崖の国(2)
切り立った峡谷の壁面を這うように削り穴をあけて作られた国、それが崖の国である。
しかしよくよく見れば出っ張りなどを利用して作られた足場もそれなりにあり、決してアリや穴ネズミのように土の中に暮らしているというわけではないようだ。
ファラは何とも言えぬ複雑な空気の中、自らを贄と説明した少女ルナリと共に壁の道を下りていた。
当然、削られるようにして作られた階段である。
飛べるので律儀に歩いて下る必要は本来無いが、どのような目で見られるか予想がつかないので大人しくしていた方がいいだろう。
ルナリはクレーターを目の前に色々と説明して以降、ずっと黙ったままだ。
その命は救われたが、一方で崇め奉っていた神が跡形もなく蒸発していれば動揺もするだろう。
明らかに出会った時よりも距離を取るように歩いている事から、避けられているのは明白に感じた。
――やっぱり怒ってるのかな。
その背中の後に続きながらファラは思う。
彼女だけではない。きっと国に住む誰もがショックを受けるに決まっている。
平穏に暮らすという当初の唯一の目的は叶いそうにない気がした。
「……こちらへ。」
短くルナリは言い、やたら凝った絵が石の壁に直接描かれている通路を通る。
鳥が獣に喰われ、獣が竜に喰われ、竜が巨人に喰われ、巨人が虫の大群に喰われ、虫の大群が鳥に喰われ――延々とそれらの絵は続いて行き、そして最後に一匹の巨大な蛇が全てを飲み込むように描かれていた。
通路を擦れ違う者は一人もいない。
明かりにボンヤリと光を発する石が各所に埋め込まれているが、心許ない光量で闇夜より少しマシ程度の明るさしかなかった。
足場は丁寧に均された坂道で段差は無く、おかげで転ぶ心配はなさそうだ。
もっともファラに関してはたとえ完璧な暗黒の中であろうと地形を粒子レベルの細かさで正確に把握することが可能であるから、明かりの有無や段差があったとして特に何か思うところはないのだが。
「ここは?」
それは一枚の分厚い布の仕切り。扉のような役割のものだろう。
「王の間でございます。」
「おう……王?」
どうして?
その疑問もよくよく考えてみれば当然かもしれなった。
それだけの事をしでかしたのだ、説明は必要ないほどに明白だろう。
緊張の面持ちでファラは先に入って行ったルナリの後に続き足を踏み入れた。
瞬時に目が眩むほどの光が瞳を刺した。
昼の陽ざしに匹敵する眩き輝きが空間に満ち溢れ、それらは訪れた者全てを包み込む。あらゆる方向から齎される閃光により影は姿を表せず、その為に手をかざして光を遮るなどの行為もまったく意味のない無駄な足掻きにしかならない。
すぐさま『光度の調整』が行われた為ファラは空間の中を瞬時に把握する事が出来た。
光の元は壁と天井に模様を描くようにして埋め込まれた輝く石。通路で見たものとは次元の違う明るさであり、一つ一つがその内に小さな太陽を宿しているかのようだ。壁には飾りの代わりか通路と同じような絵が描かれており、しかし多くの空間はまだ空白でありのままの灰色をしていた。
もっとも、それらの詳しい情報は後に記憶を再確認したに過ぎない。
この時におけるファラの視線はただ一つ、目の前に座る老人にのみ向けられていた。
真っ白な衣装で複雑な紋様の描かれる絨毯の上に直接座った一人の背を向けている男。
ルナリはいつの間にか膝魔づいていたのでファラもそれに倣う。この時、ルナリが凄い顔をしていたように見えたがきっと気のせいだろう。
「どうして戻った?」
「神の代替わりにより契約は失われました。」
「代替わり? ありえん。」
振り返った男は鋭い眼でルナリを睨む。
白の目立つ灰色の髪と皺の目立つ顔から相当な年寄りに見えるが、頭の中の声によるとそれほど高齢ではないらしい。あくまで見た目の印象でそのように感じるだけのようだ。
「いいえ、確かに神は死にました。」
「であれば、あの神の怒りは何であったというのだ?」
「新なる神による古き神への死の鉄槌です。」
「はははは、面白い事を言う。仮に二つの神が真に争ったのであれば山は死に絶えているはずだ。神とは自然そのもの。神とは摂理そのもの。神とは世界そのもの。古き世界と新たなる世界がぶつかれば、その勝敗が決したのならばどちらかは死ぬのだ。今ここが死んだ山でも新生した山でも無い事が、新たなる神の降臨など起きていない事を証明している。代替わりなど世迷い事も甚だしい。」
「それは言い伝えに過ぎません!」
「そうだ。遥か古の時代より伝わる真実だ。」
頑固そうに国王はルナリの言葉を突っぱねる。
まるで聞く耳を持っていないようだ。
『言い伝えとは人の認識、特に宗教の影響が強くなることがデータベースより証明可能です。年月による情報の、欠落、解釈の変更、認識の齟齬、秘匿、失伝など、変質の仕方は様々あります。』
つまりは正確に状況や起きることを示しているわけではない、という事だろう。
そもそも国王の言葉が正しいとすればあの蛇は生きていることになる。
『敵対存在の完全消滅は観測されています。』
その場にいた、というか知らぬうちに攻撃していた張本人であるファラの認識も声と同じだ。。
「あの。」
おずおずとファラは手を上げようとする。
「黙れ。口を開く許可など出していない。……贄よ、いかなる理由でこの者をここへ入れた?」
「そのお方こそ、新なる神でありますが故に。」
「新なる神? このような小娘が?」
大きく国王は笑った。まったく見た目からは想像もつかない程に大きな声で。
ルナリの言葉は彼にとってよほど可笑しい事だったらしい。
「ふふふ、バカも休み休み言え。そのような小娘が神であるものか。だいたい神が人に頭を垂れるなどありえん。つまりは一介の人である証明を自ら行っている時点で、神などで無いのは明白。」
「新なる神は非常に慈悲深く謙虚で在らせられます。神は恐れ多くも我らへ敬意を持って接してくださっておられるのです。」
「謙虚ときたか! 神が謙虚など、まったく天が地へ落ちるよりあり得ぬことよ!」
「神様は謙虚ではいけないのですか?」
それは純粋な疑問から。
決してトゲのある言い方をしたわけではなかった。
しかし国王は自分の考えを否定されたと感じたのだろう。顔は見る見るうちに赤く染まって茹でたタコのような色の変化を見せる。
「小娘、部外者の分際でワシに口答えするのか!」
「そんなつもりは――。」
「黙れ! おい、お前たち! この無礼者を即刻叩き出せ!!」
はたして何処に隠れていたのか、通路から影からわらわらと姿を現したのは武器を手に持った覆面たち。無地の布で顔隠し主な獲物は石槍や石のナイフ。ただ身分の高そうな装飾品を身に着けている者に関しては鉄のものを握っていた。
「ワシは寛大な王だ。お前は不甲斐ない連中の代わりに贄を護衛してくれたと知っている。故に、本来ならば処刑の重罪だが特別に国外追放で許してやろう。……もう一度我が国へ足を踏み入れれば命は無いがな。」
ジリジリと覆面たちが詰め寄ってくる。
飛びついてこないのは警戒からなのだろうか。一方ですぐ隣では怯えた顔でファラの方を見、何かを懇願するよう目で訴えているルナリの姿もあった。
『敵対意識を確認。排除しますか?』
「排除ってアレですよね? ダメですよ、やり過ぎです!」
思い出されるのは昨日の悲劇。
力加減と言うものを知らない声の好きにさせると国が消えて無くなる。
『対応レベルの引き下げ要請を受諾。無力化しますか?』
「それくらいなら……でも傷つけるとかはダメですよ?」
『要望を受け、更なる対応レベルの引き下げを行います。演算完了。承認を実行します。』
声がファラの意図を汲む。そしてついに覆面たちは飛び掛かってきた。
瞬きの間すらなかった。
手に武器を持ち構えていた者たち、無手で飛び掛かり抑え込もうとしていた者たち、全ての覆面たちは一人残らずその場に崩れるように倒れた。まるで糸を切られた人形と言うのが適切か、それとも雨に晒された砂の城とでも言うべきか。
魂でも抜かれたかのように誰もが白目をむき、だらしなく口を開けてだらりと舌が飛び出し、眠るにしては不自然な姿勢のままピクリとも動かない。
――あれ?
「あの、私傷つけるのダメっで言いましたよね?!」
『要請通りに無力化いたしました。』
「これ生きてるんですか? 大丈夫ですか? 何か凄い状態ですよ?!」
『一時的にある種の磁場によって脳幹網様体の活動を強制的に止め、昏睡状態へ落としています。』
「意味わかりませんけど、ちゃんと生きているんですね?」
『活動を再開させれば覚醒します。』
死んでいるわけでないなら良かった。
安心できたところでファラは唖然とした顔で固まっている国王の方を向く。
視線がその身に注がれた瞬間、明らかに国王は恐怖の感情に飲まれた。
目を飛び出すのではないかという程に開き、口はパクパクと動かすも声は喉につっかえて一向に出てくる気配はないようだ。体を後ろに反らせるようにして背面の方の床に両手をついた姿は腰を抜かした人の手本として記録されるべきだろう程に完成されていた。
「えっと、ごめんなさい?」
「あ……。」
「あ?」
「悪魔め?! 誰か、誰か直ぐにこの化物を捕らえ、いや殺せ! 今すぐにだ! 国が亡ぶぞ!!」
「やっぱりこうなった!!」
何事も力で解決するのは良くないという教訓だろう。
そしてこの状況下で納得させる方法が何か存在するのだろうか?
困ったことに蛇は存在そのものが消失してしまっているので歴史の本に倣って手柄の首を持ってくるという事は出来ない。ルナリのように現地へ連れて行けば納得して貰えるような気もするが、大人しく言う通りに従ってくれはしないだろう。
かといって力を見せても“方向性”が決まってしまっている現状では悪化の一途を辿るだけの可能性が非常に高い。それこそ世界の敵認定をされかねないだろう。
「どうしましょう、逃げる?」
一つの案だが、この様子で時がたてば落ち着くとも思えない。
むしろ悪魔だなんだという話が隅々まで広がり取り返しのつかない状況となる予感ばかり。
まさに八方塞がりである。
最早なるようになれの精神で激流に身を任せるしかないのか?
「ほっほっほ、こりゃまた随分と賑やかになっているのう!」
疫病神としか思えない不吉な笑い声。
『存在率変動』という以前も聞いたような言葉と共に、非常に見覚えのある老人が姿を現した。
「ワシの助けが必要かな? 若い山神ど――。」
最後まで言うのを待たない。
柄にもなくファラは条件反射的に、至極自然に体が動いた。
軽く飛んでは高さを稼ぎその側頭部へ鞭のような足の一撃をお見舞いする。当然の法則で鮮やかな蹴りを受け老人は受け身の暇すらなく、その体は宙を舞い壁へと突き進んだ。
衝撃と揺れと砂埃が部屋の時を止めたのだった。




