10月24日 PM12:35 朔
たくさんのパンを抱えながら、俺は屋上へと向かっていた。
人気のない階段を踏みしめるようにのぼっていく。
途中腹の虫が盛大に鳴り響いたが、たぶん他に誰も聞いていなかっただろう。どうでもいいことだが。
屋上に続くドアの前で、少しだけ息を吐く。
それからがちゃりとドアノブを捻った。
ときどき、記憶がなくなることがあった。
――クヤ。
そして、記憶にないはずの誰かの声。
――かせたわよ。
誰だ。
お前は誰だ。
家族と普通に会話をしていて、ふいに感じる違和感が、いつのころからか顕著になっていった気がする。
しかしそれがいつのことだったのかもよくわからない。
「朔は忘れん坊ね」
母親がそう言うので、ときどき記憶がなくなるのはそのせいなのだと思っていた。
けれど、この違和感はなにから来るものなのだろう。
お前はここにいるべき人間じゃない。
ここはお前の居場所じゃない。
頭の中に誰か他の人間が住んでいて、そう言っている気がした。
そんなとき、俺はとにかく走ることにしていた。
思い切り走ると、俺の中の声はどこか遠くに吹き飛んでいった。たまにそれでも記憶がなくなることはあったけれど、そのほとんどはどうでもいいことだと思っていた。
俺にとって大事だったのは、茜や京と過ごす時間だった。俺にはその時間の記憶さえあれば、他になにも必要がなかった。茜や京と過ごしている時間は本当に楽しくて、彼らと過ごしていると、そんな声のことや、記憶の欠如のことなど、どうでもいいことだった。
自分が刹那的に生きている、という自覚は多少あった。
そのときそのときの一瞬さえ楽しければそれでいい。そんな気持ちが常にどこかにあるような気がしていた。
なぜなのかはわからなかったが、世界の終わりを体感したとき、なんとなく理由がわかったような気がした。
世界が終わるまでにやりたいこと。
茜のように具体的な行動に移すことは自分にはできないけれど、とにかくそれを考えたときに思ったのは、あいつらと一緒にいたいという、ただそれだけのことだった。
なぜなのか。自分でもよくわからないけれど、三人で過ごす時間の記憶を頭に刻みつけておきたい。そう思った。
ときどき起こる記憶の欠如。
誰にも話したことのない俺の秘密。
消えていく記憶のなかに、茜や京との大事な思い出もそのうち含まれてくるのだろう。
だとしたら、それまでにできるだけ多くの思い出を刻み込んでおかなくてはならない。あいつらとの思い出をたくさん作っておかなければならない。
それが世界の終わりという出来事によって少しばかり早まってしまったことは、とても残念なことだけれど。
京は今朝、俺に昨日電話を何度もかけてきたと言っていた。
けれど、今朝の俺にはその記憶は残っていなかった。確かに着信履歴を見ると、京から何度も電話がかかってきていたようだ。
たぶん寝ていたのだろうと京には言ったが、もしかすると……いや、たぶん記憶が消えてしまっていたのだろう。
京に呼び出された理由がなんなのかも、今の俺にはわからなくなっていた。
昨日までの記憶がところどころ欠如している。
とにかくお腹が空いた。
屋上のドアを開けたそこには、青い空と京の後ろ姿があった。




