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第0話

『【短編】夫が本当に愛したのは、妻の私ではありませんでした』を連載化しました。第0章が本編です。完結しています。第1章~第5章までエド視点です。原稿は完成しています。お楽しみください。

「奥様、今日はこちらのかんざしをいかがでしょうか。」

「ええ、そうして頂戴。」

イリーナは、侍女に美しく艶やかな金色の髪を、結い上げられている。卒業間際で、急に決まった結婚。相手はまったく知らない年上の人だった。


侍女に導かれて、食堂へと足を踏み入れる。窓が大きくとられたその部屋は、カーテンに和らげられた朝の光が、優しく差し込んでいる。テーブルの花々が瑞々しく光っている。

「おはよう。」

「おはようございます。」

イリーナはこのエドモンド・レーヴェンツ侯爵に嫁いで3か月ほどが経つ。


給仕メイドが椅子を引くのに合わせて、イリーナは席に着く。サービングワゴンに乗せられた、湯気の立っているスープがテーブルに乗せられる。何かしゃべるわけではないが、朝、顔を合わせて微笑み合う、そんな二人だった。

「イリーナ、ここに来てから、あまり外出していないと聞いた。」

「ええ・・・・・・。」

「今度、一緒に公園にでも出かけないか?」

イリーナはカトラリーを置くと、口元で手を合わせて、エドモンドを見上げ、唇が震え、目が潤む。

エドモンドはそれを見て、目元を緩め、口角をあげた。


朝食が終わると、ドレスを着替える。実家にいたときには、決して身に着けることのなかった、上等な絹のドレスである。やわらかい絨毯の廊下を、踏みしめながら歩き、階下の玄関へと向かう。玄関ホールは吹き抜けになっており、高い天井が威圧するような気配を放っている。玄関で侍女と待つことしばらく、執事を伴いエドモンドがホールへと現れた。

執事が差し出す紙に、いくつか言葉を返し、エドモンドはイリーナへ視線を向ける。

「それでは、行ってくる。」

「・・・・・・いって、らっしゃいませ。お帰りをお待ちしております。」



朝日が射しこむ寝室で、イリーナはエドモンドの枕に手を伸ばし、シーツにふれると、冷たかった。

夫婦の寝室には、エドモンドは時々訪れ、とてもやさしく扱ってくれて、その後、侍女にまかせると部屋へ戻っていく。

そういうものなのかなとイリーナは思う。


突然、エドモンドの寝室からの扉が開き、エドモンドが夫婦の寝室へ入ってきた。

「イリーナ。おはよう。」

「・・・・・・おはよう、ございます。」

「昨夜は遅くなっちゃったけど、仕事を終わらせてきたよ。今日は約束していた公園へ行こう。」

イリーナは頬を染めてはにかむ。


朝食を済ませると、イリーナは侍女に手伝ってもらい、若草色のドレスを着た。玄関へ出ると馬車が準備されていて、エドモンドは黒い大きな馬を撫でていた。馬は気持ちよさそうに撫でられている。

「準備できたか?じゃ、行こうか。」

エドモンドは一人で馬車に乗り、中から手を差し出してくる。イリーナの手を掴むと、一瞬びくっとするのを感じた。そして、力強く引き上げる。イリーナはステップでたたらを踏みつつ、目を白黒させながらエドモンドの手を握りしめた。

「旦那様、もっと丁寧に。」

「ああ、そうだった。」

侍女のミーナがエドモンドをたしなめると、エドモンドはハッとした顔をして、目を泳がせた。侍女のミーナはエドモンド様がお小さいころからお仕えしていると聞いた。どこか、子供を叱るようだった。


馬車が動き出し、イリーナとエドモンドは向かい合わせに座っている。隣同士に座るのかと思っていたら、向かいに座らされた。車窓からは並木道が見えている。馬車の中は二人きりで、静けさに気まずさを感じる。エドモンドは何度も手のひらをこすり合わせる。

「イリーナ。」

「はい。」

「いや、寒くないか?」

「はい。大丈夫です。」

イリーナのはじける様な笑みに、エドモンドはわずかに見開き、視線を馬車の外へと移した。イリーナはエドモンドのその態度に、首をかしげた。なんだか、胸の奥がざわざわと落ち着かない・・・・・・。


公園につくと、エドモンドは、ぎこちなくも優しい手つきで馬車から降ろしてくれ、腕を差し出して、エスコートしてくれた。エドモンドは迷うそぶりなく目的地へと案内する。わきに咲く花の名前や木の名前を教えてくれた。


並木道に差し掛かった。さわやかな風が、緑の葉と青空の間に白い花弁を舞散らす。この世のものとも思えない美しさだった。イリーナはエドモンドを見た。花弁の舞う先を見つめていたエドモンドの頬を、一粒の涙がこぼれた。

「旦那様?」

「ああ――目に何か入ったのかな。」

イリーナはエドモンドの涙を見て息をのんだ。そして、ほのかに胸が温かくなった。


歩くたびにドレスが揺れる。小高い丘を越えると、一面に湖が広がった。イリーナは胸の中心がそわそわと熱くなる。立ち止まって、エドモンドの袖を引いた。エドモンドはそんなイリーナに気が付かずに、走り出しそうな勢いの歩みを進める。

「さあ、ボートに乗ろう。」

「え?」

エドモンドは迷いのない足取りで丘を降りていく。イリーナは置いていかれないように、小走りでついて行く。小さな古ぼけたボートだが、ちゃんと手入れはされているようで、新しいペンキが塗られている。

「さあ、おいで。」

振り返ったエドモンドは、一瞬、イリーナを見て、ひゅっと短い息が漏れる。そして、静かに微笑むとイリーナの手を大切なものに触れるような慎重さで、ゆっくりとボートへと乗せてくれた。

ボートは静かに進む。水の息づかいのように、淡い光が揺れている。水鳥が鳴いている。不意に風が巻き上がり、イリーナの長い髪が一瞬だけ空に踊る。イリーナは帽子を両手で押さえた。エドモンドは呆然とした目で何度か瞬く。そして、そっと視線がイリーナに落とされ、すぐに離れていく。


ボートから降りると、木漏れ日の下に、侍女が敷物を用意し、ランチボックスを準備している。

サンドイッチ、オレンジ、ブドウ。

エドが選んだ紅茶。

「これは、キュウリだろ。こっちは、スモークサーモンとクリームチーズ。ローストビーフに、エッグマヨ。あと、ハムとマスタード。どれが好き?」

「あの、キュウリのを。」

エドはキュウリのサンドイッチを取ると、イリーナに渡してくれた。自分はローストビーフに西洋わさびのサンドイッチを手に取る。二人は静かに咀嚼し、紅茶を含む。ふたりの間に柔らかな風が吹くような沈黙がながれる。ただ、馬車の中の沈黙とは別のものだとイリーナは思った。

「美味しい?」

イリーナは目を細めて頷く。エドモンドもうなずき返したが、ほんの一瞬だけ眉が寄った。

イリーナは湖を見つめながら、温かな光に満たされるような笑顔になった。結婚してから数か月、これほど、長い時間を共に過ごしたことはなかったので、幸せの予感に心が落ち着こうとして落ち着かない。


「寒くないか?」

エドモンドは用意されていたひざ掛けを、丁寧に広げると、イリーナの膝にかける。その時、イリーナの手とエドモンドの手が微かに触れた。イリーナは小さく跳ねる鼓動が、自分にだけ聞こえる。エドモンドと視線を合わせた瞬間、頬が色づいた。エドモンドはそれをみて、首を横に向けた。口元がわずかに引きつる。


エドモンドはその日、イリーナを完璧にエスコートし、イリーナはこの幸せな時間がずっと続くように感じ、心から安心していた。



夏の空気が、ぬるく肌にまとわりつく。庭の木々の葉が、陽を受けてきらり、ちらちらと光る。風がかすかに吹くと、白百合の群れが一斉に揺れて甘い香りが立ちのぼる。イリーナは、心が穏やかな光に包まれるように感じた。


エドモンドの部屋の扉を、軽く二度叩く。

「入れ。」

中から落ち着いたエドモンドの声がした。

イリーナは安心して部屋に入った。すると、エドモンドは一瞬だけイリーナを見て、急いで視線を落とす。乾いた紙の落ちる音がした。慌てて拾い、机の中へとしまった。

「驚かせてしまって、申し訳ありません。白百合のことを聞きたくて。」

「百合?」

エドモンドの眉がわずかに下がり、影が落ちる。

「部屋に飾りたかったのですけど・・・・・・。」

「――君が女主人だよ。好きなようにしてくれていいよ。」

女主人という言葉に、イリーナは恥ずかしそうに口元が緩んだ。


「・・・・・・シャロンが、離縁して帰っている。」

「――旦那様。」

廊下の角で、執事と旦那様の会話が聞こえた。

ドレスの衣擦れの音をさせながら、角を曲がると二人は固まって、こちらを見ている。

「ふふふ、内緒話でしたの?」

「いや、従姉妹がね・・・・・・。」

「まぁ、それは・・・・・・お辛いでしょうに。仲が良かったのですか?せめて、慰めて差し上げてください。」

イリーナはエドモンドへの愛しさが隠しきれない笑顔で、そう言った。



朝食の席に行くと、いつものようにエドモンドはイリーナに微笑む。

「その髪、今日のドレスに似合ってる。」

そう言ったあと、エドは気まずさを隠すように視線を逃がす。彼が照れていると思った。

イリーナは頬がふわりと持ち上がる。

「今日は早めに帰ろう。」

彼の思いやりに、イリーナは心が満たされる。


「君は、花が好きなのかな。君の部屋の百合に合うと思って。」

そう言って、エドモンドはピンクのバラの花束を差し出した。淡い花の香りがふわりと立ちのぼる。

「まあ、うれしいわ。」

イリーナのうるんだ瞳に光が揺れる。エドモンドはそれを見て、ぎこちない笑みに頬がゆがむ。

イリーナはようやく、夫婦らしくなってきたかなと、心がほんのり甘くなるような喜びを感じていた。



秋の声が聞こえてきた。朝夕の風が、ほんの少しだけ冷たくなった。

最近はイリーナは、エドモンドに会えていない。

エドモンドは、声を探すように、つぶやいた。

「すまない、最近、仕事が忙しくなって・・・・・・。」


朝は食堂へ行っても、一人分のカトラリーがセットされているようになった。

朝食はいつも通りなのに、どこか味気なく感じる。


たまに屋敷で会うと、いつも通り優しく声をかけてくれる。

イリーナはエドモンドの小さな優しさに、心の中心が穏やかに満ちていくようだった。

「お忙しいのに、お気遣いが嬉しいです。」

イリーナが答えると、ためらうようにほんの少し横を向く。

イリーナはそんなエドモンドを見て、相手を包むような柔らかい笑みを浮かべた。


朝の食堂にエドモンドがいる。

「なんだか久しぶりになってしまったな。ほんとにすまない。」

エドモンドは立ち上がって、イリーナに腕を出す。腕に触れると、一瞬だけ硬直し、それから手を握られた。

軽く腕を引かれるだけで幸せが満ちる。席はすぐそばだが、エドモンドは椅子を引いて座らせてくれた。

「過保護だわ。」

イリーナはエドモンドの態度に、心がほどけて、表情が緩むのを感じた。



夜に玄関で何か言い争う声がした。

外では強い雨音と雷鳴がとどろいている。湿った空気が屋敷の中にまで入り込んでいる。

「どうかなさったの?」

イリーナの声に、二人は振り返る。


「!! イリーナ。」

エドモンドの肩が小さく震えた。見つかってしまった、というように、目を大きくする。

「どこかへお出かけになるの? 雨も降っていますし、もう真っ暗ですわ。」

執事もが焦ったように口をはさんでくる。

「奥様も、お止めください。」


「いや、・・・・・・これは、どうしても行かなくてはならないのだ。」

こたえながら、エドモンドの視線は宙をさまよう。

「どんなご用件なのですか?」

イリーナは首をかしげた。


エドモンドは、返事が遅れて弱い声が漏れる。

「いや・・・・・・。」

イリーナはエドモンドの手にしている手紙を見た。

「そのお手紙ですか?」

イリーナはよく見ようと、手紙に顔を近づける。


「イリーナ!」

エドモンドの大きな声が玄関に響いた。イリーナはびくりと肩を揺らす。

エドモンドは、無理に取り繕うような声になる。

「あ・・・・・・すまない。ただの仕事だ。」

エドモンドは握った拳がわずかに揺れる。


「いえ、こちらこそ、申し訳ございません。」

イリーナとエドモンドの視線が、ほんの一拍だけ、絡み、エドモンドはそっと横に視線を外した。

「行ってくる。」

「・・・・・・お気を付けください。」

「ああ。」


玄関が開けられると、そのタイミングで、稲光が走り、続いて屋敷が揺れるような雷鳴が落ちた。

雨は勢いよく地面を打っている。外套を身にまとった御者が外で雨に降られている。

外套を羽織ったエドモンドは馬車に乗り込むと、すぐに出発させた。


部屋に戻ると、侍女がすぐに紅茶を入れてくれた。

「奥様、温まってくださいませ。」

イリーナは体を心配されて、口角が自然に上がる。ソファに座り足を組み、紅茶を飲みながら先ほどのことを考えた。


「お仕事――なのかしら。」

稲光が一閃し、次の瞬間、轟音が続き、部屋の窓ガラスがわずかに震えた。腕に鳥肌が立ち、指先まで冷えた。嫌な予感がした。名前のつかない不安が、そっと背筋を撫でていった。



イリーナは、廊下の先から聞こえてくる足音に耳を澄ませた。雨はすっかり止み、空は眩しいほどの青さを取り戻していた。食堂のカーテン越しの朝の光は柔らかいのに、誰もが緊張し、侍女たちは声を潜め、執事は玄関と執務室を何度も行き来していた。食堂には来たものの、食欲が全くなく、スープを二つ口に運んだだけだった。


玄関の扉が開く重い音が響く。走ってくる音がする。イリーナは立ち上がって、扉の方へとふらつきながら前へ進む。呼吸が細く震える。

「奥様……急使の者が参りました」

執事の声は震えていた。

ずぶ濡れの外套をまとった男が、深く頭を下げた。雨で濡れた髪が額に張りついている。

「……旦那様が……昨夜……馬車の事故に遭われたとのことです。」

イリーナは息を止めた。

「そんな……。」

「雷に、馬が驚いたようで……」

男は苦しそうに視線を落とした。

「……御者も大怪我を負っております。ひと言だけ、こう申しました」

イリーナの心臓が痛むほど強く脈打つ。

「屋敷に戻っていた……と」

イリーナは目を瞬いた。

「・・・・・・旦那様は、どのようなご様子なのですか?」

「詳しいことは、まだ。3人とも・・・・・・。」

3人。

そのひと言が、胸の奥に、冷たい重さを落とす。

「御者と旦那様と他に……?」

つい口から漏れた問いに、急使は首を横に振った。

「申し訳ございません。私には、わかりかねます。」

イリーナは返事ができなかった。

「旦那様は……今はどちらに……?」

「近くの医者のもとへ運ばれていると……」

イリーナの足元が揺れた。

ミーナがそっと支え、イリーナは震える声で息を吸った。

「……会いに……行かせてください……」

ただそれだけを言うのが精一杯だった。

「奥様、お気を確かに。お仕度を整えて、お待ちください。ミーナ。」

執事は次々に指示を出す。

ここから1時間ほどのところに住んでいる、エドモンドの弟夫婦への急使や、医者のもとへの応援物資の準備と搬送、馬車の引き取りのための人出の手配など、次々に指示を出していった。

出かける支度をして、玄関前の居室のソファに腰を掛けていると、医者のもとへと応援物資を届けた使いが戻ってきた。

執事に名を呼びながら近づき、そして、イリーナを見つけるとハッとした顔をして、黙り込んだ。

「ハロルドさん、ちょっと、こっちへ。」

執事とその従僕は外へと出ていき、何やら話し込んでいた。ようやく話が終わったのか、執事が居室へと戻ってきた。

「奥様。」

ハロルドの瞳には涙が溢れて、頬を濡らしている。

「・・・・・・あなた、なんて顔をしているの。」

「――旦那様は、息を引き取られたそうでございます。」

イリーナは返事をしようとして喉がひっかかる。

「――そ、んな。」

「それが、弟君のマティアス様が現場に到着されておりまして、イリーナ様にはご遠慮いただいたほうがいいと申されました。」

ハロルドは口元だけ引き締めて頷く。

「・・・・・・私の夫なのよ?」

「その・・・・・・見ない方がいいと。」

「それでも。」

イリーナは食い下がった。

「マティアス様のご命令です。」

エドモンドがいない今、指揮権はマティアスにあるのは明白だった。

「・・・・・・。」


ミーナは私の手を取り、部屋へと戻った。ミーナは視線を落として涙を隠している。てきぱきと、喪服を出してきて、私を着替えさせた。


昨日は、嫌われてもいいから、出かけるのを止めなくてはいけなかった。

昨夜の、あの目。

交わした、あの視線。

手紙に近づいた瞬間の、あの声。

“どうしても行かなくてはならない”という言葉。

すべてが胸を締めつけるようによみがえる。


昼食と夕食は部屋に用意された。食べることができないまま、ごめんなさいと言って下げてもらった。

翌朝、ミーナが来ず、部屋の外へと出ようとして、施錠されていることに気が付いた。しばらくして、執事が扉を叩いた。


「なぜ、かぎが閉まっているの?」

「出入りが激しかったため、安全のためでございます。」

ハロルドの目は何も映していないように冷たかった。イリーナは理由を聞いても、納得できなかった。


「奥様、その、先代様のご命令で、居室を移るようにとのことでございます。」

「え?」

イリーナの瞳には迷いの色が浮かぶ。

「その、新しいご当主様のご家族がこの部屋を使うと。」

「――まだ葬儀も始まっていないのに?」

「ご理解ください。」

ハロルドは苦し気に言う。

「――わかったわ。」


部屋は客室として用意されていた部屋で、屋敷の最も奥に位置している部屋だった。


部屋でソファに座っていると、侍女たちが私の部屋から私物を引き払い、こちらの部屋にセッティングしてくれた。

エドモンドからのプレゼントもいくつか並んでいる。


部屋でイリーナは静かに考えていた。

あの最後の夜を。

やり直せない、あの夜を。



イリーナは新しい自室で、テラスのある窓に向けられた一人掛けのソファに座り、外を眺めていた。ガラスの向こうで、小さな少年と少女が花冠を作って遊んでいる。子どもたちの声は聞こえない。ただ、照らされて青々と茂る庭の草花がガラス越しにいつもより鮮やかに揺れていた。


イリーナの細い指は、とんとんとソファのひじ掛けを叩いていた。考えがあるわけではない。ただ、その小さな動きだけが途切れずに続いていた。


屋敷のどこかで、親族で集まっている。次の当主が決められているのだろう。


その時、廊下の向こうで誰かの気配がした。扉をたたく音が聞こえ、執事のハロルドが入ってきた。いつもながら、背筋をまっすぐに伸ばしたまま、小さく足音をさせながら入ってくる。その表情には波ひとつなく、目の奥にも揺らぎはない。言葉を告げる時でさえ、声の温度がほとんど変わらなかった。

「イリーナ様」

イリーナは、執事が名前を呼ぶと、視線を執事から窓の方へと移した。奥様ではなく、イリーナ様と。

「――離縁ね。」

「次のご当主は弟君のマティアス様でございます。また、イリーナ様の当館での滞在を許可するとのことでございます。」

「それは、ありがたいお申し出――感謝、申し上げます。」

イリーナは姿勢を正した。ハロルドは、イリーナの前に置かれたテーブルに、数枚の書類を整然と並べた。そして、最後に、ペンをそっと置いた。窓の光が紙にうつり、白さだけがやけに眩しい。イリーナはゆっくりと文字へと視線を移した。


紙には、「離縁」「遺産相続放棄」「持参金返還」などの文字が並ぶ。

「サインは、――イリーナ・レーヴェンツ夫人とお書きください。」

ハロルドの声が、静かな部屋に淡く響いた。

イリーナは、ひじ掛けに置いていた手を、ゆっくりとペンへと伸ばす。しかし、指先に触れた途端、ペンが指から滑り落ちる。右手がわずかに震え、左の手が、その震えを押さえるように寄り添った。

ペンは細い音を立てて、テーブルから床へと転がり落ちて行った。

イリーナは深く息を吸い、そして、吐いた。

ハロルドが歩み寄り、落ちたペンを静かに拾うと、手にした白いハンカチで軽く拭きとり、元の位置に戻した。

イリーナはもう一度、ペンに手を伸ばした。


イリーナ・レーヴェンツ。

指に力をこめ、――もう、二度と書かない名前を、記した。

ペンは黒々としたインクを吐き出す。ペン先が紙を擦る音が、部屋に細く響く。時々、隠せない震えが、字の端をわずかに崩していく。

イリーナに一族の決定に異を唱える術などない。彼女は淡々と並べられたすべての書類に、言われた通りの名前を、ひとつずつ書き入れていった。


「親族の意向で、葬儀への参列は……控えていただきたく。」

ハロルドの声が途中で途切れて、また途切れたように聞こえた。イリーナは紙からハロルドへと視線を移した。表情は硬いまま、口角は下がり、目は窓の外を見ている。

エドの死が伝えられてから、ほんの数日で、屋敷奥の使われないこの部屋に案内されたときに、こうなることは薄く察していたはずだった。指先が冷えていくのを感じた。握りしめた爪が手のひらに食い込んでいく。血の気の引いた白い指が、黒いドレスの上で小さく震えている。イリーナは姿勢を伸ばしながら、目を閉じた。部屋には誰もいないかのように、何の音もない。外の子どもたちの気配も、今はない。

――私がエドの妻なのに。

何度も静かに胸に落ちていった。


「お食事は、後ほど、メイドが運びますので、お部屋にてお待ちください。」

「――ありがとう。」


ハロルドは、イリーナの署名した書類を、丁寧に1枚ずつ取り、机の上で立てて角を合わせた。それから、ペンを静かにとると、姿勢を正し、静かに礼をした。頭を下げている時間が、何かと決別しているように、いつもよりわずかに長かった。やがてゆっくりと頭をあげると、ハロルドはイリーナに背を向け、丁寧な足音を立てながら扉へと向かう。扉が開き、廊下へと消えた。トンと扉が閉まり、そのあとに蝶番の音がカチャリと鳴った。


イリーナはソファの背もたれにもたれかかった。クッションが沈み、木が軋む音がする。目をつむり、首を上に伸ばすように沈み込む。下ろしたままの金色の髪が、クッションの上を乱れて広がった。

「……旦那様。」

小さくつぶやいた。イリーナの声は、どこにも響かず、部屋の沈黙に消されていった。


続き部屋の扉の向こうから、控えめなノックがした。イリーナは重い体をソファから起こし、「はい」と返事をした。しかし、気配はあるが、返事がないままだった。イリーナは足に力をいれ、ソファのひじ掛けの両手に力をかけて立ち上がった。一瞬ふらついたが、足を踏ん張った。左手で目元を押さえながら、白い顔のままイリーナは続き扉へと小さな足音を立て歩いていく。扉を開けると、小さなダイニング用テーブルに暖かく湯気の立つ食事が用意されていた。

「・・・・・・お済になられましたら、ベルをお鳴らし下さい。」

「――ありがとう。」


イリーナは食事を終えると、ベルを鳴らした。しかし、誰も来ない。廊下へと通じる扉の向こうはメイドの足音やサービングワゴンが動く音が聞こえてくる。葬儀に向けて親族が次々に到着しているのか、扉の近くまでくる足音を感じる。イリーナは食事をそのままにし、居間へと戻った。扉はしっかりと閉めず、扉の近くに置かれた椅子に腰を掛けた。

しばらくして、ダイニングをノックする音がした。扉が軋みながら開く音がして、ワゴンが入れられる音が聞こえてくる。

「旦那様、結局、お二人だったらしいわよ。」

「奥様は・・・・・・ご存じなのかしらね。」

イリーナは、食器がこすれ合う音の合間に聞こえてきた言葉に、思わず息をのんだ。口に手を当てて、目をつぶり、頭から足まで走るしびれを感じた。

「シャロン様とね。」

「これで一緒になれたのかもしれないわね。」

めまいを感じた。これ以上、聞いてはいけないとイリーナは立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。座っている椅子だけが、かろうじて彼女を支えていた。


気づけば、あたりは夕闇に落ちていた。よろよろと立ち上がると、暖炉の上に置かれたランプを付けた。ランプを持ち、ソファへと歩いた。窓の外は、昼間の鮮やかな色はなくなり、夕日を隠す木々が黒々と見えた。じきに完全に日が暮れる。空はオレンジから濃い藍色へと移ろっていった。


遠くに鐘の音が聞こえた。イリーナは窓へ近づき、錠を外すと、番に手をかけた。重い金属のこすれる音がして、不意に軽く動いた。

イリーナはその場で、跪き、手を合わせた。祈りの言葉の奥で、イリーナの頭には問いが落ちていった。

――もし、私に男児がいたなら。

――もし、私の家の家格が高かったなら。

――もし、私が彼に愛されていたなら。



窓から見える景色は、移ろいゆく。光と闇とが交互に訪れ、青々と茂っていた樹々は色づき、そして、葉を落としていく。窓から入ってくる風も、張り詰めたものになってきた。

外からは子どもたちや使用人たちの声が、とぎれとぎれに届く。屋敷には以前よりも人が増えたのか、たくさんの気配を感じる。

イリーナは、今でも、彼が、「ただいま」と帰ってくるような気がしていた。


――彼はいつも優しかった。それだけは真実。


このままで、いい。


窓の外の樹々を渡る風の音が響いてきて、ガラスを叩く。









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