ガラス越しに
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
鏡像認知、という言葉をあなたはご存じかしら?
そう、鏡に映った姿を自分の姿である、と認識できる力のことね。
人間は2,3歳ごろまで、この認識を持つことができないとされている。鏡に映ったのは自分とは別の誰かである、と見てしまうのね。
動物でも認知ができる生き物と、できない生き物がいるみたい。前者が類人猿やイルカ、カササギなどなど。自分の身体に汚れがくっついたとき、鏡で見ながらそれを取り除けるということをやってのけたとか。
鏡は、元はというとガラスに手を入れたもの。
向こう側の光を遮り、こちら側の光を反射しやすくするよう、金属加工を施したもの。
鏡が神秘におおいに使われてきたのであれば、その原型たるガラスもまた不思議な力を持っていて、しかりだと思えない?
私が昔に体験したことなんだけど、聞いてみないかしら?
先に話したような鏡とガラスのつくりの違いを知らず、疑問にも思わなかった子供のころ。
私は夜に、部屋の窓ごしに見上げる景色が好きだった。
家が少し高台のところにあったし、周りの家々からも少し距離が開いている。自分の部屋の明かりさえ消せば、空の星々を見上げることもたやすかった。
ただ、そのときに映る自分の顔が少し不満。産まれてこのかた、つきあってきた造形そのものに、いまさら文句を言う気はない。
不満があるのは、最近になってニキビが増えてきたこと。お手入れや生活には気をつけているものの、ややもしたら頬やおでこにできてくるのは、体質なのかしら。
その晩のにきびは、口の周りにできているものだった。
下唇のやや右下。ぷくりと白い吹き出る頭がガラスに反射していて、ますます不愉快。
いますぐにでもかき落としてやりたいけど、痕が残ってしまうのは明らか。以前もそうしてきたように、塗り薬を塗って効果を期待するよりなかった。
病院に行く、という友達の話もあったけれど、私の中ではニキビなど蚊に刺されたのと同レベルのしろもの。重大な病気を運ぶ恐れありといわれても、自分が味わわないうちは幻と大差なく、うっとおしさを振りまく程度の認識。
わざわざお医者さんの手をわずらわせるものじゃない。頼ったら負けの気がする。
そんな考えが、私に自然な治癒を期待させ続けていたの。
窓から見る今日の空には、星がさほど多くない。
満月が出ていたから。私の目よりやや高めの角度に浮かぶ、硬貨のような大きさのそれは、いつにないほど白っぽい光を放っている。
見慣れない光景に、つい私はガラスに手をつけ、もっとあの月をよく見ようと顔を近寄せたときだった。
空に浮かぶ白い月が、一瞬かげったように見えた。
目の前を虫などが横切ったわけじゃない。雲が月を隠すには速すぎる。光がさえぎられ、再び私の瞳がとらえるまで一秒とかからなかったと思う。
むずがゆさ。触るまいと思った下唇の近くが、にわかに熱とくすぐったさを持ち出したの。
蚊をたとえの引き合いに出したけれど、まさにそれの一番耐え難いとき。つい触りかけて、それでも触るまいとして、私の右手は半ば覆うような形で、ニキビの周囲へ近づいたり、遠ざけたりを繰り返してしまう。
そのかゆさも、せいぜい数秒程度。来た時と同じように、突然引いてしまう。
窓ガラスに映した手を、そっと取り除けてみて、思わず二度見しちゃったわ。
ニキビ痕がすっかりなくなっている。肌に多少の赤みが残っていたけれど、あの白い吹き出ものの姿はみじんもなかったの。
まさか、知らない間にかき落としてしまったのかと、足元のあたりを丹念に探したけれど、それらしきものは見つからない。
おそるおそる、自分の唇まわりに触れてみる。
やっぱりそこには以前通りの、私の肌触りがあったの。
苦労していただけに、ありがたい気持ちがあったのは間違いない。でも、これまでにないことに、気味悪さを感じているのも確か。
――もし、明日一日を無事に過ごせたら、あのことを信じてもいいかも。
勝手にそう取り決める私は、実際に次の日を何事もなく過ごすことができたわ。
今日からしばらくは曇りが続く。実際に夜空を見上げても、はっきり雲に覆い隠されているのが分かったの。
ひときわホルモンが不安定なのか、その数日の間でも私は新しくニキビをこさえてしまっていたわ。両方の頬に帯状に広がるくらいの、まとまったものをね。
数日ぶりに晴れる夜空。私はまた窓越しに月を見たわ。
あの時と同じ白、けれどあの時とは違う三日月の光。「もしかして」と私はまた、ガラスへかじりつくようにして、空の光源を見やっていく。
かつてのときに感じた、むずがゆさはなかった。代わりに、私の頬のあたりににじむ、湿る感触。そして膿特有の臭い。
つい、と私は指でもって触れようとする。
そこには何の液体も浮かんではいなかったけれど、私を悩ませていた突起の手触りさえもそこにはない。
窓に映る自分の顔を見て、再度確信したの。ほんの数秒前まで、赤々と私の頬に川を作るかのように思われたにきびたち。それらが完全に姿を消していたのだから。
奇跡を確かめた私は、怖さがいっぺんに興奮へ変わってしまう。
次の日、友達に自慢げに話をしたのだけれど、そのみんなが怪訝そうな目で私を見てきたわ。
にきびに悩む人への対策になるかもと、親切心から教えたのに、この反応は気に食わない。
不満げな私に対し、友達はこう返してくれる。
「昨日は、新月の日だよ」と。
そんな、とカレンダーの月齢を見ると、本当に月の気配などこそりとものぞかない一夜であることが分かったわ。
もちろん、あの満月らしき光を見た日も満月足りえない日だったわけよ。
それに気づいてほどなく。家族が家の変なところに気づいたの。
屋根の部分。うちん家の雨どいからてっぺんに立つアンテナにかけて、ジンマシンのようなぶつぶつが浮かんでいたの。
傷みによる穴やカビ、サビとかの線なら分かるけれど、屋根は屋根、アンテナはアンテナの色そのもので、あぶくのような突起がいくつも浮かんでいる。
それは私のにきびのようだったの。
あの月ではない光が、私のにきびをどうして奪ったかは分からない。
でも代わりに、「向こう」側にあるにきびらしきものが、こちらへ来てしまったんじゃないかと私は思っているの。
部屋の窓からしか見えない、あの光によってね。