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第2章『奪われた未来』エド視点

馬車が、何かにぶつかったのか、激しく揺れた。

シャロンが小さく悲鳴を上げる。僕は震える彼女を抱きしめる。


「大丈夫、僕が一緒だ。」

何度も、同じ言葉を繰り返す。

大丈夫なんかじゃない。僕たちは、谷へ落ちていく。


——それでも、君と一緒なら。


あの日、僕は君を手放してしまった。でも、今は違う。最期まで、君を離さない。



あの夜から、数週間が経った。


僕とシャロンは、あの夜以来、顔を見るたび、庭園でのことを思い出す。


彼女の頬に触れた感触、指に絡む彼女の髪。唇の感触、温もり、月明かりに揺れる瞳。

全てが、鮮明に蘇る。


廊下で会うと、シャロンは頬を染めて俯く。僕も、言葉を失って固まってしまう。


「おはよう。」

シャロンが恥じらうように小さく言う。

「……ああ。」

僕は情けないにも程があると思うが、喉の奥が硬くなるようになって、声が出なかった。


彼女の声が聞こえる、僕の名を呼ぶ、それだけで、胸が苦しくなる。



ある朝、執事が僕の部屋にやってきた。従僕ではなく、執事が来るというのは、これまでになかったことだ。

「旦那様がお呼びです。皆様もお集まりです。」


書斎に行くと、父と叔父、それに親族の年長者たち数人が、硬い顔をして座っていた。

何か、重大な話があるのだと直感した。


「エドモンド、座りなさい。」

父の声は、いつもより低かった。

僕は言われた通り、父のそばの椅子に座った。

胸騒ぎがした。


「シャロンの縁談が、決まった。」

叔父の言葉に、僕の心臓は止まったような気がした。


「ウェストン侯爵家の嫡男だ。立派な縁談だよ。」

父は嬉しそうに言った。でも、その目は笑っておらず、僕を見ていた。じっと、値踏みするように。

僕は何も言えなかった。言葉を探しながら呼吸が揺れる。ほんの小さな息で喉が震える。


シャロンの縁談。

シャロンが、結婚する。

その言葉だけが、頭の中でぐるぐると回る。気が遠くなりそうだった。


「エドモンド。」

祖父の弟が口を開いた。

「君も、もう大人だ。分かるだろう?」


分かっている。でも、分からない。何を分かれというのだ。

僕とシャロンは、結婚できない。血が近すぎるからだ。レーヴェンツ家では、それは許されない。

喉が怒りで張りつめたように動かない。


「……はい。」

絞りだした声が、震えた。


「シャロンにも、幸せになってもらわねばならん。」

「君にも、いずれ良縁を用意する。心配するな。」

シャロン以外の誰かと。

僕は拳を硬く握りしめた。爪が震えながら、手のひらに食い込む。


「エドモンド」

父が、低く言った。

「お前は、理解しているな?」

その声には、警告が込められていた。


“これ以上、シャロンに近づくな。”

“あの夜のことは、知っている。”

“だから、引き離す。”


僕は思いを飲み込むように息を止める。


「……はい。理解しています」

僕は静かに答えた。目の前で大切なものが崩れていく気がした。

「よろしい。では、従兄弟として、祝福してやってくれ」


祝福。

その言葉が、胸を引き裂く。

「……はい。もちろんです」

僕はただ、眉が固まりながらも、口角を上げた。できたのは、それだけだ。


「では、下がっていい」


僕は立ち上がり、礼をして、書斎を出た。

廊下に出ると、両足が震えていた。ふらつきながら、壁に手をついて、短く切れる息を整える。

シャロンが、他人のものになる。

その現実はひどく重くて、胸の奥で鈍い音を立てて落ちていった。


「エド……。」

後ろから、声がした。

振り返ると、叔母が心配そうに僕を見つめている。シャロンの母だ。


「……叔母様。」

「ごめんなさいね、エド。」

その言葉に、僕は呼吸がひどく細くなる。

知られていた。僕が、シャロンを愛していることを。


叔母は何も言わず、ただ僕の肩に手を置いた。その手が、わずかに震えていた。

「……どうしようもないのよ。分かってちょうだい。」

彼女の声も、震えていた。

「もう、あの子には近づかないであげて。お願い。」

それは、懇願だった。

僕は頷くしかなかった。


叔母は、そっと僕の肩から手を離し、去っていった。

僕は、その場に立ち尽くした。


部屋に戻り、扉を閉めた瞬間、膝から崩れ落ちた。

シャロンが、他人のものになる。鼓動が苦しさとともに震える。

僕は、何もできない。体の中心からゆっくり熱が消えていく。

ただ、祝福するしかない。叫びたいのに、沈黙が口を塞ぐ。


「シャロン……」


名前を呼んだ。僕だけがいる部屋で、ただ彼女の名を。


なぜ、僕じゃないんだ。頭を垂れたまま、声もでない。

なぜ、僕ではだめなんだ。時間さえ止まったような静けさが広がっている。


——あのキスが、いけなかったのか?

見られたから、急いで引き離すことにしたのか?


それなら、僕のせいだ。

僕が、君にキスなんてしなければ。

でも、後悔はしていない。

あの瞬間は、確かに幸せだった。



馬車が、さらに傾く。

シャロンの体が、僕に押し付けられる。

僕は彼女を抱きしめる。

あの日、僕は君を手放してしまった。16歳の僕には、何もできなかった。

親族に逆らう力も、君を連れて逃げる勇気も、なかった。

ただ、ぎこちない笑みで祝福するしかできなかった。


でも、今は違う。

今は、君と一緒にいる。

最期まで、君を離さない。



数日後、僕はシャロンに会いに行った。

庭園で、彼女は白いドレスを着て立っていた。風が吹くと、スカートの裾が揺れた。あの日と同じように。


「エド」

彼女は笑顔で振り返った。でも、その笑顔は少し強張っていた。

「おめでとう」

僕は言った。声が、他人のように聞こえた。

「……ありがとう」

シャロンは俯いた。


「あなたも、私ではない人と結婚するのかしら。」

シャロンは僕の手を取った。小さな、温かい手。あの夏の日、初めて繋いだ手。

心の中で叫んでいた。

君以外の誰と結婚しても、意味がない。

君がいなければ、僕の人生に意味はない。



「ねえ、エド」

シャロンが、僕を見上げた。その瞳が、潤んでいた。

「あの夜のこと……」


僕の心臓が、跳ねた。


「……忘れないで。」

シャロンは、無理に笑った。

「……忘れられないよ。」

その言葉を言うのに、全ての力を使った。

シャロンは、ほっとしたように微笑んだ。でも、その目は泣いていた。



僕たちは叔母が望むように、距離を取るようになった。元々、シャロンが侯爵家に来なければ、会う機会なんてなかった。シャロンは、侯爵家には来なくなった。


でも、侯爵邸のどこにいても、シャロンの姿が目に浮かぶ。

白百合の群生地を見れば、白百合を髪にさして微笑むシャロンが目に浮かぶ。

裏の林を歩けば、落ち葉を踏む音を楽しんで、二人で走り回ったことを思い出す。

家庭教師の授業を受ければ、隣にいないシャロンに話しかけてしまい、いないことに気が付く。


あの頃の僕は、シャロンを失って、少しずつ壊れ始めていたのかもしれない。


月日は過ぎていった。


シャロンは結婚の準備をしているらしい。

使用人たちの会話で知った。


「シャロン様、ウェディングドレスの仮縫いに行かれたそうよ。」

「白いドレス、お似合いでしょうね。」


僕は、立ったまま、沈黙に沈み込む。ハッと気が付くと、その場を去った。


シャロンが、花嫁になる。

他の男の、花嫁に。


その事実が、日に日に現実味を帯びてくる。


ある日、窓から庭園を見下ろすと、シャロンが歩いているのが見えた。

叔母と一緒だった。


シャロンは、何かを話しながら、叔母に微笑んでいた。

でも、その笑顔は、以前より薄かった。


僕は、シャロンから目が離せなかった。無言のまま涙だけが流れる。涙で、シャロンが見えなくなった。


時間だけが、容赦なく過ぎていく。


屋敷でシャロンを見かけるたびに、式が近づいていくと感じ、悲しみを押し込めようとした。



あっという間に、シャロンの結婚式の日がやってきた。

侯爵邸から近い大きな聖堂で挙式は行われ、その後、侯爵邸で披露宴が行われる予定になっていた。


結婚式の朝。僕の胸の重さを知らぬように、空はあまりに晴れ渡っていた。

僕は鏡の前に立っていた。従僕が、正装を着せてくれる。動揺を悟られぬよう呼吸を整える。


黒いフロックコート。

白いシャツ。

ネクタイを結ぶ。


鏡に映る自分が、他人のように見えた。心の中に静かな地鳴りのような沈黙が落ちる。

「坊ちゃま、お顔色が優れませんが・・・・・・。」

従僕が心配そうに声をかけてくる。

「――大丈夫だ。」

僕は答えた。嘘だ。今にも倒れそうな心境だ。笑いがこみ上げそうだ。


行きたくない。

シャロンが、他の男のものになる瞬間を、見たくない。何の罰ゲームだ?

でも、行かなければならない。

レーヴェンツ侯爵家の嫡男として。

従兄弟として。


僕は、深く息を吸った。

そして、部屋を出た。


式に参列して、祝福しなくてはならない。

そんなことが、できるとは思えないが。僕はそれらしく振舞うことを期待されている。


僕たちは18歳になっていた。


シャロンは金色の髪を結い上げ、レースの床にまで広がる長いベールをしていた。白いシンプルなドレスに、手元には白百合が束ねられてブーケになっていた。もう、視線が交わせるほどの距離へ、寄ることさえもさせてもらえない。なら、参加させなければいいのに、それは違うようだった。


式が始まる。


「リチャード・ウェストン。あなたは、シャロンを妻とし、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、彼女を愛し、守り、生涯をともに歩むことを誓いますか?」

「誓います。」

「シャロン・レーヴェンツ。あなたは、リチャードを夫とし、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、彼を愛し、守り、生涯をともに歩むことを誓いますか?」

「誓います。」


「ここに結ばれし誓いの証として――互いに口づけを交わしなさい。」


男が、シャロンのベールをあげて、キスを落とした。


身動きが付かなかった。体温が消えていくのを、ただ感じていた。心臓を掴まれたみたいに胸に冷たい痛みがする。鼓動だけが妙に遠く感じる。体が自分のものではないみたいだった。心の奥で、何かが静かに崩れた。


その後、僕はちゃんと微笑めていたのだろうか。誰にも叱られなかったから、できていたのだろう。


シャロンは新婦として、始終、緊張した顔をしていた。


披露宴では、シャロンは夫の隣に座っていた。

男が、シャロンの肩に手を置く。

シャロンの手を取る。

頬にキスをする。


そのたび、僕の心は引き裂かれた。

でも、僕は微笑み続けた。

誰も、僕の苦しみに気づかなかったようだ。


披露宴が終わり、シャロンは馬車に乗り込んだ。

出発の直前、シャロンが振り返った。

僕たちの視線が、お互いに吸い寄せられるように見つめあった。

シャロンの目からは、滴がぽたぽた落ちる。

誰もが家を離れるさみしさを泣いていると思っただろう。でも僕にはわかる。

僕たちは一体だったのだ。離れることなどできない。


僕は、手を振った。僕は、泣いている君に、何もできない、最低な男だ。


さようなら、シャロン。

幸せになってほしくない。

馬車が動き出し、遠ざかっていく。


シャロンが、僕の人生から消えていく。

僕は、その場に立ち尽くした。



僕はほとんど食べられなくなった。

夜も寝られなくなった。


「エドモンドは大丈夫か?」

父が扉の向こうで母に尋ねている。

「・・・・・・大丈夫には見えませんよ。」

「・・・・・・そうだな。」

「なぜ、式に参加させたのですか!」

「嫡男だから仕方ないだろう。それに、・・・・・・始終、微笑んでいたじゃないか。」


シャロンとの日々が、走馬灯のように繰り返し映し出された。

本当に触れていると思うほどの、現実感を伴って、シャロンがそこにはいた。

逆に、現実の方の現実感が薄れていった。

たまに母がやってきた。心配をかけているのはわかるが、どうしようもなかった。


言葉が全部、後悔に溶けていく。足が一歩も前に出ない。体が沈むように重い。立っていられないほど胸が痛む。心臓の鼓動が苦しくて、呼吸が乱れる。空気ごと絶望に凍りついたようだった。



窓から、暗闇が見える。樹々ではなく、吸い込まれそうなほどの暗闇だ。谷があるのか。

「エド!」

シャロンが僕の胸にしがみつく。

「大丈夫、僕と一緒だ。」

僕は彼女を強く抱きしめる。


あの日、決めたんだ。


もう、君を手放すなんてことは絶対にしない。



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