第1章『白い花の君』エド視点
馬車の中まで明るく照らされるような稲光が横切ると、次の瞬間、爆発のような雷鳴が叩きつけ、地面が跳ね上がるほどに震えた。思わず耳をふさぎたくなるほどの近さに、背筋がジワリと冷える。
馬のいななきが聞こえると、馬車の速度が上がり、馬車は暴走を始めた。
車体が大きく左右に揺れると、御者の叫び声が聞こえた。振り落とされたのかもしれない・・・・・・。
激しい揺れの中なのに、不意に――まるで時間が引き伸ばされたように、世界がゆっくりと見えた。雨が窓を叩きつけている。腕の中で、シャロンが震えている。彼女の髪に、僕はそっと頬を寄せる。こんな時でも、愛おしい。
「エド……」
シャロンの震える小さな声が、耳元で囁く。
「大丈夫」
僕は彼女の震える肩を受け止めて抱く。離さぬように腕をまわす。もう、絶対に離さないように。
やっと一緒になれたのに。やっと、君を守れると思ったのに。
でも、不思議と後悔はない。最期まで君と一緒にいられるなら、それでいい。
——ああ、そうだ。全てを話そう。君との日々を。イリーナとの日々を。そして、この終わりを。
僕の人生は、短かった。でも、シャロン、君を愛せた。それだけで、十分だったのかもしれない。
馬車が、谷へ落ちていく。
◇
あれは、僕が7歳の時だった。
僕はレーヴェンツ侯爵家の長男だった。当時3歳の弟のマティアスがいたが、遊び相手にはならなかった。そんな僕に父が紹介してくれたのが従姉妹のシャロン・レーヴェンツ伯爵令嬢。父の弟の娘だった。
季節は夏だった。あの日の陽の光は、容赦がなかった。庭園は白く輝き、高く伸びた木々の葉は、乾いた風に揺れながらきらめき、光を受けた緑だけが、やけに鮮やかに目に映った。空気そのものが熱で揺らいでいるようで、遠くを見ようとするたび、世界がかすかに白く溶けてゆく。まぶしさの向こうにある景色は、どれも夢の中みたいだった。
夏の庭園で、僕は初めてシャロンを見た。
白い百合の花を髪に飾った、小さな少女。風が吹くたび、スカートの裾が揺れて、鈴が鳴るような高い笑い声が響いた。彼女はこちらに気づくと、駆け寄ってきた。その走り方は、もうほとんど転がるに近くて、微笑ましかった。
「こんにちは、あなたが、エド?」
その声は、微笑が混じる穏やかさだった。
「……こんにちは。」
僕は、驚きで息が跳ねた。うまく言葉が出なかった。ただ、彼女をまるで確かめるように見つめ続けていた。
「一緒に遊びましょう?」
シャロンは僕の手を取った。小さな、柔らかい手。その瞬間、僕の心臓がやさしく脈打つ。
あの日、僕は恋に落ちた。7歳の僕には、それが何を意味するか分からなかった。
ただ——あれがすべての始まりだったことだけは、今なら分かる。
あの湖のある公園へ、幾度となく訪れた。
「エド、手、掴んで!」
「おいで!」
僕は馬車に乗り込むと、シャロンが後ろから叫んだ。僕は笑いながら手を伸ばして、力いっぱい彼女を引き上げた。
「坊ちゃま、もっと丁寧に!」
侍女のミーナは僕のやりように声をあげる。
「引っ張りすぎ!」
シャロンも口をとがらせながら抗議してくる。
「シャルが軽すぎるんだよ。」
「ふふっ!」
「あははは!」
二人で抱き合って笑い合った。
公園の湖は陽光を受けて、水面がきらきらと瞬いていた。並木道では乾いた風が吹くたび、白い花弁がひらりと舞い上がる。シャロンはくるりと回りながら花弁を掴むと、僕の手に載せた。僕はシャロンの髪についた花弁を、そっと取った。
「綺麗ね?」
「……うん」
僕は頷いた。でも、見ていたのは花ではなく、彼女だった。
◇
シャロンの家は、レーヴェンツ侯爵家から馬車で1時間ほどのところにあった。僕たちは毎日、一緒にいた。侯爵家に来る家庭教師のところへ勉強に来ると、一緒に勉強した。僕はシャロンに負けないように一生懸命勉強した。
レーヴェンツ家の広大な屋敷には、たくさんの親族が出入りしていた。数百年続く名家で、廊下を歩けば誰かしら親族に出会う。でも、僕と同じ年頃の子供は、シャロンだけだった。他の親族の子供たちは、皆ずっと年上か、赤ん坊だった。
でも、最初から「他に誰もいないから」シャロンと一緒にいたのではなかった。好きだったから、一緒にいたかったのだ。
僕とシャロンは、いつだって一緒にいた。春になれば、シャロンと一緒に庭にでて、一緒に花を摘んでは花冠を作ったりした。シャロンは木立の中で花を見つけると、僕の袖を引いて教えてくれた。夏には御者のヨハンに頼み込んで、湖へと連れて行ってもらった。侍女のミーナと護衛騎士のアルノーを連れて、よくあの公園へ通ったものだ。
秋になると、裏の林で木の実を拾って、リースを作ったりした。落ち葉を踏んでカサカサする音で楽しくなってしまって、落ち葉の中で抱き合って転がり合ったりもした。あの頃の僕たちは、いつも手を繋いでいた。離れることなんてないと信じていた。
シャロンと過ごす時間は、いつも特別だった。彼女のどんな顔を見ても、言葉にならない幸福感で、体の芯がぽかぽかと温まる。名前を呼ばれるだけで胸が熱くなる。手を繋ぐと、心が甘く震えた。
それが何を意味するのか、僕にはまだ分からなかった。
ある日、僕は父の書斎の前を通りかかった。
扉が少しだけ開いていて、中から大人たちの声が漏れてきた。
「エドとシャロンは、仲が良すぎるな。」
父の声だった。温度のない硬い声だった。
僕は、足を止めた。鼓動の音が不安に揺れる。
「まあ、同い年の子が他にいないから、仕方ないが。」
叔父の声。
「まだ7歳だが、あまり近づきすぎるのは……」
「分かっている。」
その会話の意味が、友達と仲良くすることの何が悪いのだろうかと、僕にはよく分からなかった。
「いずれ、引き離す必要があるかもしれんな」
引き離す。
その言葉に、ひゅっと短い息が漏れる。
「シャロンには、良縁を。」
良縁。
つまり、結婚。
僕とシャロンは、将来別の人と結婚して、そうしたら、一緒にいられなくなるのだと、初めて考えた。
「まだ子供だ。」
「ああ。でも、あと数年もすれば……」
僕は、聞いてはいけない話を聞いてしまったのかも知れなかった。恐れを感じ、足音を立てないように、そっとその場を離れた。一歩踏み出すたびに、足が震える。
僕は部屋に戻り、優しい光の射し込む窓辺に座った。カーテンを押して下の庭園を見る。庭園では、シャロンが花を摘んでいた。白い百合を、いくつも。
彼女は僕に気づくと、不意をつかれて照れた微笑をたたえて、手を振った。
僕も、力強く頷き、手を振り返した。
まだ、心の音が遠くなるような感覚だった。涙をこらえるように、瞬きを増やした。
引き離す。
父の硬い声が、耳の中でこだまする。
僕とシャロンは、ずっと一緒にはいられない。
なぜ?
分からない。
でも、父上は、そう言っていた。
僕は、窓辺でシャロンを見つめ続けた。ぬるい涙が顎を濡らした。
——君と離れたくない。
◇
時が流れ、僕は16歳になった。身長もだいぶ伸びて、シャルを見下ろすようになっていた。筋肉がついてきて、護衛騎士のアルノーに教わっている剣技にも、力が乗るようになってきた。
シャロンにも、同じように時が流れた。彼女は美しく成長していた。抱き合って笑い合っていた頃の可愛らしさの面影を残しつつも、ハッとする程の大人びた表情をみせるようになっていた。ドレスの上からでも分かる、柔らかな曲線。唇がふっくらとして、以前より色づいて見えた。
彼女は少しずつ、大人の女性になっていった。
そして、僕の心も、確実に、変わっていった。
シャロンを見るたびに、胸が苦しくなる。そして、視線がぶつかった瞬間、心臓が固まる。
彼女の笑顔に、胸を鷲掴みにされたように苦しい。
手が触れると、想いを抑えきれず体温が上がる。
シャロンのことを考えると、言えない想いが胸を冷たく締めつける。
ある日、僕は気づいた。
——これが、恋だ。
僕は、シャロンを愛している。
でも、同時に思い出した。
あの日、廊下で聞いた、大人たちの会話。
「引き離す必要がある」
僕とシャロンは、結婚できない。それは、成長した僕にはよく分かった。
僕たちは従兄妹だ。血が近すぎるのだ。レーヴェンツ侯爵家では、これは許されない。
この想いは、言ってはいけない。
ある日、庭園でシャロンと二人で花を摘んでいた。彼女は花を摘みながら、僕に話しかけてくる。
「ねえ、エド。最近、ちょっと変じゃないかしら。」
シャロンが僕を呼ぶ声がかすかに揺れる。
「……え?」
心の中を見透かされたような気がして、声がひっくり返りそうだった。
「なんだか、前みたいに話してくれていないような気がして。」
シャロンは、悲しそうに笑った。
僕は、何も言えなかった。
そうだ。
僕は、無意識に距離を置いていたのかもしれない。
この想いを、隠すために。
「ごめん」
「……どうして謝るの?」
シャロンが、涙の粒が震えている瞳で僕を見上げた。思考が止まるような気がした。
「私、何かした? エドを怒らせるようなこと。」
「それは、違う。」
僕はぎこちなくも何度も首を振った。
「君は、何も悪くない。」
「じゃあ、どうして……。」
シャロンの声が、震え、涙が溢れて頬を濡らす。
僕は、彼女の頬に触れようとして——やめた。触れたら、もう止められなくなる気がした。
「ごめん、シャル。僕……おかしいんだ」
そう言って、僕は庭園を去った。後ろで、シャロンが僕の名前を呼んだ。
でも、振り返れなかった。振り返ったら、全てを言ってしまいそうだった。
「好きだ」と。
「君を愛している」と。
だけど、それを口にすることは、許されていなかった。
◇
それから数ヶ月が経ち、僕たちは17歳になった。
ある夜、屋敷で舞踏会が開かれた。親族や近隣の貴族たちが集まり、広間は華やかな衣装と音楽で満ちていた。
シャロンは、白いドレスを着ていた。髪には、いつものように白い百合の花。彼女は、本当に美しかった。
僕は、目が離せなかった。
僕はシャロンをエスコートする。腕を差し出すと、手袋越しでも分かる、シャロンの柔らかい手が腕に乗せられる。掌で、そっと包み込むようにシャロンの手を僕の手で覆う。シャロンははにかんだ笑みを向ける。その笑顔があまりに眩しくて、喜びに胸が急き立てられる。
煌びやかに飾り立てられたホールの中、初々しい僕らは、親類から微笑ましく見られていた。
「エド、踊りましょう?」
シャロンが、下から見上げるように僕に声をかけた。
「……ああ。」
僕は、恥ずかしさを隠すように頷く。そして、大切なものを扱うように、彼女の手を優しく取った。
音楽に合わせて、僕たちは踊った。
シャロンの体が、僕のすぐそばにある。
彼女の髪に飾った白百合の香りが、鼻をくすぐる。
胸が、苦しかった。
何曲も踊り、疲れると、僕たちは庭園へ出た。
庭園は、静かだった。
月明かりが、木々の輪郭を黒く見せていた。花々は白く照らしだされている。
遠くで、微かに音楽が聞こえている。
庭園の東屋のあるところまで来ると、僕たちは座った。
「静かね。」
シャロンが、僕の手を握ってきた。そのまま、背もたれに寄りかかりながら、首を大きく上に反って、夜空を見上げた。
僕も空を見上げる。繋がれた手が熱かった。視線は夜空に向けたが、心はシャロンに向いていた。
「エド。」
「……ん?」
「ずっと、一緒に、いられたらいいのにね。」
僕はシャロンの思いがけない言葉に、心臓が飛び跳ねた。
「……どういう意味?」
期待のこもった質問をする。
「だって、私たちは、別の人と結婚しなくてはならないのでしょう?」
シャロンは、少し悲しそうに笑った。
「でも、私は……エドと一緒にいるのが、――好きなんだけどな。」
シャロンは、泣きそうな顔をして、喉が詰まりそうになりながら、それでも伝えてくれた。
その言葉に、僕は息をのんだ。
シャロンが、濡れた瞳で僕を見上げた。
「エド……?」
僕は、夜空を見るのをやめて、身を起して、彼女の方を見た。そして、握ってない方の手で、彼女の頬に触れた。
風が、止んだ。世界が、静止したように感じた。
そして、——僕は、彼女に近づいていった。
僕は、彼女にキスをした。
不器用で、震えるほどのキスだった。
離れた瞬間、僕たちの揺れる視線が交わった。
僕は、何をしてしまったのか。唇に残る、シャロンの柔らかい感触。
後悔はしていない。
ただ、切なかった。
その時、茂みで物音がした。
僕たちは、振り返った。
使用人が、僕たちを見て——気まずそうに、目を逸らして、去っていった。
——見られた。
僕は、そう確信した。
「エド……」
シャロンの声が、震えていた。
「ごめん、君を愛しているんだ。」
僕は言った。
「僕が……悪かった」
「……ううん」
シャロンは首を振った。
「私も……愛してる。」
その言葉に、僕の胸が熱くなった。
でも、同時に恐怖が襲ってきた。
これで、もう終わりだ。
大人たちに知られたら、僕たちは引き離される。
僕たちは、何も言えなかった。
ただ、見つめ合うだけ。
月明かりの下で。
◇
馬車が、さらに傾く。シャロンの体が僕に押し付けられる。
「シャル。」
僕はシャロン、君の名を呼ぶ。もう、何度目かも分からない。
あの日から、僕はずっと君の名を呼び続けてきた。君に、そして、心の中でも、数えきれないほど。
窓の外は、もう暗闇しか見えない。
「あの時のこと、覚えてるかい?」
僕は震える声で聞く。
シャロンは、はにかみながら頷いた。
「庭園での、あのキスのこと……。」
シャロンの声が、途切れる。
僕は、彼女の瞳をまっすぐに見つめる。
そして、僕は彼女にキスをした。
落ちていく馬車の中で。時間が止まったように感じた。あの日と同じ。月明かりの庭園と。
でも、今は違う。もう、誰にも邪魔されない。
離れた瞬間、シャロンが微笑んだ。
「エド……愛してる」
涙の粒が連なって落ちる。
「僕も。ずっと、――君だけだ。」
シャロンの髪の中に指を埋めて、優しく頭を支えると、僕は額をシャロンの額につけた。
庭園でのあのキス。
そして、これが終わり。
でも、後悔はない。
君と一緒なら、それでいい。
シャロンを抱きしめる腕に力が入り、胸元へしっかりと抱え込んだ。
馬車が、真っ逆さまに落ちていく。
——もう少しだけ、時間が欲しい。君との思い出の中に、もう少しだけ。




