始まりの場所の最後の物語
誰もいない道をただただ走った。
走って、走って、走り続けた。休むこと無く、走り続けた。
次第に呼吸の間隔が短くなっていく。肺に送られていく酸素が徐々に減っていく。
胸が痛い………苦しい…………それでも、ボクはまだ止まれない。理由なんて、とうの昔に忘れた。
これがボクの───
始まりであり、終わりであった───
・・・
いつも、屋上で太陽を眺めていた。お昼を食べるのも屋上だったし、放課後になって屋上から野球部の活動風景を見ながら、太陽を浴びるのが好きだった。
流石に雨の日は屋上に行けないので、教室の窓からじっと外を眺めていた。
体が少しずつ小さくなっていくのを実感しながら………
部活は、中学の最初の頃は入っていたけど、怪我の心配がどうしても拭えないからと、医者に言われて辞めた。
ボクは産まれた時から骨が周りよりもろかったらしく、5歳の時に正式な病名を知らされた。その時はひどく荒れてしまったけど、もう心の整理は出来ているつもり。
それでも、やっぱり身体のどこかに潜んでいる何かを感じていた。それが何かはわからない。少なくとも、ろくでもないものだってこと以外。
ある日、ボクはいつものように屋上から沈み行く太陽を眺めていた。雲がほとんどなく、茜色の夕日は全てを吸い込んでいるかのような───
いや、その時は本当に吸い込まれていくかのように自分の意思とは関係なく足が前に進んでいた。どうにかして止めようにも、止められなかった。あと数歩で落ちるところまで来た時、ふと下を2人の人間が通っていくのが見えた。
すると、足から全ての力が抜けてその場に座り込んで立てなくなってしまった。いや、無意識の内に自殺しようとした自分への恐怖で腰が抜けてしまったのかもしれない。いずれにせよ、生きていた。
こういう時は、動かない体とは対極的に頭は回るものだ。その時ボクは、ある意味命の恩人になった2人を冷静に分析し始めていた。
1人はボクのクラス担任だったが、もう1人は見たことがなかった。見た感じ小学生ぐらいだったから、きっと先生の子供だろう。
そんなふうに無理やり結論付けて、さっきとは逆の方向に足を進めた。何故かわからないけど、自分の足とは思えないほど重い足だったことを今でも覚えてる。
・・・
「湊〜!遅刻するわよ〜」
朝から母の声が家中に響き渡る。いつもの日常、いつもの光景、いつもの憂鬱。そんなくだらないものだと思っていた。
「今、行く」
素っ気なく答え、なり続けているアラームを止めた。時刻は朝の7時。何の変哲もない、学生的な始まり。まぁ、学生だから当たり前か。
前日に用意しておいた物を持って部屋を出る。ボクの部屋は2階にあって、両親の部屋は1階にある。
どこからどう見ても子供用のパジャマのまま、寝ぼけまなこで朝食の並んだ食卓に座っている家族と挨拶を交わす。
「よし、みんな揃ったな。今日も元気にいただきます!」
父がそう言うと、母もボクもそれに続くようにいただきますと言う。これは毎朝の恒例行事で、ボクが幼稚園児の時から始まった。最初の頃は違和感しかなかったけど、今はそれなりに慣れてきた。
なんでこんなことを始めたのかは、ボクの病気に関係している………らしい。それに、いつからだっけ。こんなに食卓が広いと感じるようになったのは…前、もう1人居たような…………
「そういえば湊、学校はどうだ?楽しいか?」
いつも通り、
僕の思考は父の声によって遮られる。笑いながら話しかけてくれる父は、ボクの大きな心の支えとなっていることに間違いはない。とっても優しい父だと、心の底から感じてる。まあ、仮に心があれば、だけど。
「うん。それなりに」
「そうかそうか!無理はしなくていいから、自分のペースで楽しんでいけよ。青春は戻らんからな!ガッハッハッ」
「それは杞憂」
いつも通りの会話が交わされる中、ボクの「嘘」にまみれた偽りの日常の始まるのだった───
・・・
これは、母から聞いた話。
ボクがまだ5歳にも満たなかった頃、ある病気が問題視されていた。
その名は、後天性縮身型腐骨症────通称ABL。10数年経った今でも、未だ治療法の無い不治の病だ。
この病気は、その名の通り体が小さくなるにつれ、骨が腐っていくというものだ。初期発見ならば、まだ抗がん剤とX線治療で進行を食い止めておくことは可能であるが、ボク──凪瑳 湊はもう既に末期であったという。
医者から宣告された余命は、20歳まで。その頃には、骨は完全に腐り果ててしまうらしい。
その話を母から聞いた時、どうしようもない怒りと悔しさ、悲しさと哀しさが胸を張り裂かんばかりに膨れ上がった。ボクは、その感情に任せるがままに泣いた。叫んだ。母に八つ当たりした。それを母は、何も咎めずに優しい眼でボクを見ていたらしい。
これは、誰にも言ってない話。どこにでもいる高校生の、未来を奪われた気持ちを、負の感情に侵されたこの気持ちをぶつけるためだけに考えていたこと。
この気持ちは、誰にもわからない。わかるはずがない。自分に嘘をつき続ける苦しさが。哀しさが。情けなさが………
そんなことを、少しずつ大きくなっていく家の中で、少しずつダボダボになっていく制服を着ながら、いつも考えている。時間というのは早いもので、まだ10年以上あると前向きに考えていたころがまだ手の届く場所にあるとさえ感じる。
「いってきます」
ボクは、今日も今日とて変わらぬ「絶望」の中で過ごしに行くことにしたのだった。
学校に通う道。いつもと同じ、何の変哲もない道。ボクが通っている学校は、家から徒歩20分程度の場所にある。学校に近づくにつれ、人が増えてくる。
そして、少しずつ周りの喧噪が大きくなっていく。本当に、他人事のような喧噪が───
「ねぇ、君」
昨日のテレビの話、授業の話、好きな物の話等々……仲のいい数人のグループになって話している姿を見ると、青春してるんだな。と羨ましく思えて仕方がなくなってくる。
「ねぇってば〜」
なんだろう、さっきからすぐ後ろで誰かを読んでいる声がする。呼ばれてるのは誰だろう。少なくともボクではないはずだ。
「そこの背の低い君〜!ねぇってば〜!」
「え?ボク?」
ボクは、立ち止まって振り返った。この場でボク以外の人で背の低い人はいない。少なくとも……
「うん。やっとこっちを向いてくれた〜」
そこにいた男子の制服を身にまとった1人の小さな女の子は、少し走ったのか、息を軽く整えてから笑顔でこちらに左手を伸ばした。
「僕は漣波 和咲。今日転校してきたんだ。君の名前は?」
そして、ボクはその手を取って名乗った。そして、ボクの人生の色は変わった。黒から───
淡いピンク色に───
・・・
人生の転機は、意外とあっさり来るものだと感じながら、朝のSHRが始まるのを一人静かに待っていた。
「お前ら〜、席につけ」
担任の先生が、いつものように無気力な言葉を言いながら教壇に立った。
すると、水を打ったように静かになり、教室の隅っこで固まって話していた女子達も、ワーワーギャーギャー騒ぎ散らしていた男子達も各々の席についた。
「え〜、今日は特に連絡は…………あ、転校生が一人いるぞ」
先生がそう言うと、その言葉を待っていたかのように扉が開き、1人の小さな男の子が入ってきた。
「どうも初めまして。漣波 和咲、こう見えて男です。これからこのクラスでお世話になります。よろしくお願いします」
そう言って、頭を下げる転校生。そう、彼女───彼こそが、ボクの人生を変えたきっかけとなった人である。
拝啓
もう会えない愛おしい人。あなたは今、幸せですか?
・・・
その男の子、もとい男の娘は瞬く間にクラスの話題をかっさらった。その理由は大きくわけて2つ。
まず第1の理由に外見。髪を伸ばし、ポニーテールのようにしていて、顔立ちも中性的というか、どちらかと言うと女子に近い。声も少し高めだったのも相まって、女子だと思ってしまう。というか、現に思ってしまった。
そして第2の理由。正直、これに関しては謎が多い。
それは、ボクに何故かやたらと懐いていること。朝のSHRが終わると、すぐさまボクの机のところに来る。傍から見たら恋愛している2人、または昔から仲のいい友人。まぁ、どちらにしせよ見当違いも甚だしいものだが……
「それでね!あそこにいることりの鳴き声がね!とっても可愛いんだ〜。今度一緒に行こうよ!ね!」
いつもは1人の屋上の時間、今日はいつもとは違い2人の屋上の時間。
いつもは空いていた場所にぴたりとハマったようにいる漣波さんは、ずっとこんな感じではしゃぎっぱなし。正直、鬱陶しさもある。
それでも、こんな日常も悪くないと思えるのだから不思議だ。いや、違うかな。本来は───
ズキッ
「うっ……………」
「どうしたの?湊ちゃん。どこか具合が悪いの?」
「ぅうん…………だ、だい…じょうぶ………です……」
突然来た耐え難い何かのせいで胸の真ん中、正確には心臓のある位置を抑えながら、しゃがみこんでしまった。痛い、苦しい、怖い、怖い、怖い怖い怖い怖いこ───
「絶対大丈夫じゃない!大丈夫な人間は涙を苦しそうに流さない!」
さっきまでとは違い、とても真剣な目をしていた。そしてその時初めて、ボクが涙を流していたことに気づいた。かれこれいつぶりだろう?どちらにせよ、涙というのは心を締め付けられる。
「僕はいつでも隣にいてあげるから。だから、無理しないで」
いつもは聞くことが出来ないような穏やかな声。それはボクを優しく包み込んでいく。そして温めていく。これまで凍てついて、絶対に溶かされることの無いと思っていた心が、再び動き始めようとしていく。
そうか、これが涙なんだ───
そうか、これが───
「私が、忘れてたもの…………」
「え?」
もしかしたら、声に出てしまっていたかもしれない。でも、それならそれでいい。
近くで素っ頓狂な声を出して呆気に取られてる漣波さんに振り返り、今この世界で私だけが知っていることを話すことにした。
「ねぇ、私の病気について、何か知ってる?」
その声は、自分でも驚くほど穏やかで、落ち着いた声で、そして何より、本当の自分の声だった。
数分の沈黙。そして、とても気まずそうに口を開いた。
「一応、聞いた。ABLって………」
「そう。ちょっと本題とは違うけど、1つ聞いていい?」
「………うん」
もう、後悔はしない。覚悟もできた。そして、もう………………後戻りはしない。
「ひどいこと聞くようだけど、和咲くんが私に話しかけた理由って、やっぱりそこと関係してるのかな?」
さっきよりは短い沈黙。でも、さっきよりも激しい葛藤。それを経て、覚悟を決めた面持ちで答える。
「そうだよ。だから、親近感を抱いて話しかけようと思った」
「そっか。ありがとう。話しかけてくれて」
まずはお礼を言わなくてはならない。理由はもう分かりきってる。
「それでね、これは私以外誰も知らない話。私の本当の病気は、違うんだ」
止まれないとわかっていても、怖い。今にも腰を抜かして座り込んじゃいそう。
「私、あと半年しかもたない」
自分でも疑った。でも、そういう運命なんだと、避けられないものなんだと悟った。心が張り裂けそうなくらい悔しかった。でも、今はそんな感情は関係ない。
「え?」
ヒュン、と風が通った。その風が私の髪をなびかせる。その風が私に問いかける。これで本当によかったのか?と。その風が私を攻撃する。お前なんて今すぐに消えろと。その風が私に勇気をくれる。よく頑張ったねと───
・・・
沈黙は長かった。そりゃそうだ。いきなり余命を告げられたんだ。困惑しないわけが無い。
「そっか……」
答えは短かった。何をどう答えていいかわからず、様々な感情がごちゃ混ぜになったような表情で私を見ている漣波さんは、今にも泣き出しそうな目をしていた。
「そんなに重く考えなくてもいいよ。私自身そんな感じだし」
私は、彼に笑いかける。そして、もう一度本心を伝える。
「だからどうか、私のことを忘れてください」
いずれ消える運命なのだとしたら、これ以上仲良くなるのは悲しみを深くするだけ。なら、もう関わらないでほしい。誰より、そして何より、漣波さん自身のために。
会った初日にこんなこと言われて、さらに誰も知らない秘密を知ってしまったのなら、気まずくなって離れていく。そう。その時の愚かなボクは、そう思っていたんだ。
「そんなこと……できないよ…」
「え?」
そして、覆される。あっさりと。ボクが考えていること全てを。
そして、変えられる。あっさりと。ボクから私に。
そして、晴れていく。あっさりと。心を覆い続けた闇が。
そして、校庭の桜が、激しい音を立てて吹雪となる。
「僕には、全てを自分で背負い込んで、自分だけが傷を負おうとしているようにしか見えないよ!そんなの、自己犠牲じゃない!ただの自──」
「自己満足なんかじゃない!」
久しぶりだった。ここまで声を荒らげてしまうのは。また、2人のあいだを重い沈黙が支配する。
気付かぬ間に再び流れ始めていた涙は、いつも以上に冷たかった。
ふと、漣波さんと目が合う。その顔には、驚愕と恐怖、そして激しい後悔が浮かんでいた。
私は、そんな漣波さんを見ていると、だんだん心が締め付けられて、息ができなくなるほどに苦しくなっていった。
「……っ」
「あ、待っ───」
私は、彼から目を背けると一目散に走り出した。涙を拭うのも、耐えようとするのも忘れて。階段を駆け下り、下駄箱で靴を履き替えることも忘れ、走り続けた。
まるで、彼から逃げるように。
とても懐かしい記憶に駆られながら。
・・・
誰もいない道をただただ走った。
走って、走って、走り続けた。休むこと無く、走り続けた。
次第に呼吸の間隔が短くなっていく。肺に送られていく酸素が徐々に減っていく。
胸が痛い………苦しい…………それでも、私はまだ止まれない。
家に帰るとか、そんなことは頭の中からすっかり消え去っていた。
どれくらい走ったか分からない。ましてやどこにいるかなんて。そして、力尽きた。立ち上がることすらできなくて、うつ伏せに倒れ込んだ状態で。
こういう時に限って無駄に冷静な頭は、酸素をより多く取り込もうとうつ伏せの状態から仰向けになろうとする。でも、体は完全に限界を超えており、少しでも動こうとするだけで全身が軋む。
「ァァ…………………………ァ……」
あまりの痛さに声が出かけても、それはちゃんとした音にならず、ただのかすかな空気だった。
痛みに耐えてやっとの思いで仰向けになった。黒く、暗い闇が空を覆っている。まるで私の心のように。
そんな思考に耽っている時も、体は酸素を求める。大きく息を吸い、小さく吐き出す。この動きを繰り返す。
しばらくすると、その動きも落ち着きを取り戻し始め、声が出せるくらいのものになった。
「ハァ…………………ハァ……………」
呼吸が一通り落ち着くと、一瞬、全身を激しく鈍い痛みが走った。
「うぁぁぁあぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
絶叫が夜空に木霊する。痛みからなのか、それともずっと流れていたのか分からない涙に気づいたのは、随分あとのこと。私の意識は、夜よりも深い闇に吸い込まれるように堕ちていった。
堕ちゆく意識の中で、懐かしい声を聞いた。それは、悪魔の声。私にボクという仮面を付けさせた、悪魔の声。
そして、もうひとつ、記憶に新しい声を聞いた。それは、友の声。今日出会った、似ている病気を患った人の声。
全く同じ声を。
・・・
目が覚めたら、知らない場所にいた。自分が今どういう体勢でいるのかは全くわからない。ただ、仰向けなのは分かる。真っ白な天井が見えているから。
「こ…こは………?」
自分以外誰もいない真っ白な部屋。窓から入り込む朧気な月光は、自分がどれだけ長い間眠っていたのかを優しく告げていた。
「ボク、そっか………あのままずっと眠ってたのか………」
我ながら馬鹿らしい。あれだけ辛い思いをして、結局時間を失っただけ。もうあと、何ヶ月なんだろうか。
「そうだね。そういうことなんだね」
少しずつ戻ってきた感覚を頼りに、上半身だけ起き上がらせた。逃れることの出来ない未来を悟った時、人間は何故か焦らないんだね。
そんなくだらないことを考えながら、窓の外に思いを馳せた。
「ありがとう。もう大丈夫だから」
人生のタイムリミットが迫ってくる。前はまだ遥か遠くにあったのに、今ではもう手の届く場所にある。
残された時間は長く見積っても、
あと5日───
「お、やっとお目覚めか」
背後から声がした。記憶的には昨日聞いたばかりのはずなのに、耳の振動は心地いい程に懐かしい。
「あ、先生」
「よっ」
いつの間にかベッドの近くの椅子に腰掛けていた先生が、右手を軽くあげながら笑いかけてくれた。
「ごめんなさい………私…」
「いや、なんで謝ってんのさ」
「だって、長い間ずっと学校休んじゃって………それに、和咲くんにも酷いことしてしまって…」
「う〜ん……ひとまずちょっと」
先生が手でおいでおいでと合図していたので、少し先生の方に顔を近づけた。その瞬間、私の顔はとても優しく、そして暖かく包み込まれた。
「え………?せ、先生…どうしたんです……か?」
応答は無かった。それどころか、私の頭の方に回された腕にだんだん力がこもってきていた。
そして、私の頭の上に、暖かい雫が当たった。
どうして、泣いているのだろう。
どうして、こんな私を抱きしめていてくれるのだろう。
どうして、私まで涙を流しているのだろう───
微かな月光がさす病室。ずっと静寂が支配していたその空間に、今嗚咽という鼓動が生まれている。そこには、1人の女性の後悔と、1人の死にゆく少女の未練が、言葉を交わすことなく交錯していた。
どれくらいの時間そうしていただろうか。何十分だったかもしれないし、わずか数分だったかもしれない。
窓から見える空の星が光を失い始めた頃、私と先生はようやく離れた。2人の目には、依然として流れるものがあった。
「湊さんには、謝らなくちゃいけないことがあるの」
少しずつ落ち着きを取り戻し始めると、先生がそう切り出した。
それにしても不思議な感覚だ。本来謝るべきは私のはずなのに、どうして先生が謝らなくちゃならないんだろう。
前よりもかなり視線が低くなっていることを痛感しながら、小首をかしげた。
「私は、漣波 和咲が湊さんに目を付けていることを知っていたの。そして、何をしようとしていたのかも」
とても申し訳なさそうにポツリ、ポツリと言葉を紡いでいた。それは高校に転校してからなのか、それとももっと前なのか。それは定かではない。
「8年前だった。漣波 和咲という名前を耳にしたのは。初めはあまり酷くないんだろうと、勝手に思っていた。でも、実際目にした光景は、違った。1人の女子に対して、いじめにしては度が過ぎるようなことを───」
「もう、大丈夫です。先生………いえ」
私は、ずっと、ずっと言いたかったことを口にした。今じゃないと、ダメな気がした。私にとっても。あなたにとっても。
「舞雪おねぇちゃん」
淡い陽光が私たちを照らす。夜明けも間近にせまっていた。私に残された時間はあまりにも短くて、あまりにも意地悪だった。
「もう、大丈夫だよ。おねぇちゃん」
目を大きく見開いて口をぱくぱくさせているおねぇちゃんに、もう一度同じ言葉をかけた。今度は、さっきと違って優しく微笑みかけながら。
背中が少しずつ温められていくのがわかった。その温度は、同時に心にまとわりついてきたものすら溶かしていった。
今日、私は生まれて初めて、心から暖かい気持ちになった。
ずっと心を蝕み続けた思い出という名の氷は、全て優しい光となってあるべき場所に還った。それと同時に、忘れていた記憶が蘇り始めた。楽しかった記憶、嬉しかった記憶、何かを成し遂げた時の記憶、失敗した時の記憶、泣いた記憶、悲しんだ記憶、いじめられた記憶、孤独を突きつけられた時の記憶…………
そっか、そうだったんだ。
「この夜明けはきっと、もう二度と拝めないんだろうな……」
私は朝を迎えた空を見た。私の最後の朝。私にとって最後の一日の始まりだった。
・・・
「本当に行くのかい!?」
私をずっと見てくれていた病院の先生が、驚いた顔で私の方を見ている。
「行きます。もう、今日じゃなきゃダメなんです」
ぶかぶか過ぎて着ぐるみみたいな制服に着替えながら、意志を込めた目で先生を真っ直ぐ見た。何を言われても揺るがない。今日は文化祭があるらしい。眠っていたせいで何もわからないけど、「文化祭」というだけで充分だった。
「それでは、行ってきます。これまでお世話になりました」
病室を出る時に1度お辞儀した。学校まではおねぇちゃんが送っていってくれる。足取りは覚束無いけど、もうそんなこと気にしていられなかった。
さぁ、始めよう。
最期の物語を──
・・・
何も変わらない学校は、まだ朝の7時ということもあり、いつも以上に静かだった。私はおねぇちゃんに助けてもらいながら、教室に向かった。
時間が時間ということもあり、教室には誰もいなかった。でも、あと数分もすれば目的の人は来るらしい。
「あ…………」
そんなろくでもないこと考えてると、目的の人──漣波 和咲さんが来た。和咲さんは、私を見ると気まずそうに目を逸らした。そんな和咲さんに、私はなるべく優しい声にするようにしてたった一つ、人生最期の伝言をした。
「今日、お昼の11時50分丁度に屋上に来てください」
これで終わり。あとは、運命に任せるだけだ。
「…………わかった」
すれ違いざまにそう返答された。顔は見えなかったけど、きっと覚悟を決めた顔だろう。なら、良かった。
私は足早に向かった。始まりの場所へ。そしてこれから、終わりの場所となる場所へ───
11時50分
ガチャリと音を立てて屋上の扉が開けられる。今朝言った通りの時間に和咲さんが来てくれた。正直、待っている時に来ないんじゃないかって心配したけど、杞憂だったみたい。
「えっと……どうしたの?この時間にこの場所って」
「一つだけ、言ってない言葉があったの」
タイムリミットが迫ってきてるのがわかる。心臓の鼓動は不規則で、呼吸もさっき一回止まった。それでも私は、止まれない。最後の最期、ギリギリまで。
「ありがとう、私を助けてくれて」
和咲さんは、ポカーンとしていた。なんでだろう?私何も変な事言ってないよね?
数分間の沈黙の後、和咲さんは俯いてぽつぽつと言葉を紡いだ。
「僕は、君からその言葉を受けていい人間じゃない。君を殺したも同然の人間に、そんな言葉を受け取る権利は無い……」
和咲さんの頬を一筋の涙が伝っていく。周りの喧騒が、一気に静かになった。
時計を見ると、55分を指していた。
時間が、無い。
「ううん、和咲さんは、私を救ってくれた。他の誰でもない。私が言ってるんだから」
私は、俯いてる和咲さんの顔の下に入った。お互いの目が合った。止めどなく涙を流している目を見ると、和咲さんの後悔の深さが見えた。
「これまでありがとう。和咲さん。ちょっと、しゃがんでくれる?」
私がそう言うと、和咲さんは頷いてしゃがんでくれた。
「やっと、同じ高さで目を合わせられたね。最後にもう1つ、言ってもいい?」
もう残り時間は1分ぐらいしかない。でも、もう後悔はなかった。なぜだかわからないけど、不安はなかった。それはきっと、ここに居るから。
好きな人が、目の前にいるから。
「ずっと、好きでした」
そう言い、私は和咲さんと唇を重ねた。それと同時に私の体を光が包み込む。
お別れの時間だ。私は死んだら、光の粒子となって天に昇っていく。それが今、始まった。
「和咲さん、本当にありがとう」
最後の時間、一緒にいてくれて。「好き」という感情を教えてくれて。私を救ってくれて。
でも、そんな思い出も光となって消えてしまうのかな?でも、私は忘れないよ。君のことが好きだったこと。君という人間が私の大部分を占めていたこと。
だから私は言うよ。
さようなら