真昼の月と誘拐犯
真昼の月と誘拐犯
「君を誘拐してからもう随分経ったんだなぁ」
初めて会った時は確か去年の冬先だったっけかな。
今や一周近く周り君と初めての秋を過ごしていた。
時の流れは残酷だった。あんなに青々と茂っていた宿屋の裏山も赤に黄色に色を変え今では枯れ落ち始めている。夏の光を一心に受け、瞬いた海でさえも海猫が立ち去ってしまう程に枯れてしまった。かく言う僕の財布もそうだった。月日を経るごとに無駄に肥えた貯金も底を見せ始め、枯れ枯れとした残り数枚の枯れ葉でさえもじきに風に吹かれ落ちてしまうだろう。
しかし皮肉なことに彼女だけは移ろう季節から逆らうように少しずつふくよかになっていったのだった。
彼女はそんな僕の嫌味にも似た心の嘆きを感じ取ったのか、居心地が悪そうに緩やかな曲線を持つ身体をよじらせる。僕はそれをいじらしく感じ柔く身体を撫でて元の体勢へと戻そうとする。
僕は撫でるたびに、触れるたびに指先に伝わる温い体温を感じ、その度に何度も愛おしいと思った。つい口元が緩んでしまいそうになるのを片手で隠す。
最初こそは彼女もそんな僕の多少過剰な接触に嫌がる素振りを見せてはいたものの、今では大人しくなされるがままされるがままの心地で目を閉じるのだった。
きっとここでの生活にも慣れてきた証拠だろう。首元のほんの少しばかりきつそうな首輪でさえもなかなかに様になってきているような気さえする。
僕はそんなことを今日も日記に書こうと思った。あと何日、何枚、日記が書けるのだろうか。そう思うと不安の靄に心が奪われていった。いつかは必ず終わりがやって来る。君とも、こんな真昼の月を見上げる生活にもお別れをする日がやって来る。
僕はそんな感傷についに耐え切れなくなって仕方なしに筆を走らせた。すると安い万年筆が走るたびに君との記憶もしたり顔で頭の中を縦横無尽に駆け巡るのだった。
不釣り合いな革靴が目の前で動く。
もう何も頭では考えることが出来なかった。きっと考える臓器がイカれてしまったんだろう。疲労は限度を超え、傲慢にも形を変えて考える臓器としてじわりじわりと身体を冒している。何週間ぶりかの帰路は溜まった洗濯物や郵便物を思い起させて正直億劫に感じた。きっと辛いんだろうな。僕は。もはや他人事だった、別の世界の話のようで・・・
いや、もうきっと僕は数年前とは全く別の世界にいて、全く別の生物になっているのだろう。自由を謳歌して毎日を雑多に送り過ごした大学生までの自分と周りの同僚達に気を遣って、会社の圧力に押し潰されて残業、徹夜続きの自分は同じではあるものの一mたりとも同じではなかった。
死にたいとも思うが死ぬ気力さえない。
茫然にそんなことを考えながら歩いているとふと革靴を照らす灯りの色が変わっていたことに気が付いた。眩しすぎるLEDの白でも鬱陶しいテールライトの赤でもない。安っぽいネオンの薄緑。
顔を上げると繁華街、しかも外れの方のいわば俗に言う俗のラブホテル街。
「嘘だろぉ・・・」
完全に道を間違えた。足元を見ながら歩いていたから? それとも久々の帰宅だったから? もうどちらでもいい、兎角迷った。それこそが紛れもしない事実。
というか顔を上げる労力があるんなら首ぐらい吊れるだろうに、なんてしょうも無しに自分に小言を垂れた。しかしそんなこと言ったところで現状は一変たりとも変わるわけがない。もはやどうでもよくなって泥酔したふりでぐにゃりと軟体動物のように倒れこんでやろうかとも思ったが、風邪をひいてしまうだとか明日の出勤がどうとかといった無駄な自制心が嫌にも働いてしまった。
死ねよなんてよくこの口が言えたもんだ。
自分にまた飽き飽きとして家路に戻ろうと、もう一度顔を上げると
君がいた。
まばらに行き交う人々の中でひと際目を引いた、白。
いや、引かれた目は僕だけだったのかもしれない。汚物の城の群れにぽつりと浮いた、白。LEDなんかじゃ作れない、澄み切った白。それに僕は目も心も一瞬で惹かれてしまった。
「なんでこんなところに・・・」
そう呟く僕を幼くとも凛とした目でじっと見つめた。その背後で先程まで都会に薄まっていた月が黄金に満ちるのが見えた。ドラマチックにも感じる。もしかしたら君も運命ってやつを感じ取ったのかもしれない。いや、流石に思い込みが激しいか。
しかし本当にそうとでも言うかのように彼女は目を合わせ、ゆっくりと僕の方へと歩み寄った。そして僕に何かを話すのだった。
そこで僕の面倒な理性は突然切れ、落ちた。
そうしてあてのない逃避行は唐突に始まりを告げ、身勝手にも海の見えるこの街を終点としたのだった。
そんなところまで思い出して書き終わる。どんなことを書いたんだっけか。まあ、もうどうだっていいか。どうせ僕は終わるんだ。
でも、君は、君だけはどこかの誰かに保護されるんだよ。
そう言って、彼女にもう一度触れると起こしてしまったようでたるそうに瞼をぱちくりさせて何を言うでもなく先程書き上げた手紙を覗き込んだ。
「君には関係のないことだよ」
そう言って適当にあしらおうとするもなかなか紙から目を話してくれない。仕方ないのでどこかに隠そうと手を伸ばした、その時だった。
ビリビリビリッ!
「あぁ!!」
手紙は虚しくも君に真っ二つに破かれてしまった。
「嘘だろぉ・・・」
あぁ、もう、めんどくさい。なんでもう一度【遺書】なんてものを書かなきゃいけないんだぁ。
ショックでうな垂れるもそんな僕を尻目に、彼女は悪びれもせず手間取りながらも閉めてた窓を開け、笑った。
冬の気配が近づいた秋風は浴衣姿で侘しい僕の懐を二重の意味で寒くさせた。というかもはやこれ冬でしょ! 風邪ひいちゅうよ!
しかし彼女は寒さをもろともしない様子で僕に対してなくのだった。
『にゃあ〜』
「いや、あのねぇ・・・」
『にゃあー』
「・・・・そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」
『にゃあ』
彼女は得意げだ。
「いや、そんな素直に認められても・・・」
エーミールさんも言った甲斐が無くなるほどに呑気に彼女は欠伸を一つ鳴らす。しょうがないからって二つになったくしゃくしゃの遺書を拾い上げ、セロハンテープで適当に直すかなんて考えていると、
『ねぇ』
突然芯の通った大人びた女性の声が聞こえた。後ろを振り返るも当然誰もいない。女将さんだって七十過ぎの年寄りだし、いったい誰の・・・
もしやと思い君を見てみると、さっきよりも得意げな顔をしてこちらを見ていた。
いや、ないない。だってこの子は猫だぞ。猫が喋るわけ・・・
君を見てみると細長い黒目にぶつかった。そしてそのまま綺麗な目の奥へと吸い込まれていった。君の言葉が呼吸するように入ってくるのが分かる。
そうして彼女の目先が窓の先の空へと移ろうままに、僕の目も引力のように引かれ向かう。するとそこには雲が染み込んだ様な青白い秋空に小さく浮かんだ真昼の白月があった。月は出会った時とは真逆に今にも無くなってしまいそうなほどに欠けた三日月だった。
月・・・、満ちる、欠ける・・・・
なるほどそういう。
「いや、でもお前、人間と猫の世界は全然違うんだぞ。そんな簡単に」
『にゃあ』
うるさいとばかりに彼女はそう鳴き捨てて、窓から裏路地のほうへと逃げ込んでいった。
「あぁ、お前!」
というか喋れるんじゃなかったのかよ。
「ふふっ」
僕はまた座り直し、遺書を手に取る。
そして粉々になるまで両の手で千切りきってまき散らした。
切れ端は蝶の羽のように僕の前でひらひらと揺れ落ちていく。
そういうことだ。
月は欠けてもまた満ちる。
きっとこんなにも枯れ切ったこの命も、生活も、君とならまた満たせていける。きっとそうだと思った。というかそうだよな。
『にゃあ』
月に鳴く猫の声が窓の奥で聞こえた。