006:宿屋
アーティスがマコムの街についたのは、夕日が大地に触れる頃だった。マコムはこのマト国とその南にあるフライシャー国との国境近く、パーミ山脈の北側に存在する。峠を降りた街道沿いにあり、少ないとは言え旅人や商隊も寄ることがある宿場街であった。山を越えればフライシャーに出る。マコムを含むトムロー郡はその国境線を守る位置にあった。
街の入り口に立つと、右の山の手に城が見える。郡令官の居城マコム城の白い尖塔であった。その城に一瞥をくれてから馬首を巡らしアーティスは街の門をくぐった。
国境線に近い街のためか、町の周囲を石垣が囲んでいる。人の肩辺りまでの高さで、様々な大きさの石を漆喰で固めてあった。そのため出入り口には門がしつらえられており、その門も東西と南の3箇所にしかない。
その南門をくぐると、石造りの街並みが広がっていた。暗くなる時間帯で、行き交う人は家路を急ぐように石畳をやや速足で歩いていく。旅人は珍しくないのか、アーティスとすれ違っても、チラと見るだけで傍を通り抜けていく。皮の上着を着た男が街燈に火を入れていくと、街が明るさを取り戻した。
アーティスはゆっくりと馬を進め、街の端にある宿屋の看板の前で止まった。2階建てで、1階が酒場になっている普通の宿だ。可もなく不可もなくといった風情で、ありふれた店構えだった。とりあえず食事と寝台があればいいので、高級な宿屋である必要もない。アーティスは、宿の裏へ回って、厩にいた下男に馬を預けた。そのまま厩から出入りできるようになっている店への入り口を開ける。
店の中はテーブルが数個並び、入ったすぐにカウンターがあった。幾つかのテーブルには客が2-3人づつ座って、食事や飲酒をしていた。アーティスは客が一人もいないカウンターの端に座った。背中の剣もマントも外さずにそのまま腰を下ろす。
カウンターの中にいた男が、愛想笑いを浮かべながら近づいてきた。頭の毛は薄く、その分が下ったように顔の下半分が茶色の髭に埋もれている。髭の真ん中が割れて、白い歯が見える。白い洗いざらしのシャツがその下の肉の厚みにはち切れそうになっていた。
「ワインと何か食えるものを」
カウンター越しにアーティスは言って、懐から袋を取り出し、さらにその中から10キックス銀貨を取り出してカウンターの上に置いた。
「・・・それと、部屋を借りたい。2-3日滞在する」
髭の男はカウンターの上の銀貨をとり、顔の前で裏表を何度も見ながら吟味した。一人で2日は泊まれる金額だ。前金にしては気前がいい。旅人を泊めることは何度もあるが、その男からはほかの旅行者と違う何か異様な雰囲気を感じ取っていた。着ている服の色が青いというのは別にして、それ以外に見かけも話し方もおかしいところはない。だが、こういう宿屋の主人として様々な人を見てきた経験から、警戒心が呼び起こされる。悪意は感じないが、面倒なことが発生するような気がした。
髭面の男は銀貨がどうやら偽物でない分かると、大事そうに上着のポケットに収めた。不安と利得の天秤は利得の方へ傾いたらしい。アーティスの方を見て、ニヤッと愛想笑いを送った。最初の笑いから打算が2-3割増えていた。
「ちょいと、お待ちを」
言って、髭男は酒やグラスが並ぶ棚の端から奥の部屋に入っていった。すぐに戻ってきて、アーティスの前に紐の輪がついた鍵を置いた。
「部屋は、2階の奥から2番目の部屋をお使いください」
言って、髭男は店の奥にある階段を指差した。2階へ上がる階段はそれだけらしい。他には階段らしきものがない。
髭男は棚の方へ振り返り、ワインの瓶とグラスを取り出した。グラスをアーティスの目の前に置き、ワインを注いでいく。アーティスの顔色を伺いながら、グラスに3分の2ほど入れたところで手を止め、栓を戻した。
「じゃ、料理の方を用意しますんで」
言いながらワインの瓶を棚に戻すと、髭男は奥の厨房に向かった。と、一瞬足を止め、アーティスの方へ振り返った。
「お肉のお好みは? 鳥か豚か・・・」
「どちらでもいい。うまい方を頼む」
アーティスが面倒くさそうに答えると、男は心得たというように立てた親指をアーティスの方に向け、ニヤリと歯を見せて笑うと厨房へ消えた。
熱過ぎるスープとやや焼け過ぎの豚肉で夕食を済ませると、アーティスは寝る前に飲むために追加注文したワインを一本受け取ると、あてがわれた2階の部屋に向かった。階段を上がると、細い廊下に扉が5つあり、その奥から2番目の扉の前に止まった。鍵を鍵穴に差し込むと、くるりと回す。カチャンと鍵が外れる音がした。鍵は壊れていないようだ。
扉の取っ手をつかみ扉を開くと、ギギギと錆びたような軋み音がした。部屋の中は思ったより広かった。扉の向かいに窓があり、2つの月の光が差し込んでいて部屋の中は明るかった。右手に寝台があり、左側に机と椅子が置いてある。机の横には扉のないクローゼットが備えられていた。値段の割にいい部屋だ。
持ってきたワインとグラスを机の上に置き、アーティスはマントを脱いだ。腰と肩にかけた革袋も外し、一緒にクローゼットにかける、背中の剣は身体に結わえてある紐をほどいて、寝台の傍に立てかける。寝台は木造りで特別な装飾がない、簡素な作りだった。ただ、布団は柔らかそうに膨らんでおり、暖かそうだった。
机から椅子を引き出し、窓の方へ向けて置きなおして座る。懐から短いナイフを取り出し、ワイン瓶の栓に突き立てると器用に動かして栓を抜いた。栓を机に置くと、グラスに赤い液体を注ぐ。階下の話し声が時々聞こえてくるが、何を言っているのかは分からないぐらいの雑音だ。この作りの建物ならいい方だろう。
ワインを一口飲むと、何かを感じたように窓の方を見やり、立ち上がった。グラスを左手に持ったまま、窓のカギを開く。窓は掃き出し窓になっており、外へ窓を開くと、1リルク(≒85cm)程度のベランダになっていた。ベランダは腰の辺りまでの枠があり、隣室とはそれぞれ独立して付いてあった。秋の夜風はやや冷たく、長居すると寒さを感じそうだ。今は2つの月が低く出ており、明るい夜だった。他のベランダには人の姿はない。
アーティスがベランダの枠に背を持たせかける。
その時、黒い影がアーティスの前に舞い降りた。