崖の国(1)
天の怒りが空を染めた。
嘆きの雨が大地を濡らした。
神は荒ぶり、災禍は森に暮らす全ての存在へ等しく降りかかる。
いかなる勇者であっても決して摂理に逆らう事は許されない。
彼らに残された手は、怯え、震え、頭を抱えて地の底に隠れながら恐怖が過ぎ去るのを待つ事だけ。
一つの国があった。
万年の時と川の流れにより削られた山、その鋭利な切れ込みの狭間に隠れるように作られた国。
岩壁をくり抜いて作られた地を駆ける獣も、川を揺蕩う怪魚も恐れずに済む安息の地。
そこに住まう者たちでさえも神を恐れた。
一たび怒れば大地が裂け、国の半分が失われた事さえある。
故に彼らは神を敬い、鎮め、その矛先が己の元へ来ないよう祈りを捧げていた。
一つの行列があった。
たった数人の列。前を行くのは大柄の男。後ろに立つのは屈強な男。
その間には傘を持つ女、箱を持つ女、険しい顔の老婆。
彼らの中心に一人の少女がいた。
煌びやかな衣装に身を包み、唯一傘の下にあって衣装が泥や雨で汚れないようにとしきりに気にして歩いている。
一段はゆっくり、ゆっくりと暗き森を進んでいた。
その顔に表情は無い。
全てを諦めたような、全てを受け入れたような、あまりに達観したものが張り付いている。
「雨は――。」
老婆が口を開いた。
「雨は祝福じゃ。お前の来訪を、神が喜んで下さっているという祝福の証じゃ。」
「……はい。」
「お前は神に受け入れられる。皆を救う礎となるのじゃ。」
「……はい。」
「何か、心に淀みが見える。話して見なさい。」
「いいえ、何も。私の心は澄んでおります。」
「気になるのじゃろう? あの赤きの太陽が、あの硬き雨が、……神の怒りの深さが。」
少女は口を開きかけ、そして閉じた。
まさに老婆のいう事は正しい。
「案ずることは無い。これは古き契約。如何に神と言えども、いや神であるからこそ約束を反故にすることはできない。お前と言う存在が御元へ辿り着いたならば、決してその怒りは我らの方へ向くことは無いのだ。」
「本当に、本当にそうでしょうか?」
「間違いない。古の時代より、この契約の破られたことは一度として存在しない。」
「ならば――。」
――ならば安心ですね。
そう言おうとした。
そう言いたかった。
そう言えなかった。
言わせぬものが現れた。
轟音。それは無数の獅子たちの力強い蹄の音に似ている。
音は次第に強く、大きく、そして数を増やし、神鳴りの如き轟きながら押し寄せてきた。
「逃げろ!」
誰かが言った。
もしかしたら自分で言ったのかもしれない。
まだ押し寄せる死の流れから距離はあるが、人の足で逃げ切れる程に遅くは無い。なにより濡れた斜面に重い衣服では思ったように足を進めることはできなかった。
みんな先へ先へと逃げていく。
どんどんと、その姿は遠く。もう手を伸ばしてもその背に指先は届かない。
全てを飲み込む轟音により静寂が世界を支配した。
もう何も聞こえない。
自分の声すらも分からない。
少女は立ち止まり、重く立ち込める雲を見上げた。
顔を伝うのは涙なのか、それとも温い雨の雫だったのか。
御役目を全うできず、国に降りかかる災禍を止める事の出来ない事は何よりも悲しかった。
光を見た。
神々しい光を。
あり得ざる太陽の光が冷え切った頬を温め、その中に浮かび上がった影が直ぐ近くに舞い降りる。
「ジッとしててください!」
凛とした声が、不思議と安心する声が命令する。
逆らえない。逆らう気力も無い。ボンヤリと真っ白な頭で少女は頷く。
音が、音が止まった。
何が起きたのか、誰が何を行ったのか。
それは神秘にして秘匿されなければならない奇跡だったかもしれない。
しかし振り返らずにはいられなかった。
その姿は美しかった。
一人の少女。おそらくは自分よりも年は下であろう容姿の少女が鋭く巨大な岩たちの前に立っている。まるで、自分との間に立ちふさがるように。
「間に合いました……。」
謎の少女の緊張したような体から力が抜け、吐き出す空気と共にその背が僅かに曲がる。
ホッとした様子で振り返った、その笑顔を私は永遠に忘れないだろう。
謎の少女は自らをファラと名乗った。
空を自在に舞い、そして崩れた山をも止めて見せる超常の力を持っているようだ。
理解など追いつくわけもなく、しかし命を救われた事だけは状況から受け入れざるを得なかった。
「無事でよかったです。」
「命をお救い頂き、なんとお礼を申せばよいか。」
「お礼なんてとんでも! 元々を言えば私に原因がある事なので……。」
ファラはバツの悪そうに頬を掻く。
地滑りは自然の災害そのもの。原因など自意識過剰ではないかと普通ならば思うところではあるが、先ほどの奇跡を見てしまうとあながちホラではないのかもしれない。
しかしファラの力に救われたのも事実だ。
そもそも力ある者が弱き自分を助ける道理など存在しないのだから、感謝は当然である。
「いかな理由で在れ、これで国が救われるのです。お礼はしきれません。……残念ながら私は御役目のため何もできませんが、せめて心よりの感謝を送らせててください。」
だからそう深々と頭を下げる。
「うう、なんだか酷いマッチポンプをしている気分です。……あの、私に何かお手伝いの出来ることはありますか? 先ほどから言っている御役目とか。」
「そんな! 命を助けて頂いただけでも途方もないご恩だというのに、私共の都合に付き合っていただくわけに……。」
「全然いいよ。さっきも言ったけど、そもそも私が悪いことだから。」
そうファラは申し訳なさそうに、そして気さくに笑ってみせた。
既に一度は断った。
二度断るのは相手に恥をかかせることになるだろう。
少女は諦めの笑顔で提案を受け入れることにした。
「それでは、儀式の祭壇まで護衛をして頂きたく思います。恐ろしい獣もでますので。」
「分かりました。任せてください!」
他の人々は無事だろうか?
土砂崩れは完全に止まっている。最も逃げ遅れていたのは自分であるから、恐らくは巻き添えにならずに済んでいるとは思うが。
「それで、その儀式の祭壇というのはどの辺にあるのですか?」
「ここから西へしばし歩いたところです。」
「……え? 西?」
「はい、ご覧になったか分からりませんが、昨日神の怒りが天を焦がしました方角。儀式の祭壇はそこにあり、贄によってその荒ぶるお心を鎮めるのです。」
「贄? ………………あー、そうか……そうかー…………。」
「あの、何か気になる事でもあるのですか?」
「えっと申し訳ない? いや良かったねと言うべきなのかな。とりあえず行ってから説明するね?」
その時、どうしてそのようにファラが言い淀むのか少女には分からなかった。
ただ何か難しい難題を考えているのは、悩み、唸り、葛藤し、喜びと虚しさと僅かな罪悪感にコロコロと変化する顔を見れば一目瞭然だった。
西と言うだけで、神の怒りが世界に響いた起点へ向かうだけで、国の者でもないのにこれほどまで複雑な感情をファラが抱いている理由。その真実は祭壇に、いや祭壇のあった場所に辿り着いてようやく少女は理解した。
もっともこの理解したという表現は正確ではない。
なにしろ理解するまでには日が傾き、雲が晴れて世界が真っ赤に染まるまでの時間が必要だったのだから。それまでの間、ただ何も言わず神妙な顔でファラは傍に座っていた。