第2章『奪われた未来』エド視点
馬車が、何かにぶつかったのか、激しく揺れた。
シャロンが小さく悲鳴を上げる。僕は震える彼女を抱きしめる。
「大丈夫、僕が一緒だ。」
何度も、同じ言葉を繰り返す。
大丈夫なんかじゃない。僕たちは、谷へ落ちていく。
——それでも、君と一緒なら。
あの日、僕は君を手放してしまった。でも、今は違う。最期まで、君を離さない。
◇
あの夜から、数週間が経った。
僕とシャロンは、あの夜以来、顔を見るたび、庭園でのことを思い出す。
彼女の頬に触れた感触、指に絡む彼女の髪。唇の感触、温もり、月明かりに揺れる瞳。
全てが、鮮明に蘇る。
廊下で会うと、シャロンは頬を染めて俯く。僕も、言葉を失って固まってしまう。
「おはよう。」
シャロンが恥じらうように小さく言う。
「……ああ。」
僕は情けないにも程があると思うが、喉の奥が硬くなるようになって、声が出なかった。
彼女の声が聞こえる、僕の名を呼ぶ、それだけで、胸が苦しくなる。
◇
ある朝、執事が僕の部屋にやってきた。従僕ではなく、執事が来るというのは、これまでになかったことだ。
「旦那様がお呼びです。皆様もお集まりです。」
書斎に行くと、父と叔父、それに親族の年長者たち数人が、硬い顔をして座っていた。
何か、重大な話があるのだと直感した。
「エドモンド、座りなさい。」
父の声は、いつもより低かった。
僕は言われた通り、父のそばの椅子に座った。
胸騒ぎがした。
「シャロンの縁談が、決まった。」
叔父の言葉に、僕の心臓は止まったような気がした。
「ウェストン侯爵家の嫡男だ。立派な縁談だよ。」
父は嬉しそうに言った。でも、その目は笑っておらず、僕を見ていた。じっと、値踏みするように。
僕は何も言えなかった。言葉を探しながら呼吸が揺れる。ほんの小さな息で喉が震える。
シャロンの縁談。
シャロンが、結婚する。
その言葉だけが、頭の中でぐるぐると回る。気が遠くなりそうだった。
「エドモンド。」
祖父の弟が口を開いた。
「君も、もう大人だ。分かるだろう?」
分かっている。でも、分からない。何を分かれというのだ。
僕とシャロンは、結婚できない。血が近すぎるからだ。レーヴェンツ家では、それは許されない。
喉が怒りで張りつめたように動かない。
「……はい。」
絞りだした声が、震えた。
「シャロンにも、幸せになってもらわねばならん。」
「君にも、いずれ良縁を用意する。心配するな。」
シャロン以外の誰かと。
僕は拳を硬く握りしめた。爪が震えながら、手のひらに食い込む。
「エドモンド」
父が、低く言った。
「お前は、理解しているな?」
その声には、警告が込められていた。
“これ以上、シャロンに近づくな。”
“あの夜のことは、知っている。”
“だから、引き離す。”
僕は思いを飲み込むように息を止める。
「……はい。理解しています」
僕は静かに答えた。目の前で大切なものが崩れていく気がした。
「よろしい。では、従兄弟として、祝福してやってくれ」
祝福。
その言葉が、胸を引き裂く。
「……はい。もちろんです」
僕はただ、眉が固まりながらも、口角を上げた。できたのは、それだけだ。
「では、下がっていい」
僕は立ち上がり、礼をして、書斎を出た。
廊下に出ると、両足が震えていた。ふらつきながら、壁に手をついて、短く切れる息を整える。
シャロンが、他人のものになる。
その現実はひどく重くて、胸の奥で鈍い音を立てて落ちていった。
「エド……。」
後ろから、声がした。
振り返ると、叔母が心配そうに僕を見つめている。シャロンの母だ。
「……叔母様。」
「ごめんなさいね、エド。」
その言葉に、僕は呼吸がひどく細くなる。
知られていた。僕が、シャロンを愛していることを。
叔母は何も言わず、ただ僕の肩に手を置いた。その手が、わずかに震えていた。
「……どうしようもないのよ。分かってちょうだい。」
彼女の声も、震えていた。
「もう、あの子には近づかないであげて。お願い。」
それは、懇願だった。
僕は頷くしかなかった。
叔母は、そっと僕の肩から手を離し、去っていった。
僕は、その場に立ち尽くした。
部屋に戻り、扉を閉めた瞬間、膝から崩れ落ちた。
シャロンが、他人のものになる。鼓動が苦しさとともに震える。
僕は、何もできない。体の中心からゆっくり熱が消えていく。
ただ、祝福するしかない。叫びたいのに、沈黙が口を塞ぐ。
「シャロン……」
名前を呼んだ。僕だけがいる部屋で、ただ彼女の名を。
なぜ、僕じゃないんだ。頭を垂れたまま、声もでない。
なぜ、僕ではだめなんだ。時間さえ止まったような静けさが広がっている。
——あのキスが、いけなかったのか?
見られたから、急いで引き離すことにしたのか?
それなら、僕のせいだ。
僕が、君にキスなんてしなければ。
でも、後悔はしていない。
あの瞬間は、確かに幸せだった。
◇
馬車が、さらに傾く。
シャロンの体が、僕に押し付けられる。
僕は彼女を抱きしめる。
あの日、僕は君を手放してしまった。16歳の僕には、何もできなかった。
親族に逆らう力も、君を連れて逃げる勇気も、なかった。
ただ、ぎこちない笑みで祝福するしかできなかった。
でも、今は違う。
今は、君と一緒にいる。
最期まで、君を離さない。
◇
数日後、僕はシャロンに会いに行った。
庭園で、彼女は白いドレスを着て立っていた。風が吹くと、スカートの裾が揺れた。あの日と同じように。
「エド」
彼女は笑顔で振り返った。でも、その笑顔は少し強張っていた。
「おめでとう」
僕は言った。声が、他人のように聞こえた。
「……ありがとう」
シャロンは俯いた。
「あなたも、私ではない人と結婚するのかしら。」
シャロンは僕の手を取った。小さな、温かい手。あの夏の日、初めて繋いだ手。
心の中で叫んでいた。
君以外の誰と結婚しても、意味がない。
君がいなければ、僕の人生に意味はない。
「ねえ、エド」
シャロンが、僕を見上げた。その瞳が、潤んでいた。
「あの夜のこと……」
僕の心臓が、跳ねた。
「……忘れないで。」
シャロンは、無理に笑った。
「……忘れられないよ。」
その言葉を言うのに、全ての力を使った。
シャロンは、ほっとしたように微笑んだ。でも、その目は泣いていた。
◇
僕たちは叔母が望むように、距離を取るようになった。元々、シャロンが侯爵家に来なければ、会う機会なんてなかった。シャロンは、侯爵家には来なくなった。
でも、侯爵邸のどこにいても、シャロンの姿が目に浮かぶ。
白百合の群生地を見れば、白百合を髪にさして微笑むシャロンが目に浮かぶ。
裏の林を歩けば、落ち葉を踏む音を楽しんで、二人で走り回ったことを思い出す。
家庭教師の授業を受ければ、隣にいないシャロンに話しかけてしまい、いないことに気が付く。
あの頃の僕は、シャロンを失って、少しずつ壊れ始めていたのかもしれない。
月日は過ぎていった。
シャロンは結婚の準備をしているらしい。
使用人たちの会話で知った。
「シャロン様、ウェディングドレスの仮縫いに行かれたそうよ。」
「白いドレス、お似合いでしょうね。」
僕は、立ったまま、沈黙に沈み込む。ハッと気が付くと、その場を去った。
シャロンが、花嫁になる。
他の男の、花嫁に。
その事実が、日に日に現実味を帯びてくる。
ある日、窓から庭園を見下ろすと、シャロンが歩いているのが見えた。
叔母と一緒だった。
シャロンは、何かを話しながら、叔母に微笑んでいた。
でも、その笑顔は、以前より薄かった。
僕は、シャロンから目が離せなかった。無言のまま涙だけが流れる。涙で、シャロンが見えなくなった。
時間だけが、容赦なく過ぎていく。
屋敷でシャロンを見かけるたびに、式が近づいていくと感じ、悲しみを押し込めようとした。
◇
あっという間に、シャロンの結婚式の日がやってきた。
侯爵邸から近い大きな聖堂で挙式は行われ、その後、侯爵邸で披露宴が行われる予定になっていた。
結婚式の朝。僕の胸の重さを知らぬように、空はあまりに晴れ渡っていた。
僕は鏡の前に立っていた。従僕が、正装を着せてくれる。動揺を悟られぬよう呼吸を整える。
黒いフロックコート。
白いシャツ。
ネクタイを結ぶ。
鏡に映る自分が、他人のように見えた。心の中に静かな地鳴りのような沈黙が落ちる。
「坊ちゃま、お顔色が優れませんが・・・・・・。」
従僕が心配そうに声をかけてくる。
「――大丈夫だ。」
僕は答えた。嘘だ。今にも倒れそうな心境だ。笑いがこみ上げそうだ。
行きたくない。
シャロンが、他の男のものになる瞬間を、見たくない。何の罰ゲームだ?
でも、行かなければならない。
レーヴェンツ侯爵家の嫡男として。
従兄弟として。
僕は、深く息を吸った。
そして、部屋を出た。
式に参列して、祝福しなくてはならない。
そんなことが、できるとは思えないが。僕はそれらしく振舞うことを期待されている。
僕たちは18歳になっていた。
シャロンは金色の髪を結い上げ、レースの床にまで広がる長いベールをしていた。白いシンプルなドレスに、手元には白百合が束ねられてブーケになっていた。もう、視線が交わせるほどの距離へ、寄ることさえもさせてもらえない。なら、参加させなければいいのに、それは違うようだった。
式が始まる。
「リチャード・ウェストン。あなたは、シャロンを妻とし、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、彼女を愛し、守り、生涯をともに歩むことを誓いますか?」
「誓います。」
「シャロン・レーヴェンツ。あなたは、リチャードを夫とし、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、彼を愛し、守り、生涯をともに歩むことを誓いますか?」
「誓います。」
「ここに結ばれし誓いの証として――互いに口づけを交わしなさい。」
男が、シャロンのベールをあげて、キスを落とした。
身動きが付かなかった。体温が消えていくのを、ただ感じていた。心臓を掴まれたみたいに胸に冷たい痛みがする。鼓動だけが妙に遠く感じる。体が自分のものではないみたいだった。心の奥で、何かが静かに崩れた。
その後、僕はちゃんと微笑めていたのだろうか。誰にも叱られなかったから、できていたのだろう。
シャロンは新婦として、始終、緊張した顔をしていた。
披露宴では、シャロンは夫の隣に座っていた。
男が、シャロンの肩に手を置く。
シャロンの手を取る。
頬にキスをする。
そのたび、僕の心は引き裂かれた。
でも、僕は微笑み続けた。
誰も、僕の苦しみに気づかなかったようだ。
披露宴が終わり、シャロンは馬車に乗り込んだ。
出発の直前、シャロンが振り返った。
僕たちの視線が、お互いに吸い寄せられるように見つめあった。
シャロンの目からは、滴がぽたぽた落ちる。
誰もが家を離れるさみしさを泣いていると思っただろう。でも僕にはわかる。
僕たちは一体だったのだ。離れることなどできない。
僕は、手を振った。僕は、泣いている君に、何もできない、最低な男だ。
さようなら、シャロン。
幸せになってほしくない。
馬車が動き出し、遠ざかっていく。
シャロンが、僕の人生から消えていく。
僕は、その場に立ち尽くした。
◇
僕はほとんど食べられなくなった。
夜も寝られなくなった。
「エドモンドは大丈夫か?」
父が扉の向こうで母に尋ねている。
「・・・・・・大丈夫には見えませんよ。」
「・・・・・・そうだな。」
「なぜ、式に参加させたのですか!」
「嫡男だから仕方ないだろう。それに、・・・・・・始終、微笑んでいたじゃないか。」
シャロンとの日々が、走馬灯のように繰り返し映し出された。
本当に触れていると思うほどの、現実感を伴って、シャロンがそこにはいた。
逆に、現実の方の現実感が薄れていった。
たまに母がやってきた。心配をかけているのはわかるが、どうしようもなかった。
言葉が全部、後悔に溶けていく。足が一歩も前に出ない。体が沈むように重い。立っていられないほど胸が痛む。心臓の鼓動が苦しくて、呼吸が乱れる。空気ごと絶望に凍りついたようだった。
◇
窓から、暗闇が見える。樹々ではなく、吸い込まれそうなほどの暗闇だ。谷があるのか。
「エド!」
シャロンが僕の胸にしがみつく。
「大丈夫、僕と一緒だ。」
僕は彼女を強く抱きしめる。
あの日、決めたんだ。
もう、君を手放すなんてことは絶対にしない。




