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第1章『白い花の君』エド視点

馬車の中まで明るく照らされるような稲光が横切ると、次の瞬間、爆発のような雷鳴が叩きつけ、地面が跳ね上がるほどに震えた。思わず耳をふさぎたくなるほどの近さに、背筋がジワリと冷える。

馬のいななきが聞こえると、馬車の速度が上がり、馬車は暴走を始めた。

車体が大きく左右に揺れると、御者の叫び声が聞こえた。振り落とされたのかもしれない・・・・・・。


激しい揺れの中なのに、不意に――まるで時間が引き伸ばされたように、世界がゆっくりと見えた。雨が窓を叩きつけている。腕の中で、シャロンが震えている。彼女の髪に、僕はそっと頬を寄せる。こんな時でも、愛おしい。


「エド……」


シャロンの震える小さな声が、耳元で囁く。


「大丈夫」


僕は彼女の震える肩を受け止めて抱く。離さぬように腕をまわす。もう、絶対に離さないように。

やっと一緒になれたのに。やっと、君を守れると思ったのに。

でも、不思議と後悔はない。最期まで君と一緒にいられるなら、それでいい。


——ああ、そうだ。全てを話そう。君との日々を。イリーナとの日々を。そして、この終わりを。


僕の人生は、短かった。でも、シャロン、君を愛せた。それだけで、十分だったのかもしれない。


馬車が、谷へ落ちていく。



あれは、僕が7歳の時だった。


僕はレーヴェンツ侯爵家の長男だった。当時3歳の弟のマティアスがいたが、遊び相手にはならなかった。そんな僕に父が紹介してくれたのが従姉妹のシャロン・レーヴェンツ伯爵令嬢。父の弟の娘だった。


季節は夏だった。あの日の陽の光は、容赦がなかった。庭園は白く輝き、高く伸びた木々の葉は、乾いた風に揺れながらきらめき、光を受けた緑だけが、やけに鮮やかに目に映った。空気そのものが熱で揺らいでいるようで、遠くを見ようとするたび、世界がかすかに白く溶けてゆく。まぶしさの向こうにある景色は、どれも夢の中みたいだった。


夏の庭園で、僕は初めてシャロンを見た。


白い百合の花を髪に飾った、小さな少女。風が吹くたび、スカートの裾が揺れて、鈴が鳴るような高い笑い声が響いた。彼女はこちらに気づくと、駆け寄ってきた。その走り方は、もうほとんど転がるに近くて、微笑ましかった。


「こんにちは、あなたが、エド?」


その声は、微笑が混じる穏やかさだった。


「……こんにちは。」


僕は、驚きで息が跳ねた。うまく言葉が出なかった。ただ、彼女をまるで確かめるように見つめ続けていた。


「一緒に遊びましょう?」


シャロンは僕の手を取った。小さな、柔らかい手。その瞬間、僕の心臓がやさしく脈打つ。


あの日、僕は恋に落ちた。7歳の僕には、それが何を意味するか分からなかった。

ただ——あれがすべての始まりだったことだけは、今なら分かる。


あの湖のある公園へ、幾度となく訪れた。


「エド、手、掴んで!」

「おいで!」

僕は馬車に乗り込むと、シャロンが後ろから叫んだ。僕は笑いながら手を伸ばして、力いっぱい彼女を引き上げた。

「坊ちゃま、もっと丁寧に!」

侍女のミーナは僕のやりように声をあげる。


「引っ張りすぎ!」

シャロンも口をとがらせながら抗議してくる。


「シャルが軽すぎるんだよ。」


「ふふっ!」

「あははは!」

二人で抱き合って笑い合った。


公園の湖は陽光を受けて、水面がきらきらと瞬いていた。並木道では乾いた風が吹くたび、白い花弁がひらりと舞い上がる。シャロンはくるりと回りながら花弁を掴むと、僕の手に載せた。僕はシャロンの髪についた花弁を、そっと取った。


「綺麗ね?」

「……うん」


僕は頷いた。でも、見ていたのは花ではなく、彼女だった。



シャロンの家は、レーヴェンツ侯爵家から馬車で1時間ほどのところにあった。僕たちは毎日、一緒にいた。侯爵家に来る家庭教師のところへ勉強に来ると、一緒に勉強した。僕はシャロンに負けないように一生懸命勉強した。


レーヴェンツ家の広大な屋敷には、たくさんの親族が出入りしていた。数百年続く名家で、廊下を歩けば誰かしら親族に出会う。でも、僕と同じ年頃の子供は、シャロンだけだった。他の親族の子供たちは、皆ずっと年上か、赤ん坊だった。

でも、最初から「他に誰もいないから」シャロンと一緒にいたのではなかった。好きだったから、一緒にいたかったのだ。


僕とシャロンは、いつだって一緒にいた。春になれば、シャロンと一緒に庭にでて、一緒に花を摘んでは花冠を作ったりした。シャロンは木立の中で花を見つけると、僕の袖を引いて教えてくれた。夏には御者のヨハンに頼み込んで、湖へと連れて行ってもらった。侍女のミーナと護衛騎士のアルノーを連れて、よくあの公園へ通ったものだ。


秋になると、裏の林で木の実を拾って、リースを作ったりした。落ち葉を踏んでカサカサする音で楽しくなってしまって、落ち葉の中で抱き合って転がり合ったりもした。あの頃の僕たちは、いつも手を繋いでいた。離れることなんてないと信じていた。


シャロンと過ごす時間は、いつも特別だった。彼女のどんな顔を見ても、言葉にならない幸福感で、体の芯がぽかぽかと温まる。名前を呼ばれるだけで胸が熱くなる。手を繋ぐと、心が甘く震えた。

それが何を意味するのか、僕にはまだ分からなかった。


ある日、僕は父の書斎の前を通りかかった。

扉が少しだけ開いていて、中から大人たちの声が漏れてきた。

「エドとシャロンは、仲が良すぎるな。」

父の声だった。温度のない硬い声だった。


僕は、足を止めた。鼓動の音が不安に揺れる。

「まあ、同い年の子が他にいないから、仕方ないが。」

叔父の声。

「まだ7歳だが、あまり近づきすぎるのは……」

「分かっている。」

その会話の意味が、友達と仲良くすることの何が悪いのだろうかと、僕にはよく分からなかった。

「いずれ、引き離す必要があるかもしれんな」

引き離す。

その言葉に、ひゅっと短い息が漏れる。

「シャロンには、良縁を。」

良縁。

つまり、結婚。

僕とシャロンは、将来別の人と結婚して、そうしたら、一緒にいられなくなるのだと、初めて考えた。

「まだ子供だ。」

「ああ。でも、あと数年もすれば……」

僕は、聞いてはいけない話を聞いてしまったのかも知れなかった。恐れを感じ、足音を立てないように、そっとその場を離れた。一歩踏み出すたびに、足が震える。


僕は部屋に戻り、優しい光の射し込む窓辺に座った。カーテンを押して下の庭園を見る。庭園では、シャロンが花を摘んでいた。白い百合を、いくつも。


彼女は僕に気づくと、不意をつかれて照れた微笑をたたえて、手を振った。

僕も、力強く頷き、手を振り返した。

まだ、心の音が遠くなるような感覚だった。涙をこらえるように、瞬きを増やした。

引き離す。

父の硬い声が、耳の中でこだまする。

僕とシャロンは、ずっと一緒にはいられない。

なぜ?

分からない。

でも、父上は、そう言っていた。


僕は、窓辺でシャロンを見つめ続けた。ぬるい涙が顎を濡らした。

——君と離れたくない。



時が流れ、僕は16歳になった。身長もだいぶ伸びて、シャルを見下ろすようになっていた。筋肉がついてきて、護衛騎士のアルノーに教わっている剣技にも、力が乗るようになってきた。


シャロンにも、同じように時が流れた。彼女は美しく成長していた。抱き合って笑い合っていた頃の可愛らしさの面影を残しつつも、ハッとする程の大人びた表情をみせるようになっていた。ドレスの上からでも分かる、柔らかな曲線。唇がふっくらとして、以前より色づいて見えた。


彼女は少しずつ、大人の女性になっていった。

そして、僕の心も、確実に、変わっていった。


シャロンを見るたびに、胸が苦しくなる。そして、視線がぶつかった瞬間、心臓が固まる。

彼女の笑顔に、胸を鷲掴みにされたように苦しい。

手が触れると、想いを抑えきれず体温が上がる。

シャロンのことを考えると、言えない想いが胸を冷たく締めつける。


ある日、僕は気づいた。

——これが、恋だ。

僕は、シャロンを愛している。


でも、同時に思い出した。

あの日、廊下で聞いた、大人たちの会話。

「引き離す必要がある」


僕とシャロンは、結婚できない。それは、成長した僕にはよく分かった。

僕たちは従兄妹だ。血が近すぎるのだ。レーヴェンツ侯爵家では、これは許されない。


この想いは、言ってはいけない。


ある日、庭園でシャロンと二人で花を摘んでいた。彼女は花を摘みながら、僕に話しかけてくる。

「ねえ、エド。最近、ちょっと変じゃないかしら。」

シャロンが僕を呼ぶ声がかすかに揺れる。

「……え?」

心の中を見透かされたような気がして、声がひっくり返りそうだった。


「なんだか、前みたいに話してくれていないような気がして。」

シャロンは、悲しそうに笑った。


僕は、何も言えなかった。

そうだ。

僕は、無意識に距離を置いていたのかもしれない。

この想いを、隠すために。


「ごめん」

「……どうして謝るの?」

シャロンが、涙の粒が震えている瞳で僕を見上げた。思考が止まるような気がした。

「私、何かした? エドを怒らせるようなこと。」

「それは、違う。」

僕はぎこちなくも何度も首を振った。

「君は、何も悪くない。」

「じゃあ、どうして……。」

シャロンの声が、震え、涙が溢れて頬を濡らす。

僕は、彼女の頬に触れようとして——やめた。触れたら、もう止められなくなる気がした。


「ごめん、シャル。僕……おかしいんだ」

そう言って、僕は庭園を去った。後ろで、シャロンが僕の名前を呼んだ。

でも、振り返れなかった。振り返ったら、全てを言ってしまいそうだった。


「好きだ」と。

「君を愛している」と。


だけど、それを口にすることは、許されていなかった。



それから数ヶ月が経ち、僕たちは17歳になった。

ある夜、屋敷で舞踏会が開かれた。親族や近隣の貴族たちが集まり、広間は華やかな衣装と音楽で満ちていた。


シャロンは、白いドレスを着ていた。髪には、いつものように白い百合の花。彼女は、本当に美しかった。

僕は、目が離せなかった。


僕はシャロンをエスコートする。腕を差し出すと、手袋越しでも分かる、シャロンの柔らかい手が腕に乗せられる。掌で、そっと包み込むようにシャロンの手を僕の手で覆う。シャロンははにかんだ笑みを向ける。その笑顔があまりに眩しくて、喜びに胸が急き立てられる。


煌びやかに飾り立てられたホールの中、初々しい僕らは、親類から微笑ましく見られていた。

「エド、踊りましょう?」

シャロンが、下から見上げるように僕に声をかけた。

「……ああ。」

僕は、恥ずかしさを隠すように頷く。そして、大切なものを扱うように、彼女の手を優しく取った。


音楽に合わせて、僕たちは踊った。

シャロンの体が、僕のすぐそばにある。

彼女の髪に飾った白百合の香りが、鼻をくすぐる。

胸が、苦しかった。


何曲も踊り、疲れると、僕たちは庭園へ出た。

庭園は、静かだった。

月明かりが、木々の輪郭を黒く見せていた。花々は白く照らしだされている。

遠くで、微かに音楽が聞こえている。


庭園の東屋のあるところまで来ると、僕たちは座った。

「静かね。」

シャロンが、僕の手を握ってきた。そのまま、背もたれに寄りかかりながら、首を大きく上に反って、夜空を見上げた。

僕も空を見上げる。繋がれた手が熱かった。視線は夜空に向けたが、心はシャロンに向いていた。


「エド。」

「……ん?」

「ずっと、一緒に、いられたらいいのにね。」

僕はシャロンの思いがけない言葉に、心臓が飛び跳ねた。

「……どういう意味?」

期待のこもった質問をする。

「だって、私たちは、別の人と結婚しなくてはならないのでしょう?」

シャロンは、少し悲しそうに笑った。


「でも、私は……エドと一緒にいるのが、――好きなんだけどな。」

シャロンは、泣きそうな顔をして、喉が詰まりそうになりながら、それでも伝えてくれた。

その言葉に、僕は息をのんだ。

シャロンが、濡れた瞳で僕を見上げた。


「エド……?」

僕は、夜空を見るのをやめて、身を起して、彼女の方を見た。そして、握ってない方の手で、彼女の頬に触れた。


風が、止んだ。世界が、静止したように感じた。

そして、——僕は、彼女に近づいていった。

僕は、彼女にキスをした。

不器用で、震えるほどのキスだった。


離れた瞬間、僕たちの揺れる視線が交わった。

僕は、何をしてしまったのか。唇に残る、シャロンの柔らかい感触。

後悔はしていない。

ただ、切なかった。


その時、茂みで物音がした。

僕たちは、振り返った。

使用人が、僕たちを見て——気まずそうに、目を逸らして、去っていった。

——見られた。

僕は、そう確信した。


「エド……」

シャロンの声が、震えていた。

「ごめん、君を愛しているんだ。」

僕は言った。

「僕が……悪かった」


「……ううん」

シャロンは首を振った。

「私も……愛してる。」

その言葉に、僕の胸が熱くなった。

でも、同時に恐怖が襲ってきた。


これで、もう終わりだ。

大人たちに知られたら、僕たちは引き離される。

僕たちは、何も言えなかった。

ただ、見つめ合うだけ。

月明かりの下で。



馬車が、さらに傾く。シャロンの体が僕に押し付けられる。


「シャル。」

僕はシャロン、君の名を呼ぶ。もう、何度目かも分からない。


あの日から、僕はずっと君の名を呼び続けてきた。君に、そして、心の中でも、数えきれないほど。


窓の外は、もう暗闇しか見えない。


「あの時のこと、覚えてるかい?」

僕は震える声で聞く。

シャロンは、はにかみながら頷いた。


「庭園での、あのキスのこと……。」

シャロンの声が、途切れる。

僕は、彼女の瞳をまっすぐに見つめる。

そして、僕は彼女にキスをした。

落ちていく馬車の中で。時間が止まったように感じた。あの日と同じ。月明かりの庭園と。


でも、今は違う。もう、誰にも邪魔されない。

離れた瞬間、シャロンが微笑んだ。


「エド……愛してる」

涙の粒が連なって落ちる。

「僕も。ずっと、――君だけだ。」

シャロンの髪の中に指を埋めて、優しく頭を支えると、僕は額をシャロンの額につけた。


庭園でのあのキス。

そして、これが終わり。



でも、後悔はない。

君と一緒なら、それでいい。


シャロンを抱きしめる腕に力が入り、胸元へしっかりと抱え込んだ。

馬車が、真っ逆さまに落ちていく。


——もう少しだけ、時間が欲しい。君との思い出の中に、もう少しだけ。




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