桃太郎外伝 ~折られた翼~
「なあ猿よ。明日は鬼ヶ島に着くな」
雉が口を開いたのは夜が更け焚火の炎もだいぶ小さくなってからだった。
起きているのは雉と猿だけで、桃太郎と犬はすでに一緒の毛布にくるまって細い寝息を立てていた。
風は冷たく、遠くから波の音だけが聞こえた。
その声を聞いたのは猿だけだった。
猿は驚いた。
雉の声を聞いたのはかなり久しぶりのことだったからだ。
彼は寡黙な戦士だった。
まるで息を惜しむかのように、言葉の力を秘するかのように普段は何も語らなかった。
おそらくは桃太郎、犬に対しても同じだったのではないだろうか。
そのため猿はある種の感動を覚えながらその低くしゃがれた声を聞いたのだった。
「明日は鬼ヶ島に着く」
「んだな」
猿はうなずいた。
暗闇の向こうに目をやると黒く静まる木々の影があった。
その向こうには海がある。
さらにその向こうには鬼ヶ島があり、神仏をも恐れぬ鬼の群れをなして暮らしているのだろう。
「明日は鬼ヶ島に着く……」
「んだ」
かすれた声で繰り返す雉に猿はうなずいた。
「きっと明日の今頃には決着がついとるべえな。鬼たちの命日さなる。大丈夫だあ、負けはねえ」
だが雉を振り返った猿はぎょっとした。
雉の体が小さく震えていたのだ。
「なした、雉。なした」
雉は答えなかった。
はじめ猿は雉が凍えているのかと思ったが、それはないとすぐに気づいた。
この戦士は凍えることはない。
では恐怖の震えだろうか。
だがこの戦士が恐れるなどということもまたありえないのだ。
雉は何も言わなかった。
長く長く口をつぐんだままだったが、しばらくしてようやく口を開いた。
「俺たちはなぜ鬼ヶ島に行くのだ」
「なあにを言っとるべか」
猿は当惑した。
「おらたちはももたろさんのお供として鬼を退治しに行くんだべよ」
「知っている」
「じゃあおめ……」
「だがわからんのだ。なぜそうなった」
雉のその声には深い困惑の色があった。
「なぜ俺たちは桃太郎殿についていくことになったのだ」
「それはおめ、きび団子をもらって」
「お前もそうなのか?」
「んだ」
「確かか?」
「そりゃあ……」
「俺は思い出せん。頭に霞がかかったかのようだ」
猿は桃太郎と出会ったあの日の記憶をたどった。
あれは日差しの強い夏の昼下がりのことだった。
桃太郎は犬を伴って猿の暮らす山の峠を通っていた。
その頃猿はまだ当然お供ではなく、ある群れの頭目として猿の一団を率いていた。
桃太郎たちが通ったのは彼らの縄張りで、猿は軽く脅して桃太郎たちを追い払おうとしたのだった。
気付くと猿は地面に転がされていた。
木々の葉の間からこぼれる日の光がきらきらと眩しかった。
桃太郎が何かを取りだした。
いい匂いのするそれは猿の口の中に押し込まれ、甘く溶けた。
……そこから先は思い出せない。
猿は夜闇に頭を振った。
いつの間にか頭が痛かった。
何も考えられない。
考えようとすると甘い香りが鼻をつく。
そうするともう思考の力を失ってしまうのだった。
何も考えられない。
「俺は高く飛んでいた」
雉の声にゆっくりと顔を上げる。
雉の目は、焚火の明かりをてらてらと反射してどこか遠くを見ていた。
その先にあるのは夜の闇に包まれた静寂の森だったかもしれないしその向こうの波立つ海だったかもしれないし、もしかしたらもっと遠くの何かだったかもしれない。
いずれにしろ猿はその目を美しいと思った。
「そうだ、高く飛んでいた。どこまでも行くつもりだった。どこまでもいけると思った。だが今はここにいる。なぜだろう。俺はもっと遠くに行きたかったんだ。海の向こう。鬼ヶ島の向こう。空の果てまで」
そこまで言って雉は目を両方の翼で覆った。
「俺はもう高くも遠くへも飛べない。翼は折られた。そして明日は多くの命を奪うのだ」
そしてそれきり何も言わなくなった。
猿はおそるおそる手を伸ばして、その背中を撫でてやった。
相変わらず頭はぼうっとして、霞に覆われてしまったままだった。
翌日鬼を退治したあと、いつの間にか雉の姿は消えていた。
桃太郎と犬に訊ねられたが猿も彼がどこに行ったのかは知らなかった。
雉を探す傍ら、猿はこっそり犬に訊ねた。
「なあ、おめ、なんでももたろさんについてきた? 覚えてるべか?」
「覚えてないなあ」
「そのこと、気にはならねえか」
「ならない。全く」
犬は耳の裏をかきながら断言した。
猿はそれ以上訊ねる気をなくした。
遥かな空を見上げた。
もちろんそこにも雉の姿はなかった。