そんな世界は必要ない
オレは、あの「声」を思い出した。オレが、勝ちたがっているだって? そんな馬鹿なことはありえない。
オレは小さい頃からなんでも人並みで、ろくな勝ちも負けも知らない。通知表は三か四ばかりが並んでいたし、大学は第二志望のところに通っている。部活も一軍にはなれなかったが、練習試合に出たことぐらいはある。その程度なんだ。オレはその程度の人間なんだ。
趣味にしている絵や小説だって、たまに評価が飛んできて、それで終わりだ。それでいいんだ。
誰かに勝つことが、オレの人生にとってそんなに重要なわけがないんだ。そんなことはどうだっていいはずなんだ。
「そうか、そのせいなんだな」
「あの声」が、背後から聞こえてきた。オレは自分の脚を、腕を見る。今度は震えていなかった。
声はショーウインドーのあるビルと、その隣にあるビルの間から聞こえてきた。オレは足下をじっと見つめてから前を向いた。足は自然と路地裏へと向かっていた。
路地裏に入ると、「誰か」が居た。その誰かは、子供に見えた。小学生ぐらいの身長で、とても大人には見えない。
それなのに、声が低い。とても、声変わり前の子供とは思えない程低かった。というか、この声、よく考えたらどこかで聞いたことがある。どこだったっけ、そうだ。確かカラオケで聞いたことがある。いや、待てよ。どうしてそんなところで聞いた覚えがあるんだ?
その誰かと、オレの目が合った。路地裏の、街灯の明かりがわずかに入り込むだけの薄明かりの中でもはっきりと分かった。
そいつとオレの顔は、そっくり同じだった。
その顔を見て、オレは全てを思い出したんだ。
あいつは「オレ」だ。もう一人のオレだ。「オレ」は、オレの目を見て話し出した。
「オレは、生まれたときから欠けていた。人にはあるものがオレにはなかった。だから躍起になったんだ。足りないモノを埋めるためにあんなに頑張ったんだ。勉強も、芸術も、なにもかも努力した。足りなかったから、自分を限界まで追い込むことが出来たんだ。途中で諦めることすら出来なかった。名誉を手に入れることが出来なかったら、死ぬしかないと思ったんだ」
「オレ」の目は狂っていた。夜道の中で、はっきりわかるぐらいに光っていた。
「だから、オレは元に戻らなきゃいけない。夢を見るのはここまでにしよう」
「そんな、そんなわけがない!」
オレは叫んだ。オレは、まっすぐ「オレ」を指差した。
「そんな、体に! そんな体に、なりたくてなったわけじゃないんだ! お前の言っていることはおかしいよ、そんなことをオレが望むはずが無いんだ!」
オレはつかつかと歩き「オレ」に近づいて、その胸ぐらを掴んだ。そうしてから叫んだ。
「人並みを望んでなにが悪いんだよ! オレには「それ」すら与えられてなかったんだ!」
オレの話を聞いて、掴みかかられた「オレ」は冷めた目をしていた。こいつはオレを哀れんでいるのだ、とさえ思えた。「オレ」は、皮肉るように笑いかけてきた。
「お前は、いや、オレはよっぽど弱いんだな。「人並み」だって? あんまり笑わせるなよ。そんなものにすがりつかなきゃならないのなら、死んだ方がマシだ」
「黙れ!」
「オレという人間はな、特別になりたいんだよ。それはこの「ハンデ」があろうとなかろうと同じなんだ。それなのに、生まれつきそれなりに満たされちまうとそれはそれで、そこそこのポジションで我慢出来てしまう。あまりにも心根が弱すぎて、我ながら泣けてくるよ。オレは欠けてでもいないと走り出せない人間だったんだ。情けないことにな」
「オレ」はオレの手をふりほどいた。その小さな体のどこから来ているのか分からない、そんな腕力でふりほどかれた。
「オレ」は、うつむいていたオレの胸ぐらを掴み返してきた。目を逸らそうとしたが、その眼力から逃れることは出来なかった。
「オレ」は歌うように、高らかに言った。
「オレにとって、この体は必要なものだった。だから、この茶番はここで終わりだ」
その言葉で、地面が揺れた。アスファルトの大地がひび割れが発生する。胸元を掴まれたまま横目で空を見上げると、夜空までもが割れ始めていた。
そのうち、空の一片がが落ちてきた。避けようとしたが、「オレ」が首根っこを掴んで離そうとしない。オレはそのまま、空の欠片に押しつぶされてしまった。
――――
そこで、やはり目が覚めた。
テーブルからゆっくりと頭を起こす。まず、自分の手足を確認した。よし、いつも通り短い。
オレはそうしてから、向かい側に居る人に顔を向けた。店員のお姉さんは、オレが眠りに落ちる前と変わらずニコニコしている。いや、おかしいだろ。というか、あんただろ。あんたのせいだろ。でなきゃ、客がいきなり寝始めたのに平然として居られるわけないだろ。
「あれー? よろしいんですかー?」
「その言い方、やっぱりあんたが仕組んだんだな? この夢の中身までセッティングしてくれたってわけか?」
お姉さんは悪びれず、「はい」と元気よく返してきた。
「お客様が望むなら、その夢を現実にすることだって出来るんですよー?」
オレはちょっと驚いてから、「いらない」と言っておいた。
「えーっ、どーしてですかー?」
「どうしてもこうしてもない。そんなものは要らない。あんたのよく分からないオカルトにもこれ以上付き合っていられない」
オレは懐の財布から適当に万札を抜いてテーブルに叩きつけた。なんだかよく分からない店だが、これで縁を切れるならもうそれでいい。
「うーん、残念ですー。あ、お代はこの場合必要ないのでー、結構ですー。紙のお金なんかもらったってしょうがないですしー」
オレは言葉を額面通り受けとってひとまず財布に金を戻した。戻したあと、目を見開いた。
今、この女はなんと言った? オレが聞き返そうとする前に、女は言った。
「本当に残念です。お客様のような向上心のある魂は、めったに手に入らないので……」
女の声が響いて、また意識が遠のいた。
次に目を覚ますと、打ち上げをやっていた居酒屋の真ん前に立っていた。いきなり人が現れたはずなのに、通行人に驚かれている様子はない。
まさか丸ごと夢だったのか、と訝しんで腕時計を確認すれば、打ち上げが終わってからきっかり一時間が経過していた。
なんだったんだ、あの占い師は。オレは髪の毛をぐしゃぐしゃをかき回して、ため息をついた。
そうして一人で居ると、無性に誰かに会いたくなった。誰に会いたいか、と知人の顔を頭の中で並べてみると、一番派手にアピールしてきたのはミサキだった。オレの脳内でもうるさいやつだった。
だから、ってわけでもないけど。オレは電話帳からミサキの項目を探し、電話を繋いだ。
「もーしもーし。おい、ミサキ、今どこに居る?」
「はいはいセンパー、イ!? センパイだ! なんですかなんですか!? ご用件ですか!?」
「いや、とくに用って訳でもないが。あー。あれだ。今、時間あるか」
「はい! あります!」
「それで、どこに居る?」
「駅前です! まだ電車乗ってないです!」
「ならさ、そこで待ってろよ、オレが行くから」
「ええっちょっ待って」
オレはそこで一旦通話を切った。このままではいつになっても出発できない。
オレはその辺に居たタクシーに声をかけた。つい先ほどの運転手とは違う人間だったが、やっぱりぎょっとしてこちらを見てくる。
オレはパスポートを取り出した。イラっとは来るが、落ち込みはしなかった。
この苛つきもまた、オレを動かす原動力となっているんだ。オレはこういう世間の態度への反骨心も含めて前に進んでいるんだ。それが分かった今、むやみに傷ついてもいられなかった。




