007:密偵
アーティスの目の前に現れたのは全身黒ずくめの男だった。黒い皮鎧に黒い手甲、黒い脚絆、黒い靴、髪も黒だった。背丈はアーティスと同じくらいの長身であった。
黒い男はアーティスに対峙すると、スッと右ひざを折って、その場に跪いた。頭を下げて、アーティスに礼をとる。
「カッシュ」
アーティスは相手の名前を呼んだ。黒い男が顔を上げる。全身は黒ずくめだったが、瞳だけは青かった。月光に照らされた顔は細顔だが精悍な印象がある。年のころもアーティスと同じくらいか。
「何かあったか」
アーティスが問いかけると黒い剣士カッシュは頷いた。
「グラナダ島の件ですが、どうやら本物らしいです」
抑えた声でカッシュが答えた。声量は小さいが、はっきりと聞こえる。アーティスとの距離を測って確実に聞こえ、しかもそれ以上の範囲に聞こえない絶妙な音量であった。
グラナダはここから南へ下った、カスタマーナ海に浮かぶ小さな島である。事の起こりは数カ月前、その島の住人と連絡が取れなくなったことから始まる。島の住人が漁に現れず、不思議に思った近くの漁師が島を訪ねたところ、その島唯一の町に人気がなく、家々が壊されているのを見た。周囲を捜索しようとしたところ、島の奥から異様な声が聞こえるに至って、その漁師は島から逃げ帰った。
さらにヘプターニ王国の兵士が調査に行って、しかし全滅したことでこの島は世間から隔離させられることになった。
「やはり、いたか」
アーティスは言って、手に持ったワインを一口飲んだ。ワインの味は特別においしいというものではなかったが、やや辛口で口当たりはよかった。だが、なぜか苦いものを感じた。
かつて皇帝となる前のフェリアス・カナーンがファルアニアを統一するきっかけとなったのが魔獣の封印であった。当時、世界は乱れ、魔物・魔獣が跋扈する恐怖の世界となりつつあった。人間が魔物に怯える世界の中で、6人の聖剣士を集め、その先頭に立って魔獣を掃討したのがフェリアスであった。
倒された魔物も多いが、強力な魔獣は封印されたと伝えられている。その魔物が復活した可能性がある。聖剣士は魔物を滅すか封印する務めがある。それは百余年前に定められた掟であった。
「こっちのケリを早くつけなきゃならんな」
言ってアーティスは夜空を仰いだ。この地へ来たのはもちろん必要があってのことなので、それをあきらめるわけにはいかなかった。封鎖されているのであれば、直ちに駆けつけることはないかもしれない。世間に知られている聖剣士は3名しかなった。アーティスはその中に入っていない。
「それと、皇帝から『どんな状況か』とお尋ねがありました」
カッシュはやや言いづらそうに告げた。皇帝に使える身としては、皇帝の言葉を伝えないわけにはいかない。それに対して回答できないことも分かってはいるのだが。
「そうか・・・」
アーティスとしてはため息をつくしかなかった。彼にとっては最優先事項であり、そのためにこの地に来てはいるのだが、状況は今のところ進展はない。
「進展はありそうだとはお伝えしましたが・・・。済みません」
カッシュが頭を下げると、アーティスは右の手のひらをひらひらと振った。
「お前が謝る必要はないよ。ご心配されているのは分かっている」
「それと、シャフル様からご伝言を」
カッシュがアーティスの弟の名前を告げると、アーティスの顔にやや陰りが差した。それから、右手を額に当てる。
「・・・帰って来いっていうんだろ」
カッシュは苦笑を隠さず、短く「はい」と答えた。
「ご心配されておりました」
カッシュがそう言うとアーティスは首を横に振った。
「まあ、苦労は掛けていると思うが、な」
と言った後で、何かに気付いたようにアーティスはカッシュの顔を見直した。
「シャフルは皇都にいたのか」
「はい、皇帝様をお見舞いにいらしたようです」
それを聞いて、アーティスは複雑な顔になった。現皇帝ガレリオン2世は昨年から病に臥せっていると聞いていた。公表はされておらず、一部の人間にのみ知らされている。
「皇帝はお悪いのか?」
「いえ、それほどとは。ただ、公務の時間は制限されておられます」
右手を口に当てて、小さく「う~ん」と唸った。悩んでも仕方のないことだが、考えると気が重くなる。
「皇帝様はよろしく頼むとおっしゃっておいででした」
カッシュの気を使った返答に、アーティスは左の口端を上げて自嘲気味に笑う。
「・・・では、これで」
カッシュが頭を下げた。
「ありがとう。グラナダの方はもう少し調査を頼む」
「承りました・・・」
声が消えるととももカッシュの姿がアーティスの目の前から消えた。皇帝直属の密偵であるが、アーティスとは剣技の兄弟弟子でもある。信頼できる男だった。
アーティスはグラスのワインを飲み干すと、明るく輝く2つの月をちらと見て、部屋に戻った。