壊れた聖杯を直す旅に出た、選ばれなかった聖女と従うだけの従者の話
この国は聖女の祝福によって穏やかな気候と豊かな実りを保っている。聖女として選ばれた者が毎年、特別な儀式を通じて大地に清らかな力を注ぐことで、国全土に祝福が行きわたる。
聖女を選ぶのは王家に代々伝わる“聖杯”と呼ばれる聖具。美しい彫刻が施されたゴブレット型の白磁の聖杯は、聖女の力を増幅し、なおかつ心の底にある本当の願いを映し出すと言い伝えられている。
聖杯が聖女を選ぶ時、この国の豊かさに繋がる清らかな水が、何もない器のなかからあふれ出してくるという。当代の聖女リインはほんの数秒で聖杯を満たしたそうだ。
けれど聖杯を水で満たせるのは聖女ただ一人というわけではない。聖女たる資質を持ちながらも、選ばれなかった者は少なくない。リインの世話係を務める、私、チェッタ・ラックもその一人だ。
私が参加した選考では、お人形のように可憐な見た目のリインに王太子殿下が一目惚れしたとかなんとかという理由で、他の候補者の選考が行われなかった。国王は王太子を勤勉で民思いの後継者として評価しているらしく、聖女の選考の一切を彼に任せていたのも私にとっては敗因だった。
とりあえず聖女候補だったからと世話係の一人として雇ってもらえたものの、国を支える聖女の選考がそんな状況というだけで、もうこの国の行く末が透けて見えるというものである。
そして今、私は寒々しい思いでスワード王太子殿下と彼の横に並ぶリインを見つめていた。
「それではチェッタ、レゼン。危険な旅になるだろうが、頼んだぞ」
「……かしこまりました」
「はっ! 必ずや!」
渋々頷いた私の横で、威勢よく返事をした青年はレゼン・ヴェルミート――王子の従者だ。
銀色の髪に灰色の瞳と全体的に白っぽい私に比べて、レゼンは赤銅色の髪と瞳で全体的に赤っぽい。鍛え上げられた体に気真面目そうな表情。以前から彼の事は知っているが、基本的にやる気のない自分と正反対なレゼンはどちらかといえば苦手な部類だ。一言で言ってしまえば暑苦しい男だ。
そんなことを思っていると王太子の隣から鼻をすする音が聞こえた。
「ぐす……私のためにごめんなさい」
「リインは泣く必要ないよ、あとは二人に任せよう。優秀な二人だ、うまくやってくれるさ」
「殿下、慰めてくださるなんてなんてお優しい」
王太子に寄りかかり、べそべそと泣いているのは当代の聖女リイン。
そもそも今回私たちに与えられた命は「急ぎ大賢者の元へ向かい、壊れた“聖女の証”を修復してもらうこと」だ。
遡ること半月、なんとリインは聖杯を壊していたのだ。リインは「つい、手を滑らせちゃって」と泣いていたが、私は真相を知っている。王太子にもらったアクセサリーが気に入らなかったからといって、癇癪を起こしたリインが壁に聖杯を投げつけた。
――あなたは私が居なくなってもいいのね、と叫びながら。
以前から気に入らない使用人を追い出したり、八つ当たりで物を壊すことはあった。けれど今回は物が物だ。さすがに何らかの責任を問われると思っていた。
それなのに当の本人は私は悪くないと泣きべそをかき、王太子殿下は慰めながらこぼれる涙をまるで宝石でも扱うかのように満足げに掬い取っている。まったく、美しい光景だ。
◇
「というか、優しいのは私でしょうに」
私は大賢者が住むという北の森へ足を踏み入れながら、独り言ちた。
大賢者は一般にはその存在を知られていないものの、王家を影ながら支える存在として、遥か昔から語り継がれている。聖女という存在を生み出したのも大賢者だそうだ。自分の代わりに、国を近くで支えるようにと願ったという。
「あの子が責められないのは私が真相を話していないからなのよ。そもそももらったものが気に入らないからって、聖杯を投げるような子がどうして聖女なのよ」
「……口を慎め。聖女様への不敬だぞ」
ぶつぶつ文句を口にすると、肩から下げた鞄の中から箱に詰めた聖杯がガチャガチャと音を立てる。
一方、少し前を歩くレゼンは、私の止まらない愚痴に顔をしかめながら振り返った。
「聖杯の事は事故だ。殿下がそうおっしゃったのだから真相がどうであろうと、もうそれが真実だ」
「えっ……」
きっぱりと言い切るレゼンに私は言葉を失った。
彼もまた聖杯が壊れた真相を知っている人間だ。あの時、癇癪を起こすリインにつかみかかろうとする王太子殿下を必死に止めていたのは、他でもないレゼンなのだから。勝手に仲間意識を感じていた私は、少しだけ裏切られたような気持ちになる。
「はぁー、でたでた。そうですね、あなたにとってみれば王太子殿下がこの世の全てですもんね」
「どういう意味だ」
「いい子ちゃんですことって言ってるの」
少しとげとげしすぎるかと思いながらも、私は止めなかった。
「あなたは殿下に言われたなら、きっと罪のない人間も簡単に殺すわよね」
「な……っ!」
レゼンの顔色が変わる。その反応に逆に驚いたのは私だ。すぐに否定されるだろうと思っていたものの、予想外の反応に咄嗟に茶化す。
「じょ、冗談よ。やだ、本気にしないでよね?」
「――っ! さ、先を急ぐぞ。お前と余計な話をするつもりはない」
レゼンは焦ったように背を向けると、荒々しい足取りで森の中を進んでいった。たくましい背中を見ながら、私は大きな音を立てる心臓を必死になだめていた。
「……あれは、やるわ」
まさか彼の忠誠がそこまでとは。余計なことはしないように気をつけなければ……私は気を引き締めると鞄を肩にかけ直し、足早に彼の後を追った。
一度会話が途絶えてしまえば私とレゼンの間には特に話題もなく、しかしお互いの気配が感じられる距離を保ちながら歩いていた。
王都を出て数時間。辺りはすっかり暗くなり、空気にひんやりとした冷気が混ざり始めた。同時に魔物の気配も感じられるようになってくる。
王都周辺は聖女の力で守護され、魔物の出現が抑えられているものの、この北の森にはその力が及んでいない。大賢者がいるから聖女の力は作用しないのだそうだ。それなら大賢者の力で魔物を出ないようにすればいいのだろうが、魔物も住処を追われてばかりでは困るだろう。なんだかんだこの国の支配者は大賢者なのかもしれない。
その時、乾いた木の枝を踏みつける音が聞こえた。レゼンがすぐに足を止め、警戒する。
「魔物か……」
低い呟きに私も息をひそめ、あたりを見回した。
「グルルル……」
少し先の草むらから唸り声が響く。生臭い魔物特有のにおいが辺りに漂い、草の影にいくつもの赤い光が見えた。狼に似た魔物の目の色だ。しかも一匹ではない。きっと群れで私たちを襲おうとしているのだろう。
もちろん魔物が現れるだろうことは誰もが承知済みである。だからこそレゼンが選ばれたのだろう。レゼンは王太子の従者だけあって、彼の剣の腕前は有名だ。私が選ばれたのは……多分、聖杯が壊れた真相を知っているせいかもしれない。
魔物の気配にレゼンは即座に腰の剣に手をかけた。
「いいか、チェッタ。お前は俺から離れるな」
「っ……う、うん」
彼が私の名前を知っていたことに驚きながら、私はレゼンと背中合わせになるようにそっと身を寄せた。レゼンは空いた手を私を庇うように背後に伸ばす。その瞬間、草陰の赤い光が一斉に瞬いたように見えた。
「くるぞ……」
「グルル……ッ?」
レゼンが低く呟いた。しかしその時、私たちを取り囲む魔物の唸り声がぴたりと止まる。かと思えば、魔物たちは蜘蛛の子を散らすように声ひとつ上げずに逃げ去ってしまった。
「な、なんだ?」
辺りから消えた魔物の気配に、剣を構えたままレゼンが困惑の声を上げる。
「大丈夫よ。魔物は襲ってこない」
「え?」
庇われたままの腕の隙間から、私はなんだかこそばゆい思いと共に戸惑う横顔を見上げた。
「一応、聖女候補だったから……一応ね」
◇
その夜、焚火を囲んで食事をしながら私たちはまた無言だった。
意識して聖女の力を使うことは難しい。けれど魔物たちに私の聖女の力が伝わったことは、内心少し嬉しかった。やっぱり私は聖女として選ばれてもおかしくなかった人間だと言われているような気がした。
それもあってどこか興奮していたのかもしれない。先に口を開いたのは意外にも私だった。
「……貧しかったのよ。私の生まれ故郷」
聖女の祝福によって与えられる穏やかな気候と豊かな実り。しかしそれは上に立つ者の視点だ。
焚火に小枝を投げ込みながら、私は独り言のように続けた。
「その豊かさを支えているのは誰だと思う? 私たちみたいな下々の人間なのよ」
収穫物はほとんどが領主への供出物となり、王家に献上される。どれだけ豊作でも、自分たちの手元に残るのは命を繋いでいけるぎりぎりの分だけだった。
「そんなのおかしいじゃない。聖女の力で豊かなはずでしょう? それなのにどうして苦しいの、って思ってた」
だから自分に聖女の力があると気づいた時は、これでようやく皆を救えると思った。聖女になれば王家に働きかけて、皆がもっと生きやすい国にできると、そう思っていた。
「でも選ばれたのは私じゃなかった。あんな気まぐれで決められるなんて、今でも信じられない……」
手の中で小枝がぽきりと折れた。
張り切って故郷を出てきたのに、聖杯すら持たせてもらえなかった。ようやく救えると思っていたのに……リインや王太子への怒りはあれど、それ以上に深い無力感が私を支配した。
「聖女の世話係になれただけで家族は喜んでくれたの。誇らしい、自慢の娘だ……って。それなのに聖女になれなかった私が、その聖女の証を直すために旅に出る。それっておかしすぎない?」
私は手の中の枝を火の中に投げ込んだ。
火の粉がパチリとはぜる向こうでレゼンは何も言わず静かに聞いている。
「別にあの子のためじゃない。王家のためでもない。ただ……もしかしたら何かを変えられるかもしれないって、そう思っただけ」
真相を知りながら危険な旅を引き受けることで、リインと王家に恩を売ろうと思ったのかもしれない。無事に聖杯を直してくることで、自分の聖女としての力を見せつけようと思ったのかもしれない。そして改めて自分を聖女として選んでほしいと思っていたのかもしれない。
「でも聖女になるような人間は、そんな腹黒い事は考えないわよね。残念だけど、やっぱり私には向いていないかも」
そう言って自嘲するように笑いながら、私は膝をきつく抱えた。
相変わらずレゼンは何も言わないまま、静かに火を見つめている。その沈黙が私をさらにみじめな気持ちにさせた。しばらく揺れる炎を見つめていると、ぽつりと声が聞こえた。
「だが俺は……」
レゼンはゆっくりと顔を上げる。その目は何かを探すように揺れていた。
「お前の誰かを救いたいと思う気持ちは、正しいと思う……」
それはいつもの勢いのある彼の言葉とは違い、弱々しいものだった。それきりレゼンは言葉を発しなかったけれど、私の胸のつかえは少しましになっていた。
◇
それから数日、私たちは大賢者の元へ歩みを進めていた。時折、魔物の襲撃に見舞われたものの、魔物は私たちを襲うことなく去って行った。二人の間に会話はなかったけれど、それなりに絆は生まれていたように思う。
夜が来れば火を起こし、交代で仮眠を取ることにした。レゼンが目を閉じている間、私は聖杯の入った鞄をきつく抱きしめながら考えていた。
もしこの聖杯が元通りになり、城に届けたら……私たちはどうなるのだろうか。また元のようにレゼンは王太子に仕え、私はリインの世話係に戻れるのか。いや、きっと今まで通りにはいかないだろう。事情を知りすぎている私たちを、あの二人がそのままにするはずがない。
「――まずい」
「えっ?」
その時、急にレゼンが身を起こした。彼は手早く焚火を消すと、驚いている私に短く告げた。
「追っ手だ。隠れろ」
その言葉に私は息を呑んだ。
しばらくすると遠くから複数の足音が近づいてきた。木の陰に隠れた私は身を固くした。激しく鳴り続ける心臓の音は、外に聞こえてしまうのではないかと思うほど大きく響いている。隣のレゼンも呼吸をひそめ、その視線は足音の先を見つめていた。やがて現れた松明の光に浮かび上がったのは武装した兵士の姿だった。
「逃げたか……」
先頭の兵士はザッザッと足で乱暴に焚火跡を掘り返す。するとまだ消え切らなかった熾が赤く光った。
「まだ消したばかりだ。近くにいるはずだ、追うぞ」
そう言って兵士たちは隠れている私たちに気づかず、再び歩き始めた。
兵士の気配がすっかり感じられなくなってからも何時間もそのまま隠れ続け、空が白み始めたころ、私は耐え切れずに声を上げた。
「あなた、私たちが狙われることわかっていたのね」
「……」
その言葉にレゼンが目を伏せたことが答えだ。彼はすぐに「追っ手だ」と判断した。ということは、つまりレゼンは察していたのだ。あれが王城から私たちを亡き者にしようと遣わされた兵であることを。
「きっと聖杯がないことに国王陛下にでも気づかれたんでしょう。だから私たちが盗って逃げたとか言ったんじゃない?」
どれもこれも、あの二人の考えそうなことだ。ばかばかしい展開に思わず笑いがこみ上げてくる。
「あはは! あなた、どうすんのよ。大好きな王太子殿下に裏切られちゃってるじゃない。黙って捕まって、無実の罪をかぶって罪人になれって言ってんのよ?」
「……殿下がそう望むのなら」
その言葉に、私は信じられない思いでレゼンを見つめた。けれど覚悟を決めたような彼の表情に、腹の底からこみ上げてくるような怒りを覚えた。
「――ばっかじゃない!? あなた、殿下が望めば自分の命も差し出すの? ありもしない罪を被るの?」
「殿下の望みだ……」
「いい加減にしてよ! あなた、自分で考えられないの?」
私は思わずレゼンの胸倉につかみかかった。その拍子に肩から提げていた鞄が揺れ、中の聖杯がガチャンと音を立てる。けれどレゼンは表情を変えることはなかった。この男はどこまで自分が無いのだろう。王太子の言いなりになりながら生きるのがこの男の人生なのだろうか。
「……っ、こんなもののために死ぬことないわよ!」
私は押しのけるようにレゼンを離すと、乱暴に鞄の中から聖杯の入った箱を取り出した。そして勢いをつけて振り上げる。
この聖杯がある以上、私は聖女になれず、故郷も救えず、レゼンまでもがこんな目に遭う。誰かが選ばれる理由になるなら、そもそも聖杯なんかない方が良い。
聖杯に罪はないが、私の怒りの衝動は抑えられなかった。
「こんなもの――」
「や、止めろ!」
私は思い切り地面に箱を叩きつけた。
慌てるレゼンの声も空しく箱は乾いた音を立てて弾け、聖杯はさらに細かい破片となって辺り一面に散らばる。
その瞬間、森のざわめきがぴたりと止まった。鳥のさえずりも獣の気配も感じられない。まるで時間が止まったかのように私たちの周りを異様な静寂が包む中、砕け散った破片のひとつがきらりと小さな光を放った。
「あら、騒がしいと思ったら喧嘩?」
どこからともなく声が聞こえた。湧き出したばかりの清水のように冷たく、透き通った声だ。その声が聞こえた瞬間、空気が歪む。まるで時間の流れから切り離されたかのように、この場所だけが元いた空間とは違うことが直感的に理解できた。
そう感じていたのはレゼンも同じだったようだ。目を見開き固まる彼の視線をおそるおそる追うと、そこにいたのは人間離れした美貌の女性だった。透き通る白い肌、夜空を閉じ込めたような瞳に、肩に流れる漆黒の髪。全てを見透かすような眼差しは、私たちの心の奥底を覗き込むかのように見つめていた。
「あ、あなたは……」
無理矢理絞り出した声は掠れていた。震えそうになる唇をきつく結ぶと、それを見た女性は愉快そうに笑った。
「ふふ、怖がらなくていいのよ。たしかこの国では賢者とか呼ばれていたんじゃないかしら」
「賢、者?」
その名はまさしく私たちが探していた人物のもの。どうしてここに、と戸惑う私の横でレゼンがどさっと膝を付いた。
「まさか、大賢者様が……これで聖杯が元に……」
レゼンの震える声は賢者の降臨に感激しているようだった。あれほど忠心を尽くしていた王太子に裏切られ、命を狙われているにも関わらず、まだ王家への忠誠心は消えていないのだろう。その姿に急速に頭の中が冷えていく。
一方、大賢者はそんな彼に声をかけることなく、笑みを浮かべたまま地面に散らばった聖杯の欠片に視線を移した。
「あら、これ、いつだったか作った聖女の証じゃない。あなた聖女? だめよ、大事なものをこんなふうに乱暴に扱ったら」
どうやら彼女は私が聖女で、聖杯を壊したのも私だと勘違いしているようだった。相手が大賢者だということも忘れ、思わず眉をよせてしまう。
「違います。私は聖女じゃありません」
「ええっ?」
私の否定に大賢者はなぜか驚いたように目を見開いた。
「でもあなた、それだけの力があって――」
「聖女じゃありません。私は聖女の代わりに、この聖杯の修復をお願いするために来ました」
「ふうん、なるほどね。どれどれ……」
大賢者は不思議そうに目を細めた。そしてそっと聖杯の欠片に手をかざす。すると欠片がぽうっと淡く光り始め、カタカタと音を立てて震え始めた。神秘的な光景に私たちは声を忘れ、すっかり見入ってしまっていた。
これで聖杯は元に戻る。王城に持ち帰れば王太子の威信は揺らぐことなく、リインの聖女としての役目も変わることなく続いて行く。
けれど私たちの居場所は失われてしまう――そう思った時、揺れていた欠片がぴたりと動きを止めた。
「あー残念。私には直せないわ」
「えっ」
予想外の言葉に私とレゼンは同時に声を上げた。思わず顔を見合わせる私たちの動揺を楽しむように、大賢者は軽い調子で続けた。
「この子、もう自分の役目を終えたと思っているみたい」
「役目ですか……?」
「そうよ、ここまであなたたちを連れて来た。それにもう聖女を選ぶなんてやりたくないんですって」
戸惑いに満ちたレゼンの質問に答えながら、大賢者は私に視線を向けた。けれどそんなこと言われても理解できるわけがないし、ここで「はい、そうですか」と引き返すわけにもいかない。
「なぜですか? あなたが作ったものですよね」
「さあ。なんででしょうね」
「直せないなら新しいものを作っていただけないですか?」
「うーん、そうねぇ……」
食い下がる私に大賢者はのらりくらりと答える。彼女は相変わらず微笑んでいたものの、その夜空のような瞳は私の心の奥底を覗き込むかのように揺らめいていた。
「私が作ったものをいつまでも使っていないで、自分で作ったらどうかしら」
「え?」
「あなたならできるはずよ」
自分で作る?
ぽかんと見つめる私に大賢者は愉快そうに笑った。
「あなたが望んでいるのは、聖杯に選ばれることじゃないでしょう?」
「あ……」
その言葉は木々の間を駆け抜ける風のように私の胸を吹き抜けていった。
そうか、私が望んでいたのは……。
その瞬間、鳥が激しく飛び立つ音と共に、木々のざわめきが戻ってきた。
いつしか大賢者の姿は忽然と消えていた。まるで夢から覚めたかのような気分だ。レゼンを見ると彼もまた同じようにぼんやりとした表情をしていたが、すぐに我に返る。
しかし私たちが声を交わすことはなかった。なぜなら何本もの剣が私たちをぐるりと囲むように向けられていたからだ。やり過ごしたと思っていた兵士たちが、いつしか私たちの周りを取り囲んでいた。
「二人とも動くな。王太子殿下の命により貴様らを捕縛する」
◇
城に移送されて知ったのは、どうやら王太子とリインは私とレゼンが共謀して聖女の証を盗み出したのだと、国王陛下に訴えたということだった。
兵士に両腕を掴まれ、大理石の廊下を引きずられるように連れて行かれる。たどり着いた玉座の間には大臣たちが集まっていたものの、彼らが放つ冷たい空気は誰一人として私たちの味方ではないと思い知らせるものだった。
目の前の玉座には、どこかやつれた様子の国王が座っていた。そしてその傍らにはきょろきょろと落ち着かなく目を泳がせる王太子と、彼に寄り添う勝ち誇った表情のリインの姿……。
「おい、しっかり歩かないか!」
その時、背後から責め立てるような声が聞こえて来た。振り返ると私と同じように兵士に両腕を掴まれ、引きずられるようにレゼンが連れて来られるところだった。しかし彼の足元は覚束ない。見ればレゼンの頬は赤黒く腫れ上がり、口元にはすっかり乾ききった血がこびりついている。彼が暴行を受けたのは明らかだった。
「ひどい……」
思わず呟いた声は彼に届いたらしい。後ろ手に縛られたまま押し出されるように床に座り込んだ彼は、私を一目見ると申し訳なさそうに目を逸らした。
一方でこの状況を仕組んだ張本人――王太子スワードはちらちらこちらに視線を向けながら、玉座の国王に深く頭を下げた。
「こ、国王陛下。この二人が聖女の証を盗み出した者たちです。隣国へ逃亡するつもりだったようですが、私が派遣した兵により捕えられました」
「……うむ」
けれど国王は難しい顔をしたまま動かない。その様子が予想外だったのか、王太子は焦ったように従者に命じ、一つの箱を持ってこさせた。
「陛下、ご覧ください。発見された時、聖女の証である聖杯はこのような有様で……」
手のひら大の箱を王太子が開いた瞬間、国王、そして部屋に集まっていた大臣たちが息を呑んだ。中に入っていたのは聖女の証の無残な姿だった。
「まさか信じられん……」
「聖女の証が……じゃあこれから聖女はどうなるんだ」
一拍置いて、室内にざわめきが広がっていく。聖女がいてこそのこの国の豊かさだ。しばらくはリインがいるだろうが、次代の聖女はどうやって選べば良いのだろうか。もし聖女を見つけられなければ、これまでのような豊穣な収穫は得られない。そうなれば必然的に税収は減ってしまう。魔物の襲撃も増えるだろう。
「そうなれば、これまでのような生活は……」
誰かが発した一言にそこにいた誰しもが顔を見合わせる。黙っていても懐に入って来ていたものが失われてしまうのだ。そのことに気づいた大臣たちの憤りに満ちた視線が私とレゼンに突き刺さる。
そんな中、一つの人影が大臣たちをかき分けるように前に進み出た。
「――レゼン、お前という奴は!」
その男の声にレゼンははっと顔を上げた。それはヴェルミート伯爵――レゼンの父だった。激しい怒りに顔を真っ赤に染めた伯爵は、国王の前であるにも関わらず怒鳴り声を上げた。
「何のためにお前を引き取ってやったと思ってるんだ、この恩知らずが!」
伯爵はそう叫ぶと、兵士の制止も聞かずにレゼンの元へと駆け寄った。そして身動きの取れないレゼンを容赦なく蹴り倒した。
「ぐっ……」
「我が家の面目を潰しおって! 貴様に与えたものはすべて無駄だった! やはりあの時、捨てておけばよかった……!」
「も、申し訳――」
「黙れ! この役立たずめ!」
レゼンは低いうめき声をあげ、床に倒れ込んだ。伯爵はレゼンが抵抗できないのをいいことに、罵声を浴びせながら何度も蹴りつける。
その瞬間、私は彼の置かれていた立場を悟った。レゼンはヴェルミート家の人間ではない。伯爵家のため、ただ王太子の手足となることを求められていた傀儡だったのだ。彼が王家に忠誠を誓うことは、レゼンに残された唯一の生きる道で――
「――止めて! それ以上彼を傷つけないで!」
私はこらえきれず叫んだ。
その叫びは、怒りに我を忘れている伯爵の耳にも届いたようだ。彼はレゼンを蹴っていた足をぴたりと止めると、狂気に満ちた視線を私へと向けた。
「なんだと……そうか、お前がそそのかしたのか!」
「だ……駄目だ。やめろ、チェッタ……っ」
私の存在を思い出したことで、伯爵の怒りの標的が私に変わる。
制止する兵士を振り払い、伯爵は私に目標を定めた。絞り出すようなレゼンの声が届く。けれど私もまたこみ上げる怒りを抑えることができなかった。
「聖杯を壊したのはリインよ! 私たちは壊れた聖杯を直すために、王太子殿下から大賢者様の元へ行けと命じられただけです!」
私の声に、伯爵の動きがぴたりと止まった。玉座の間に集った大臣たちの間にも、一瞬にして静寂が訪れる。玉座の上の国王も、驚いたように僅かに眉を動かした。しかし――
「私たちに罪をなすりつけるつもりか! そのような卑怯な真似は許さん!」
声を発したのは王太子だった。一歩前へ踏み出した王太子からは先ほどまでの不安げな様子は消え去り、その瞳には私への強い敵意が宿っていた。どうやら私に事実を明らかにされたことが引き金となったらしい。都合の悪い状況を、王太子という立場を使って強引にねじ伏せようとしているのだろう。
その隣に立つリインは震えながらも王太子の袖を掴む。彼女は私を憐れむように目に涙を浮かべ、声を震わせた。
「チェッタ、私は怒ってないの。あなたもほんの出来心だったのでしょう? 私に憧れて、聖女の証に触れてみたかっただけよね。だから正直に言って。そうすればみんなきっと許してくれるわ」
そう語るリインの唇はわずかに持ち上がっていた。彼女は大きな瞳に涙をいっぱいに溜め、周囲に視線を振りまく。
「ねえ、皆さんそうでしょう? 陛下も、伯爵も……どうか二人を許してあげてください」
「ぐ……せ、聖女様がそう仰るのであれば……」
聖女にそう言われてしまえば、逆らうのは難しい。ヴェルミート伯爵は苦虫を嚙み潰したような顔で跪いた。このやり取りを見ていた王太子は、心底感動したように声を上げる。
「リイン……君は何て優しいんだ。やはり聖女は君しかいないよ。レゼンも罪を認めるんだ。君が彼女に加担したのは、私の不徳が招いた罪だ。まだ情状酌量の余地があるかもしれない」
「スワード様も私も、正直に話してくれれば許します。聖杯よりも、あなたたちの歪んだ心の方が心配だわ」
そう言いながらリインは優しい眼差しを浮かべた。そこに立つのは慈悲深い聖女と、冷静な判断力を持つ王太子。寄り添う二人はまるで絵画のように美しく見えた。
その光景にどこからか拍手が響き始め、やがて部屋全体を包み込む大きな喝采へと変わる。
「やはりリイン様こそ、真の聖女だ!」
「なんと慈悲深いお方だ……」
周囲から聞こえる賞賛の声にリインは恥ずかしそうにはにかんだ。咲き始めの花のような可憐な少女の笑顔だ。
けれど私の脳裏には、王太子にもらったアクセサリーが気に入らないと聖杯を壁に投げつけたリインの姿が浮かんでいた。きっとあの癇癪持ちの少女が、彼女の本当の姿だ。今、慈悲深い聖女を演じるリインは何者なのだろう。聖女として選ばれた彼女は、いったい何を望んでいたのだろう。
ふと横を見れば、床に横たわるレゼンは虚ろな表情で二人を眺めていた。レゼンにとって王太子への忠誠が唯一の生きる道だった。それなのにこうも簡単に裏切られるなんて。今にも崩れ去りそうな悲しい横顔に、私の胸にはどうしようもない憤りと、同時に乾いた笑いがこみ上げてきた。
「……ねえレゼン。やっぱり、私勘違いしていたみたい」
小さく呟いた言葉に、レゼンがわずかに目だけをこちらに向けた。私はその絶望に満ちた瞳を静かに見つめ返し、柔く撫でるようにほんの少しだけ笑ってみせる。
「大賢者様の言葉、やっと意味がわかったの。私、聖杯に“選ばれたかった”んじゃない」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥から熱がふつふつと湧き上がった。何かが内側から目覚めるように、指先がじんわりと光を帯びていく。気づけばレゼンの頬の傷跡から、こびりついていた乾いた血の塊がぽろりと剥がれ落ちた。赤黒く腫れ上がっていた肌もみるみるうちに引いていき、元の気真面目そうな顔立ちが戻ってくる。
「お……お前何を……」
驚愕の声を上げたレゼンに続いて、周囲の兵士たちがどよめいた。
「傷が……塞がったぞ」
「何が起きたんだ?」
まるで得体の知れぬものを見るように、兵士たちは困惑の声と共にじりじりと後ずさる。おかげで私たちの周りには奇妙な空間ができ、その空間の中心で私は静かに立ち上がった。玉座を見上げると王太子の怯えた瞳と視線がぶつかる。その隣では血の気の引いたリインがこちらを見つめていた。
聖杯を直してくるよう告げられた時、私は期待していた。この使命を果たせば、自分にも聖女として選ばれる機会が回って来るかもしれない、と。
けれど私たちの前に現れた大賢者は、私に「自分で作ったらどうか」と言った。その時は彼女が何を言っているのかわからなかったが、今ならわかる。
「私は聖女になりたかったわけじゃない。私は故郷を……皆を救いたかったの!」
その言葉と同時に、空気が震えるような感覚が走る。目の前の空間に夜空の星のような光が一粒、また一粒と瞬き始めた。光は渦を巻き、部屋の中央に集まっていく。
まるで奇跡のような光景に、誰しもが言葉を忘れて見入っていた。大臣たちも、兵士たちも、誰一人として言葉を発する者はいなかった。レゼンすらも呆然としたまま、目を逸らすことができずにいるようだ。
光の中心に形が現れ始めた。徐々にはっきりする輪郭――それは失われたはずの聖杯だった。けれど、それは今までのものとは違っていた。一切の装飾を持たず、透き通ったクリスタルの純粋な輝きを放つゴブレットだ。見た目は違う。しかしそれは紛れもなく“聖杯”だと、その場にいる全員が確信した。
「まさか……」
王太子は青ざめた顔で、手にしていた砕けた聖杯の欠片を見下ろした。その後ろでは国王が、よろよろと立ち上がっていた。釘付けになった視線の先には、もう一つの聖杯が神秘的な光の中に浮かんでいる。
しかし神聖な空気を切り裂くように、リインが悲鳴のような声を上げた。
「聖杯を返して! それは、私のものよ!」
リインは王太子を突き飛ばすようにして玉座を降りると、勢いよく聖杯に手を伸ばす。けれどその手が聖杯に触れた瞬間、まばゆい光が走り、彼女の手を弾き返す。リインは弾かれた衝撃で尻もちをついた。
「きゃあっ! やだっ、誰かこの女を捕まえて! その聖杯は私のものなの、触らせないで!」
だが彼女の言葉に誰も動こうとしなかった。いや、動けなかったのかもしれない。
座り込んだリインを無視し、私は一歩、光の中へ踏み出すとそっと聖杯に手を伸ばした。ひんやりとした器の感触に指が触れる――その瞬間、聖杯の中から清らかな水が勢いよく湧き出した。
清らかな水が満たされた聖杯は、内側から虹色の光を放っているようだった。水はどんどんあふれ出し、大理石の床へ広がっていく。
「あ、あれを見ろ!」
誰かの声にその声にハッと床を見れば、床に広がった水面がまるで鏡のように変化していた。しかしそこに映し出された光景に、誰しもが息を呑んだ。
水鏡に映し出されていたのは、薄暗い部屋の中。上質な絨毯が敷かれた室内には、重たそうなカーテンが閉じ切られ、窓の外の光は一切届いていなかった。
「こ、これは……殿下の……」
その場所がどこか気づいたのだろう。レゼンが震える声で呟いた。
部屋の中央には、長椅子に脚を投げ出すように座る王太子スワードと、その隣で腰かけるリインの姿があった。どうやらここは王太子の私室らしい。王太子は片手に酒杯を持ち、口元にはうっすらと笑みを浮かべている。リインは彼の肩にもたれながら、首飾りを指先でいじっていた。まるで今まさに目の前で起きているような映像に、そこにいた全員が声を上げることも忘れ見入っていた。
『でも、あの二人には感謝してるよ……勝手に罪を背負ってくれたんだからな』
王太子がぼそりと呟く。その口調は天気の話でもしているかのように軽い。
『ねえ、あの女本当に消してくれるんでしょうね? 他の子みたいに追い出せなくて困ってたんだから』
『ああ、レゼンが始末するさ。そう言って追い出したんだから』
リインは甘ったるい声で囁きながら、指先で王太子の顎を撫でる。それに答える王太子の声は低く、ぞっとするほど淡々としていた。
王太子の返答にリインは一瞬目を見開き、それから唇に笑みを浮かべた。
『ふふ、さすがスワード。私の望むこと、全部わかっちゃうんだから。私を選んで欲しいって思ったら、ちゃんと私を選んでくれるんだもん』
水面に映るリインは、王太子に寄り添いながら続ける。
『でもレゼンって本当に便利よね。あなたの命令なら何でも聞くもの』
『あいつは俺の“道具”だからな。養父から俺に従えと命じられているんだ。だから自分では何も決められない、従うだけの道具さ。戻ってきたらあいつも消さないとな』
リインと王太子の乾いた笑い声が、水面の向こうで響いた。
二人の笑い声が波紋のように広がり、水鏡が静かに消えると玉座の間には、張りつめた沈黙だけが残された。誰もが言葉を失い、話し出そうとする者はいなかった。
そんな中、私は「やっぱりそうだったんだ」と、妙に納得していた。
隣を見ると、レゼンは唇を固く結んで水面を見つめていた。
「あなた……私を殺すよう命じられていたのね」
私はレゼンを見つめながら、静かに問いかけた。レゼンは苦しげに唇を噛み、それでも私にしっかりと顔を向けて答えた。
「……すまない」
その一言に心がぎゅっと締め付けられる。けれど、それと同時に、どうしようもない安堵が胸を満たしていた。
レゼンは命じられた通りにしなかった。命を奪う機会なら何度もあっただろう。それなのに彼はそうしなかった。魔物から私を守ってくれた。追っ手が来た時にも一緒に逃げる道を選んだ。
自分で「殺さない」ことを選んだのだ。
この人は、 “誰かの道具”なんかじゃない。
「よかった……」
私はようやく心の底からそう思えた。
その時だ――ガシャン! と、何かが砕けるような音が玉座の間に響いた。
「まやかしだ! あれは幻術だ!」
叫んだのは王太子スワードだった。手の中の聖杯の欠片を床に叩きつけ、地団駄を踏みそうな勢いで騒ぎ立てている。彼の顔は怒りで赤く染まり、目はぎらぎらと血走っていた。
その声に重なるように、甲高い叫びが続いた。
「違うのよ! あれは全部、嘘なのっ!」
見ればリインが玉座の間の中央に一歩踏み出していた。手を大きく広げ、人々に必死で訴えるその姿はもはや舞台女優のようだ。
「あんなの全部誰かの細工よ! チェッタ、あんたでしょ!? 私を妬んで、陥れようとしているのね!」
リインの焦点のあわない目は見開かれ、唇はわなわなと震えている。
「私は聖女よっ、あんなこと言うわけないじゃない! それなのにどうしてこんな、ひどい……!」
しかし二人の声に応える者はいない。各々騒ぎ立てる二人の姿は、国に祝福を与え民を守るべき聖女と、次期国王として国を治め、正しい道に導く存在となるべき王太子の姿とは到底思えなかった。
「……静まれ」
「――っ!」
突如、低く威厳ある一声が玉座の間に響き渡った。
叫びかけていた王太子も、泣き崩れそうだったリインも、びくりと肩を揺らし動きを止めた。威厳に満ちた声の主――それは国王だった。誰もが息を呑み、玉座の上を見上げる。王は私の方へゆっくりと階段を一段ずつ降りてくる。
「ご無礼をお許しください」
次の瞬間、国王が私の前に跪いた。
その光景に玉座の間が、凍りついたように静まり返る。王太子は何かを言いかけたが、言葉に詰まったのか、ただ目を見開くばかりだった。
「……大賢者様が、私の夢に現れました」
「大賢者様が……」
その名を聞いた途端、あの夜空のような瞳が脳裏によみがえる。大賢者がなぜ国王の夢に……。私の疑問に答えるように、国王は静かに、しかし玉座の間全体に聞こえる声で告げた。
「大賢者様は、新たな聖女の証と共に、真の聖女たる少女が現れるだろうと教えてくださいました。しかしわが国には既に聖女が存在する。私はその夢が幻だと思っていたのですが――」
そう言いながら国王は青い顔をしている王太子を睨みつけた。
「けれどこの目で見て確信しました。あなたこそが、大賢者様の仰る真の聖女です。聖女様、どうかこの国を正しき道へと導いていただけないでしょうか」
その言葉にざわめきが走った。まさか新たな聖女が現れるなど、これまでの歴史を見てもあり得ないことだった。リインは相変わらず騒いでいるが、その声は誰の耳にも入らなかった。
「わ、私は……」
思わず声がかすれた。跪いたままの王の眼差しは真剣そのものだ。誰よりも高い身分にある国王が、地に膝をついて私に聖女になってほしいと乞うている――それは正直、気持ちが良かった。聖女として認められずにいたかつての私が、ようやく救われたような気分だった。
でも……
ふと、私はレゼンに視線を向けた。すると彼もまた私を見つめていたようだ。視線がぶつかる。
彼の赤銅色の瞳はまっすぐに私を見つめていた。真剣な顔は相変わらず気難しそうで……でも、なんだか初めて彼の顔を見たような気がした。
私は小さく笑うと、静かに首を振った。
「……私は、聖女にはなりません」
「な、なぜですか……!」
私の言葉に、王の瞳が見開かれる。玉座の間にも、ざわめきが走った。
私は震える息を整えながら続けた。
「聖女にならなくても、私には私の力でできることがあると気づいたんです。私が望んだのは“選ばれること”じゃありません。自分の意志で誰かを救えるようになりたかったんです。誰かの言葉を待つんじゃなくて、自分の手で選びたかった――それが、私の答えです」
沈黙が落ちる中、国王はしばらく私を見つめ、やがて小さなため息と共に深く頷いた。
「……大賢者様も、同じことを仰っていました。『真の聖女は聖杯に選ばれぬ』と。だからこそ、あなた様が真の聖女です」
「国王陛下……」
内心ホッとしながら、私は手の中の聖杯を握りしめる。穏やかな沈黙が私たちの間に流れた。
その隣で、縄を解かれたレゼンが一歩前に出た。
彼の姿は、まるで別人のようだった。背筋はまっすぐに伸び、まっすぐに前を見据えていた。かつての“王太子に従うだけの道具”だった彼の面影は微塵もない。
「王太子スワード殿下。あなたが元聖女リインと共謀し、国家と民を欺こうとした証拠はこの場のすべての者が目にしました」
「嘘だっ! あれは幻だ! レゼン貴様、何様のつもりだ! お前の実家がどうなってもいいのか?!」
王太子が怒りに任せて叫ぶ。しかし、もはや誰も彼の側につこうとしないのは明らかだった。大臣たちは遠巻きに二人の様子を眺めるだけだった。ヴェルミート伯爵ですら旗色が悪いと察したのだろう、いつの間にか姿を消している。
王太子の罵声にレゼンは一瞬目を伏せたものの、顔を上げたレゼンはためらいの無い声で告げた。
「……いいえ。私は彼女の命を奪うよう、殿下より命じられました」
「レゼン! 嘘は止めろ……っ、な、なんだ?」
「きゃ! は、放してよ!」
怒鳴り声と共にレゼンにつかみかかろうとした王太子は、困惑の声をあげた。それまで私たちを取り囲んでいた兵士が王太子とリインを取り押さえたのだ。ハッと見れば、国王の右手が高く掲げられている。国王が兵士たちに指示を出したのは明らかだった。彼の顔からはそれまでの穏やかさは消え、厳しい眼差しで彼らを見据えている。
レゼンは国王と私にそれぞれ視線を向けると、前に踏み出した。
「お二人の不正行為、私レゼン・ヴェルミートが、王国法に則りここに正式に告発いたします」
「な……っ! お、お前」
部屋中に響き渡るレゼンの声に、王太子は声にならない悲鳴を漏らし顔を歪ませた。そんな彼の前に国王が歩み寄る。
「スワードよ、私は父としてお前に期待をかけすぎたようだ。お前を信用し、目を向けてこなかった私にも責任がある。しっかりとお前たちを裁くのが私に残された最後の仕事だ」
「ち、父上……! くそ……こんな所でっ!」
国王の言葉に、王太子は悔しげに呻き、膝から崩れ落ちた。
一方、取り押さえられたリインは、泣き叫ぶこともせず、ただ茫然と宙を見つめている。何もかもが終わったことを悟ったような、そんな顔だった。
ゆっくりと彼女に歩み寄ると、気配に気づいたリインがはっと私を見た。次の瞬間、彼女の瞳に宿ったのはかつて見たこともないほど強い燃えるような憎悪だった。
「……どうしてあんたなのよ」
かすれた声だった。けれどその一言には彼女のすべてが込められていた。
「選ばれたのは私だったはずよ。スワードが選んだのも、聖杯が応えたのも私。見た目だって、私のほうがよっぽどそれらしかったのに……!」
その大きな瞳は泣いてもいないのに濡れて見えた。けれどそこにそれまでの自信はない。ただ私への怒りと、悔しさだけが残っていた。
「……リイン」
私は彼女のそばに膝をついた。
「あなたが嘘をついたことも、人を傷つけたことも、きっと許されることじゃない。でもあなたの聖女としての力は、私、否定しない」
リインの唇がわずかに震えた。泣き出すのかと思ったが、その瞳から涙は落ちなかった。ただ黙って私を睨みつけ、やがて静かに目を伏せた。
「……あんたに、そんなこと言われたくない」
小さくつぶやくと、彼女はもう何も言わなくなった。
兵士に捕らえられたまま、糸の切れた人形のように力なく項垂れているだけだった。
私は立ち上がると、最後にもう一度だけ彼女を見つめた。
もしかしたら、この国で誰よりも聖女になりたいと願っていたのは彼女だったのかもしれない。
聖女として選ばれたかった。愛されたかった。認められたかった――それだけだったのかもしれないが。
◇
東の空が白みはじめた頃、私は城門へと歩いていた。見送りに来たのはレゼンだけだった。
私は城を離れ、次の儀式までの一年、各地を巡りながら祝福を与えることにした。私が聖女としてできることを探した時に、思いついたがその方法だったのだ。
隣を歩くレゼンの肩には金糸の飾りが揺れている。これは王族の側近である証だ。従者の一人だったこれまでよりも、より近い位置で王族を補佐する立場であることがわかる。
「その服、似合ってるわね」
「まだ服に着られているがな」
レゼンは肩をすくめて笑った。
彼は今日から継承権一位となった第二王子の側近として仕えるそうだ。ヴェルミート伯爵家から離籍し、第二王子に縁のある家の養子となったことで、彼の立場は誰にも揺るがせないものとなった。
あの事件の後、王太子は王位継承権を剥奪された。今は牢に囚われ、裁きを待っている状況だ。厳しい判決となると聞いている。
リインも共犯として尋問を受けている。罪を犯したと言え、彼女の聖女の祝福を欲する者は多い。きっと判決後は辺境の修道院へ送られることになるだろうとレゼンは語っていた。
私に向けたリインのあの憎悪の眼差しは、聖杯に選ばれず、故郷を救えない無力感に囚われていた私の中にも、いつか宿っていたかもしれない感情だった。私は彼女の聖女としての力は否定しないと言ったけれど、それが彼女にとって救いになるのか、罰になるのかはわからない。けれどこの先彼女が、ただ選ばれるだけではない、自分自身の生き方を見つけられることを願わずにはいられなかった。
一方、国王は私を第二王子の妻にと望んだ。大賢者に認められた聖女を王妃とすれば、国の繁栄が約束されたようなものだからだ。けれど私はそちらにも首を横に振った。
そもそも私はそんな柄じゃないのだ。
「じゃあ、行くわ」
城門に差し掛かった頃、隣を見上げるとレゼンはわずかに眉をひそめていた。
「供はいらないのか?」
どうやら私が鞄に聖杯を入れただけの姿で旅立つことを心配していたようだ。
「一人で十分よ。魔物に襲われることはないでしょうし」
そう答えるとレゼンは「でも……」と言いかけた。けれど私が一度決めたら変えない人間と思い出したのだろう。仕方ないとでも言うようにため息をついた。
「……気をつけて」
「ええ、あなたも頑張ってね」
微笑み合う私たちの間を、一筋の風が吹き抜けていった。
その風を合図にするように私はレゼンに背を向けた。顔を上げるとそこには朝焼けに照らされる道が伸びている。門出にはふさわしい光景だ。一歩、また一歩踏み出し、私は歩き始めた。
私の聖女としての第一歩――。
けれど背中に感じ続ける視線の気配に足が重くなる。鞄の中の聖杯も重さを増したような感覚に、私は鞄の紐をぎゅっと握りしめた。振り返らないつもりだった……ずっと前からそう決めていたのに。
私は歩みを止めず、思い切って振り返った。視線の先には予想通りレゼンがまだそこにいた。
風が吹き抜け、レゼンの髪を少し乱す。そんな中、彼はまっすぐ私を見つめていた。まるで、私が振り返るのを信じていたかのように。
あの時――聖杯を直す旅の中で彼は私を傷つけようとしなかった。すでにあの時、彼は自分の一歩を踏み出していたのかもしれない。
私は後ろ歩きをしながら、大きく手を振って叫んだ。
「――ねえ! そういえばあの時、守ってくれてありがとう!」
レゼンは驚いたように目を見開いた後、すぐに笑った。それは私が初めて見る彼の少年のような笑顔だった。
「お前は優しい!」
そう叫びながらレゼンも大きく手を振り返す。
「俺は……お前こそが聖女だと思う!」
「――っ……ありがとう!」
思いがけないその言葉に、私の胸の奥に光が差し込む。
自然と笑みがこぼれ、気づけば私も両手で思いきり手を振っていた。
そしてもう一度レゼンに背を向け、私は光の差す方へ歩き出した。
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