俺に向上心はない
ぼーっと考えながら接客していると、交代の時間になっていた。オレは小声で「お先に失礼しゃーす」と挨拶し、従業員用出入り口に向かう。
オレは着替えてから、自転車に乗る前に夜空を見上げた。
そうだ。だらだらと過ごしてきた自覚はあるけど、人並みのことはこなしてきた。流されているかもしれないけど、それのなにが悪いっていうんだ。
それなりに苦労をして、それなりにいい思いをして、流されるままに生きる。それが幸せってものだ。人生に大波なんかいらない。それがオレの持論だ。
(そんな訳があるかよ)
オレは飛び上がった。自転車のハンドルを持っていたから自転車ごと体が揺れる。自転車ははずみでガタ、と大きな音を立てた。
コンビニの駐車場を見回すが、無人の車が停まっているだけだった。オレに話しかけてきそうな人物はどこにも見当たらなかった。
オレは胸をなで下ろす。なんだ。空耳だったようだ。疲れているのかもしれない。なにしろバイトが終わったばかりだ。さっさと帰ろう。
オレは気味の悪い空耳を振り切るよう、自転車を飛ばした。ペダルを漕ぐ脚に力が入る。早く家に帰りたくて仕方がなかった。
家に帰って、誰も居ない部屋の照明を点ける。明るくなった室内で、テレビの電源を入れた。
消費期限が切れて廃棄になったコンビニ弁当をビニール袋から取り出し、レンジに入れた。うちのコンビニは規則が緩く、オーナーに言えばこういった弁当をタダで持って帰ることが出来るのがいいところだ。
暖めが終わると弁当を取り出し、ちゃぶ台まで持っていく。食べる前に、一度スマートフォンを確認した。
「お、通知来てる」
通話アプリの新規トークが更新されていた、内容を確認して、スマホを手から落としそうになった。
オレがひそかに狙っていたあの子が、元彼とヨリを戻した、と。そういう報告だった。オレは震える手で、「よかったね」と返信しておいた。
そうか、復縁したのか。オレはなにも言えず、割り箸を割った。今日の夕食は海苔弁当だった。弁当のフタを外し、黙々と食べ進める。いつもより塩っ気が強いような気がした。
オレは食べ終わってから、流しで弁当を軽くすすぐ。水気を取ってプラスチックゴミの袋に入れた。そのまま、ゴミ袋の前で座り込む。
そうか、しょうがないよな。そういうこともあるよな。
もしかしたら、彼女が別れたあと、すぐにアピールすればよかったのかもしれない。だとしてもそんなマネはしたくなかった。傷心につけ込むようなマネを出来るわけがなかった。
(なにを、甘っちょろいことを言ってるんだ)
オレは立ち上がった。まただ。ゴミ袋の口をゆるく縛り、玄関まで行く。物置の扉を開け、ゴミ袋を入れてから扉を閉めた。
オレは玄関から部屋に至るまでの短い廊下、それから部屋の中を細かく見渡した。居ない。誰も居ない。
確かに誰かの声がしたのに人の姿はない。いったいどうなっているんだ。
(お前はそうやって逃げ回っているんだな)
まただ! オレは必死になって部屋中を確かめた。ベッドの下も、物置の中も、ちゃぶ台の下も確かめた。洗面所も風呂釜の中も。でも、誰も居ない。それはそのはずなんだ。オレは一人暮らしなのだし、誰かが居る方がおかしい。
オレは呼吸を整え、首を振った。そうだ。これはきっと空耳なんだ。
オレはちゃぶ台にノートパソコンを置き、ペンタブを接続した。こんなときは絵でも描こう。オレはきっと疲れてるんだ。気分転換でもすれば落ち着くだろう。
オレがお気に入りに登録しているサイトを確認していると、ちょうどイラスト交流サイトのほうで「一時間ドローイング」の企画が開催されていたので、参加表明をしてから絵を描き始めた。一時間ドローイングとは、その名の通り一時間以内に題通りの絵を仕上げ、サイトにアップロードする企画だ。何度かやったことがあるが、どうにもこうにも一時間で仕上げるのは難しかった。
難しいが、描いている内に時間は容赦なく過ぎていく。いつの間にか規定時間を過ぎかけていて、あわてて手を止めた。うーん、今回も仕上げには至らなかった。だけど、今回こそはいい感じに描けたんじゃないだろうか。
(どこがだ?)
声がまた聞こえた。オレは今度は無視した。いちいち右往左往してはいられない。
オレは出来上がった絵を交流サイトにアップロードした。その間に今まで上げた絵や漫画の評価を確認していく。新規の評価はついていなかった。巡回を終え、先ほど上げた一時間ドローイングの絵の確認をする。閲覧数二十、評価は一つ。いつも通りだ。
悔しくないと言えばウソになるが、まあいいのだ。所詮は趣味なのだから。こんなもの、仕事にするつもりはない。
オレはいずれ普通の企業に就職して、それで食っていく予定なんだ。だから、オレは人並みに遊んで働ければそれでいいだけだ。お絵かきなんてものは、趣味の一環にすぎないんだ。
「そんなのは、欺瞞だ」
声は、ちゃぶ台に置いていたスマホから聞こえてきた。オレはちゃぶ台から飛び退いた。後ずさり、背中と壁がくっついた。
声は、途切れなかった。
「お前は嘘をついているんだ」
オレは震える肩を押さえるため、手を置いた。体温が下がるような心地がした。体の芯が寒かった。オレはかろうじて声を絞り出し、返事をしてみせる。
「嘘なんかついてない、なにもついてない、なにも」
「なら、なんで悔しがっているんだ」
肩の震えが止まらなかった。動悸も激しくなってきた。スマホの向こうに居る「誰か」の声は、いつまでも止まらなかった。
「本当の、本当のお前は、誰よりも浅ましい。勝ちたがっている。誰にも負けたくないと思っている」
オレは、スマホをにらみつけた。震えてる場合じゃない。ちゃぶ台まで這っていき、スマホに手を伸ばす。電源を落とし、ベッドに向かって投げつけた。
オレは立ち上がった。肩の震えは全身に広がり、立っているのも辛かった。オレは何回も深呼吸を繰り返して、脚の震えをどうにか止めた。
オレはそれから肩掛け鞄を肩に引っかけて、玄関のほうへよろよろと歩いて行った。玄関の外に出て鍵をかけ、オレは歩き出した。
行く当てはなかった。ただ、もう部屋に居たくなかった。気味が悪くて仕方がなかった。
オレは夜の街を震えながら歩いた。まさか、あんなにはっきりと幻聴が聞こえるとは。あのスマホを使うたびに今夜のことを思い出してしまいそうだ。そうだ、機種を変えよう。どうせもうすぐ変えるつもりだったんだ。問題は無い。
オレはショーウインドーの目立つビルの前まで来て、歩くのを止めた。ガラスに背中を預け、息を吐いた。
気が動転してとっさに外へ出てはみたが、まだ動悸は激しい。落ち着くまでにはもうしばらくかかりそうだ。