019:魔城
紅の雪狼が城攻めの準備を始める少し前。
クリーガ城の主塔は3階建てになっており、最上階は当然のようにシャリオ・フェードソンの執務室と私室が占めていた。円筒の外壁に沿うように作られた石の階段を上がると、執務室兼応接室になっている少し広い部屋に着く。
部屋に入ると、ビラトリスは巨躯を小さく屈めて、無言でシャリオの前に膝まづいた。シャリオは郡令官という立場にしては質素な机の下で足を組んだ。もともと主城ではないため、調度品はそれほど高価なものはなかった。シャリオにしてもここを主城にするつもりがあるわけではなく、必要最小限のものがあればよかったのだ。もっとも寝台が固いのは気に入らず、寝台だけは入れ替えた。
「よくやった、と言いたいところだが、そうもいかんようだな」
ビラトリスの巨漢が小さくなっていたが、さらに小さくなって見えた。
「まぁ、相手が悪かったようだな。聞けば聖剣士だとか」
ギリッとビラトリスの歯が鳴った。
「今、逃げたやつらを探させている。今度は仕損じるなよ」
「もとより、次は必ず」
ビラトリスは頭を下げたまま答えた。その様子を見て、シャリオは鼻の下の髭を撫でる。この無敵と思われた巨漢が負けてしまうとは想像できなかった。実のところ、シャリオは聖剣士に少々怯えていた。魔獣を倒すことができるのは聖剣士のみ。それが現れたことで計画が狂った。ここまで準備してきたことが無駄になっても困る。
「せっかく魔血を与えたのに、頑張ってもらわないとねぇ」
突然、部屋の端から女の声が聞こえた。ビラトリスは顔を上げて、声の方を見た。飾りのない灰色の壁に、女が立っていた。紫色のドレスで、胸の谷間が強調されているようなデザインだった。長いスカート部分にもスリットが入っており、白磁の脚がチラリと見える。扇情的な唇を赤い舌がぺろりとなめた。
声が聞こえるまで全く気配がしなかった。出で立ちを見れば部屋に入ったときに気が付くべきだが、視界には入らなかった。以前より感覚が鋭くなっているビラトリスだが、それでも気配を感じさせないのは脅威を越えて恐怖でもあった。だが、魔血を飲んで魔の気を得たビラトリスには分かっている。この女は人間ではない。
そもそも、ビラトリスが魔血を飲まされたのは、この女のせいだった。
・・・「もっと強くなりたい?」
シャリオに敵がいないと話していた時だった。その女は突然現れて、ビラトリスにそう問いかけた。シャリオに仕えて2年、その巨躯を活かした戦鎚での戦いでは、負けたことはなかった。彼の前に立つものはすべてその鎚で排除してきた。だが、強ければ強くなるほど、さらに強さを求めるようになる。その心の隙間に女の声が注ぎ込まれた。
「びっくりするわよ。普通ではたどり着けない高みに行けるかもよ」
女はカラカラと笑って、ビラトリスのごつい顎を白い手で撫でた。それまで女には興味がなかったビラトリスもこの時は背筋に稲妻が走ったように思えた。体の芯が熱くなり、その熱で頭が浮かれたような感覚になった。思考が麻痺し、騙されているという感覚はなかった。
女は右手を握り、左手のグラスをその下に当てた。女がぐっと右手に力をこめると、その拳の中から赤い血が流れ出て、グラスに注がれていく。小さい一口飲み程度のグラス一杯に血は注がれ、女はそのグラスをビラトリスの目の前に差し出した。
「飲みなさい」
ビラトリスは言われるままにグラスを手に取り、一気に飲み干した。躊躇はなかった。というより、飲まなければならないという感覚が脳を支配していたように思う。
飲み終えたビラトリスの手からグラスが滑り落ち、石の床に落ちて砕け散った。
「うがっ!」
次の瞬間、ビラトリスはうめき声をあげて、床に倒れた、喉から胃の腑が焼けるように熱い。やがてその熱さが全身に届き、ビラトリスは床の上でのたうち回った。死を予感したとき、急に脱力し、熱さが引いていった。
そのあと、全身の力がみなぎるのを覚えた。力が奔流となって体中を駆け巡る。
「成功ね」
立ち上がったビラトリスを見て、その女は笑った・・・。
「でも、聖剣っていうのはやっかいだわね」
女は他人事のように言う。
「想定の内だがな」
違う声が女の横から聞こえた。黒いローブを着た男だ。この男も気配を感じさせない影のようだった。一か月前にこの二人が現れてからシャリオもビラトリスも変わってしまった。そして、いまだにこの二人は得体が知れない。
「実際のところ、聖剣士はまずいだろう」
シャリオが二人の話に入ってくる。
「なんとかならんのか、キュリアン殿」
「聖剣士と言っても一人だから、どうにかなるだろう」
キュリアンと呼ばれたローブの男は、適当としか思えない台詞を吐いた。
アーティスがいずれ来るであろうことは予想の範囲だった。だが、まさか聖剣士となって現れるとは。確かにアーティスの気は聖だった。アーティスは剣技や体術もさることながら、その精神において聖の気に近い。だからといって、持ち主のない聖剣を手に入れられるとは考えられなかった。しかも皇剣ラング=リスベックに次いで強力をうたわれる青の剣とは。邪魔はされたくないが、聖剣士を止められるものは聖剣士しかいないだろう。
「ムーマ、足止めぐらいはできるだろう」
キュリアンは女の方へ顔を向けた。
「聖剣士を? 命がけね」
ムーマと呼ばれた女は、カカッと軽快に笑う。内容の重みをまるで感じていない表情だった。
「ま、その時が来たら、考えましょ」
「あ、そうそう」
ムーマは突然胸の前で両手を合わせて、ビラトリスに視線を降ろした。それまで、無視された状態で話は続いていたが、ビラトリスは膝をついたままの姿勢を保っていた。
「鉄槌がやられちゃったからね。キュリアンが新しい武器を用意したやれっていうから」
ムーマはいつの間にか背中に回した右手を前へ突き出した。握っていたのは巨大な戦斧であった。刃渡りは半リルク(注:約40センチメートル)ほどあり、斧部分だけでも、人の頭よりも大きい。柄の長さも2.5リルク(注:約2メートル)もある大きなものだった。色は刃先から柄まで真っ黒。それをどこに隠していたのか。しかも普通の男性でも重く感じる戦斧をムーマは手軽そうに片手で持っている。黒い戦斧と紫のドレスというまったくそぐわない組み合わせだった。
「はい、贈り物」
ムーマは言うなり、ビラトリスに向かってポイっと戦斧を放り投げた。ビラトリスは慌てて立ち上がり、両手でその柄を受け取った。掴んだ拍子に腕がガクッと下がる。床に落とすことは免れたが、相当重い戦斧だった。それを軽々と投げたムーマの膂力はいかほどのものか。もちろんムーマの見た目は細めの女性であって、こんな重いものを持てたこと自体が異常な光景であった。
握った柄から何かが腕に伝わってくるのを感じた。何か黒くぞわぞわしたものが這い上がってくる感じ。だが、嫌な感じではない。むしろ血流に力が宿って、筋肉が強大になっていく感じがする。
「いいでしょ。貴方向きに仕上げてあるのよ」
ムーマは口端を上げてにこりと笑ったが、目の光は檻の中の動物を見るように蔑む色が灯っていた。
「ううっ」
ビラトリスは、体中を駆け巡る黒く重い気流に歓喜を感じていた。その眼は戦い求める野獣のように血走っていた。
「もういいぞ、ビラトリス。その力で聖剣士を倒せ」
シャリオが言うと、ビラトリスは無言で踵を返し、ゆっくりとした足取りで部屋を出ていった。吐く息が瘴気を含んだように黒く見えた。
「頑張ってくれそうね」
ムーマはフフッと笑って、赤い舌をチロッと出した。




