世界の狭間で1
なぜ手を離したのだろう。
この手のなかにあった彼女の温もりを、どうして離してしまったのだろう。
僕はなぜ――。
「まったく、とんだイレギュラーだわ」
聞き覚えのあるその声は琴楽器を思わせる。居丈高な自信と危うさを含んだ。
「サクヤ。本当に余計な仕事よ。どうしてくれるの?」
そのあとに聞こえた声は、聞き覚えのあるものだった。
「すまない。だけど、これは俺の本意ではない。言っただろう。すべて不可抗力だと」
それを聞いた瞬間、僕は全身で叫びをあげた。……あげたつもりだった。
しかしどういうわけか僕の口から声が発せられることはなく、身動きすら取れずにいた。右の頬がアスファルトの冷たい感触を感じていることから、自分が横倒しになっている状態であることだけはわかる。だが、わかるというだけで依然として自分がなぜこのような状態になっているのかはまるで見当がつかなかった。
それでも、くぐもっていた視界は次第に明瞭さを増し、周囲の様子や誰かが近くで動いている様子だけは見て取れるようになった。
そこは、なにもない空間だった。否、なにもないわけではないのだろう。横倒しになって接している部分の感触から、地面は存在しているはずだ。
しかし、どういうわけか目に映る周囲の景色は、先程まであった風景とは似ても似つかない、茫洋とした白っぽい空間だけだった。
そして、そこに二つの動く人影があった。それを目にした僕は、驚きに目を見開く。
僕は彼らに向けて必死に叫び続けた。しかし声の出し方を忘れてしまったかのように、口は開けど喉の奥からは掠れた息ばかりが発せられるばかり。困惑ともどかしさで胸は苦しくなっていく。
それでも僕はすぐそこで立っている彼らに気付いて欲しい一心で、叫ぶ努力をし続けた。
しばらくして、ふいにそのうちの一人がこちらに気付いた。そして静かに近づいてきた。
「……驚いたな。制御がかかっているはずなのに、意識が戻っている」
もう一人の少女も彼の横につく。
「え? 嘘。ちゃんと記憶制御ナノマシンは送り込んだはずなのに。制御プログラムに不具合でもあったのかしら?」
「鈴でもそんなミスをすることがあるとは、驚きだな」
「ううん。違うわよ。あたしのプログラムは完璧だった。もしそこにイレギュラーが入り込む余地があるとするなら、検体が通常考えられる予測域を大きく超える脳波を発生させたとしか……」
「通常レベルを超えた脳波? へえ、おもしろいね」
すると彼は僕の前でしゃがみこみ、僕の顔をなにかおもしろいものでも見つめるかのようにまじまじと見つめてきた。
「サクヤ。だから検体に不用意に近づいちゃ駄目だって……」
「――……朔!」
必死に叫び続け、ようやく僕は声を発することに成功した。
目の前にいた人物二人は、それに対し、みるみる驚愕の表情を浮かべていった。
「……嘘でしょう。ありえない……っ!」
口を覆ってうろたえる少女に対し、少年のほうは次に意外な行動を見せた。
「しゃべった……? 制御プログラムを自分の意志で止めた? すごい! おもしろいよ、こいつ!」
そして立ちあがったかと思うと、思い切り大笑したのである。
「朔! 朔なんだろう? どうしてお前、あのとき消えたんだ? どうしてその子と一緒にいるんだ。そしてこの世界はいったい……」
次の瞬間、腹にずんと鋭い衝撃が走った。すぐにそれは激しい痛みへと変わり、僕は思いきり咳き込んだ。
それが目の前にいる彼が僕の腹を蹴り上げたせいだと理解するのに、相当の時間を要した。
「さ……朔、どうして……」
頭に疑問が渦巻く。彼は理由なくこんなことをする人間ではない。その口から理由を聞きたかった。しかし、聞こえてきたのはいままで聞いたことのないような冷たい友人の声だった。
「その名前で呼ぶな。吐き気がする」




