ。


数日後、馬車が公園へと向かう。御者も、侍女も、騎士も、シャロン以外は全員同じ人間だ。

元気にふるまおうと、頑張ったが、すべての行動にシャロンを思い出してしまう。


窓の外の景色を見ながら、僕の胸は重かった。この道はシャロンと繰り返し往復した道だ。

僕の心とは関係なく、今日も気持ちいいくらいの晴天だ。


——なぜ、湖のある公園を選んでしまったんだ。

他にもっと、場所があっただろう。

でも、ここを選んでいた。


シャロンと二人、並木道で、白い花弁を集めたあの日々。

数えきれないほどに、あの湖で、ボートに乗った。


シャロンに、会いたかったのかもしれない。

せめて、思い出の中で。


馬車が止まった。僕は先に降りて、イリーナに手を差しだした。彼女の手が、僕の手に乗せられる。

シャロンは僕の手を取ると、抱き着くように、飛び降りてきたものだった。

イリーナは淑やかに、静かに、足台に足を下ろして、僕の手を握りしめるように確認しながら降りた。


——違う。

この手は、シャロンの手ではない。

柔らかさも、温度も、全てが違った。


僕は彼女を降ろすと、腕を差し出した。イリーナは、恥じらうように僕の腕に手を添えた。

イリーナは目元までやさしく緩めて微笑んだ。僕は一瞬息が止まるのではないかと思いつつ、口角をあげる。

僕が微笑むのを見ると、彼女はいつも安心したように再度微笑む。


二人で並木道を歩いた。風が吹くと、白い花弁がひらりと舞い上がった。

「綺麗ですね。」

イリーナが、嬉しそうに言う。

僕は、喉が締め付けられて、声にならない返事の代わりに頷いた。


でも、目の前に見えているのは、イリーナではなかった。

おろしたままの長い髪を揺らしながら、くるりと回りながら白い花弁を掴もうと、手を伸ばすシャロン。

「綺麗ね?」と言いながら、笑うシャロン。

吹き抜ける風の中、シャロンの声が、聞こえた。

——ああ、シャロン。

君は、今、どこにいる?

この花を、見ているだろうか。

不意に、視界がぼやけ、頬を伝って一筋の涙が滑る。


「旦那様?」

イリーナの声。

僕は、慌てて目元を拭った。

「ああ——目に何か入ったのかな。」

そう言って、誤魔化した。


イリーナは、どこか嬉しそうに僕を見上げている。僕がこの光景に感動しているのだと思ったのかもしれない。


——ごめん、イリーナ。

君は、何も悪くない。悪いのは、いつだって、僕だ。君の隣にいながら、別の人を想っている。最低な男だ。


小高い丘を越えると、湖が広がった。

「さあ、ボートに乗ろうか。」

僕はイリーナの手を取った。なのに、いつもシャロンと走っていったこの道についたら、足が走り始めてしまった。

気が付くと、息せき切ったイリーナが付いてきていた。イリーナは上気して嬉しそうにしている。


——この湖で、シャロンと何度ボートに乗っただろう。

僕がオールを漕いで、シャロンは水に手を入れて、僕に水しぶきをおくって笑っていた。

水面に映る光を見て、「綺麗」と言っていた。


イリーナを、ボートに乗せる。

彼女の手を取った瞬間、また、一瞬だけ、シャロンの顔が重なった。

僕は、ズキッと胸が震え、短く息を吸った。

イリーナは気づかない。嬉しそうに微笑んでいる。


僕は、オールを漕ぎ始めた。

ボートは、静かに進む。

水鳥が鳴いている。

水面を渡る風が、一瞬強く吹いた。イリーナの金色の髪が、風に飛ばされた。

——違う。

シャロンの髪は、もっと明るい金色だった。こんな風に、風になびいていた。


僕は、イリーナを見つめた。でも、見ているのは、彼女じゃない。シャロンの面影を、探している。

イリーナは、帽子を押さえながらこちらを見つめ返して、微笑んでいる。

その笑顔が、あまりにも無垢で。僕は、視線を逸らした。

——ごめん。


ボートから降りると、侍女のミーナが敷物を用意していた。

ピクニックボックスには、サンドイッチ、果物、紅茶。

「これは、キュウリだろ。こっちは、スモークサーモンとクリームチーズ。ローストビーフに、エッグマヨ。あと、ハムとマスタード。どれが好き?」

僕は、シャロンにしていたように、説明した。


——違う。

これは、シャロンとの時間だ。

イリーナとの時間じゃない。

「あの、キュウリのを。」

イリーナが、遠慮がちに言う。

僕は、サンドイッチを渡した。

「美味しい?」

イリーナは、目を細めて頷いた。

僕も頷き返したが、胸の奥が痛んだ。


——シャロンは、夫と一緒に、こうしてピクニックをしたのだろうか。

いや、考えるな。


「寒くないか?」

僕は、用意されていた膝掛けを広げ、イリーナの膝にかける。

その時、イリーナの手と、僕の手が触れた。

イリーナは、びくりと震えた。

頬が、赤く染まる。

——ああ、彼女は、僕を愛そうとしている。

でも、僕は応えられない。

僕の心は、シャロンだけのものだから。


その日、僕はイリーナを完璧にエスコートした。父に言われていた通り、夫として、当然のことをした。

でも、心はここになかった。ずっと、シャロンを想っていた。


イリーナ。すまない。

君は、何も悪くない。

悪いのは、僕だ。



ある日、イリーナが花を部屋に飾った。

白百合の香りが部屋中に漂っている。

「庭に白百合がたくさん咲いていたので、飾ってみました。お好きですか?」


その言葉に、僕は凍りついた。声にならない返事の代わりに頷く。

白百合。

シャロンが、いつも髪に飾っていた。

庭園で、一緒に摘んだ。

湖で、ボートに乗った時も、持っていた。


「……ああ」

僕は、やっとの思いで答えた。でも、声が震えていた。

イリーナは、それに気づいたようだった。

「あの……何か、ご不快でしたか?」

彼女は、不安そうに聞く。

「いや、そんなことはない。」

僕は首を振った。

「綺麗だ。ありがとう。」

イリーナは、ほっとしたように温かく微笑んだ。

「それなら、良かったです。」

彼女は、嬉しそうに優しい足取りで部屋を出ていった。

僕は、絶望の中で、白百合を見つめた。


シャロン。

君は、今も白百合が好きだろうか。

君の庭にも、咲いているだろうか。


——考えるな。

僕は、頭を振った。

でも、シャロンのことが、頭から離れなかった。


夜、イリーナの寝室を訪れる。優しく、丁寧に扱う。夫としての義務を果たすと、侍女に任せて、部屋を去る。

触れているようで、触れていない。心はどこにもなかった。

僕の心は、シャロンだけのものだから。


イリーナは、いつだって幸せそうに目を閉じる。

でも、僕は——

心の中で、シャロンの名を呼んでいた。最低だな。


イリーナ。すまない。君を、愛せなくて。

でも、僕の心は、シャロンしか愛せないんだ。

シャロンも僕しか愛せない。

今、ここにいるのは、ただの抜け殻だ。


シャロンからの手紙が完全に途絶えている。

僕は、不安で眠れない夜が続いた。

シャロン、無事か?

君は、生きているのか?


そして——

ある日、手紙が来た。


「離縁されました。」

「実家に帰ります。」

その言葉に、僕の世界が揺れた。

胸の奥で圧し殺していた声が、一気に溢れ出しそうになった。


——シャロン、君はあの5年間、どれほど苦しんだのだろう。

君がいなくて、僕も生きているとは言えない日々だったよ。



窓から、完全な暗闇が見える。馬車道の先にあった、谷に差し掛かっているのか。

「エド。」

シャロンが僕の胸にしがみつく。

「大丈夫、僕はもう君を離さないよ。」

「わたしもよ。」

僕は彼女を強く抱きしめる。


そして今、僕たちを乗せたこの馬車は――谷へと向かっている。


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