腐男子がまじめにセクシャルマイノリティを考察してみる
※腐男子とはBLを読める男子を指す造語である。マイノリティを指す言葉ではないし、彼ら自身はマイノリティではない。
最初に、マイノリティへの十分な取材を行った上での考察であることをここに明言する。
近年、セクシャルマイノリティの人権問題や社会的差別の問題が、世界中で以前よりも取り上げられるようになってきた。それは割と保守的であるここ、日本でも例外ではなく、様々な取り組みがメディアで取り上げられる。いや、むしろ世界中でその問題が盛り上がっているのではなく、日本でその問題がにわかに熱気を帯びてきたので、海外の情報が入ってくるようになったのかもしれない。
セクシャリティとは、広義的解釈によると性的趣向を指す。すなわち、ロリコン、脚フェチ、などである(例えにこの二つを使ったことに他意はない)。すなわちセクシャルマイノリティとはセクシャル、性的な、とマイノリティ、少数派、という言葉が合わさって、性的少数者のことを指す言葉である。
マイノリティは一般に4つに分けられるのだが、ここでは細かい定義には触れない。簡単に説明すると、同性しか愛せない人[ゲイ,レズ]、同性も愛せる人[バイセクシャル]、心と体の性別が一致していない人[トランスジェンダー]だ。ただし、トランスジェンダーとその他はひとくくりにされてはいるが、多くの点で違いがあり、同時に論ずることが難しいため、今回はあくまで同性も愛せる、またはしか愛せない人に焦点をあてることとする。
まず、同性愛の歴史についてである。同性愛についての歴史をたどると、良く知られている事柄だけでも、かなり昔から存在している。有名なものでは、日本ではよく知られているように、武士の間で衆道の文化があった。ただし、衆道は通常の恋愛とは違い、体だけの関係という意味合いが強いものも多く、現在とは異なる点もある。もちろん、良く知られている武田信玄とその小姓、高坂昌信のように、恋愛感情が伴っていたものもあり、一概には言い表すことはできない。さらに民間においても、江戸時代に陰間という同性愛的趣向の風俗施設があった。詳しくは社会科担当教師にでも尋ねていただきたいが、昔は(少なくとも今よりは)日本において同性愛は一般的であったのである。
世界に目を向けると、私が無知なせいなのか、迫害されていたイメージのほうが強い。同性愛は禁忌であるイスラムの教えもあることからくるイメージなのだが、オスマン帝国でイエニチェリが存在していたこともあり、一概には言えないのであろう。
ヨーロッパ世界においては、キリスト教原理主義的には同性愛は容認することのできないものらしいので、やはり立場は弱いものであったのだろう。日本においても、衆道が異常なものとして認識されるようになったのは開国後の西洋文明の流入後とされる。西洋に倣って同性愛を異常なものとみなすようになった日本が、現代においては西洋に倣って同性愛を容認しようとしているのはなんとも皮肉なものといえよう。
ここまで同性愛の歴史をたどってみたが、ここで私が結局何が言いたいのか、という話をしよう。すなわち、同性愛は異常であるのか、それともそうではないのか、ということだ。私はタイトルに述べた通り腐男子であるので別に異常ではないと思っているのだが、大多数の人が同じ考えを持っているとは言い難い。日本においては多くの人がそれを異常だと思っているし、また、それらの人々に嫌悪感を覚えていない、もしくは覚えないよう努力している人々も、ただ単にそういう人種が存在しているという事実を、頭では理解しないまま丸のみにしているように思う。
単純に考えれば、間違いなく同性愛は異常である。一般的に人は少数派を異常と言うからだ。セクシャルマイノリティの数はある調査では13人に1人と示されているので、学年全体で考えれば1クラス弱程度の人数が該当するということである。意外と多いと思うかもしれないが、それは大多数の異性愛者と比べれば明らかに少数派である。しかも、圧倒的少数派である。そうであるので、人がこれを異常と呼ぶことに何ら間違ったことはない。
ではなぜ同性愛は異常ではない、という主張をする人がいるのか。それは「異常」ということの判断基準が異なるからである。先に述べた論では、少数派はすなわち異常である、という論理に基づいているが、異常ではないとする人々はその論理に基づいて主張をしていない。
同性愛というものは、人間の中で必ず生まれうる少数派である。ここで普段の通り少数派というところに目を向ければすなわち異常となるが、彼ら、彼女らはそこに目を向けていない。彼らは、必ず、というところに重きを置いているのだ。お気づきだろうか。こういう視点で見てみると一概に異常とは言えなくなってくる。必ず生まれるものを果たして異常と断言して良いのだろうか、そのような疑問がわき出てくる。
同性愛に対する理解が進まない理由もここにある。そもそも異常に対する判断基準が違うのだから、それぞれがそれぞれの基準に基づく主張をしても相手がそれを理解することはない。そしてどんなに話し合いをしても議論はそのまま平行線を辿り、結果的に、ますます異質なものであるという認識が深まり、さらに両者の溝が深くなる。負のスパイラルだ。
異常と主張する人も、そうではないと主張する人も正当性を持っているのは確かだ。この問題はどちらの主張も間違ってはいないのである。ただ、その時代でどちらの見方が大勢を占めているかの違いでしかない。
世間の風潮がどのように変わっていくのかは私にはわからない。誰にもわからないことだ。それこそ神でも無い限り。私はそれを注意深く見守っていきたいと思う。
また、一学生の分際で教育現場に意見させてもらうとするならば、教師にも多少の配慮を求めたい。私は今までに、これはネットに晒したら議論を呼ぶだろうな、という言葉が授業中に何度か教師の口から発せられたのを耳にしているが、教師としてそれはいかがなものであろうか。彼らはクラスの中に何人かはマイノリティがいるということを全くもって意識していないように思う。自分の周りにそんな人はいないとでも思っているのだろうか、それともそんな存在は絵本の中の存在であるとでも思っているのだろうか。どちらにしろ教師としてあるまじき行為であるように思う。
彼らはマイノリティの自殺率が高いことを知っているのだろうか。その不用意な発言が知らず知らずのうちに生徒の首を絞めていることを自覚しているのだろうか。おそらく、していないのだろう。自覚していればそんな発言は出てこないはずだ。教科を教えることだけが教師の務めであるならば、それは予備校の講師と何ら変わりはない。それ以外のことも教育するから教師なのである。そうでないならば名称を一部で揶揄されているように予備校にでも改名することを是非ともおすすめする。
少しでも自分は教師であるという自負があるのならば、今すぐその思考を改めろとは言わないが、少なくとも理解をする努力はしてほしいと思う。それが務めであるように私は思う。
以上、一学生の他愛のない戯れ言でした。