変化の兆し1
いつまでもまどろんでいられたらどんなにいいだろう。夢見心地のまま、温もりに身を浸していられれば、きっととても幸せなはず。
けれど、それはもしかしたら限りなく死と近しいものなのかもしれない。
生きることは動くこと。
歩く。しゃべる。食べる。排泄する。細胞は生まれ変わり、心臓は常に動き続ける。
それが生きるということ。生きるということは、つまり常に変化していくことなのだろう。
変化することは人間にとってストレスをもたらすという。テレビの健康番組でストレスチェックというのをやっていたのを見たことがあるが、あれの項目には、意外にも結婚や旅行、引っ越しなど、一見ストレスとは関係のない、どちらかといえば幸せな出来事と思えるような項目も不幸な出来事と同列に並べられていた。
人間にとって生活環境が大きく変わるということは、それほどにストレスを感じさせる出来事なのだろう。
僕のこの茜と朔との今の関係を壊したくないという気持ちは、ただ臆病だというだけでなく、人間が自然に持っているストレス回避の本能からくるものなのかもしれない。
けれど、それでも人は結婚し、新しい生活を営んでいく。連綿と続いていく命の営み。宇宙が生まれ、数多の星々が作られ、そして一つの惑星に、人間という存在が生まれ出た。
何億分の一の奇跡。いや、何兆分の、さらにはもっともっと多くの奇跡のもとに僕がここに存在しているのだとしたら。そして、同じように数え切れないほど膨大な奇跡の集約の上に茜がいて、そんな僕たちが同じときと場所に居合わせているのだとしたら。
僕が茜に告白をすることは、もしかしたら不可避な運命、いや、必然であるのかもしれない。
「この三人で浜辺にくるの、結構久しぶりだよね」
僕たちはあれから、バスと電車を乗り継いで、自分たちの街に帰ってきていた。学校からほど近い海浜は、人の姿もそれほどなく、凪いだ海は静かに潮風を運んできていた。
「世界が明日で終わりだなんて、信じられねーくらいにいつもの海辺だけどな」
茜と朔は、サクサクと砂浜を踏みしめながら打ち寄せる波の近くまで歩いていく。僕はその後ろを少し離れて歩いていた。
昨夜の告白の機会は、結局中途半端なままで終わってしまった。朔との約束を守らなければ、という勢いのまま臨んだのがいけなかったのかもしれない。否、それよりも、本当に僕は茜にあのとき告白をしようとしていたのだろうか。ちゃんとした告白ができたのだろうか。
ただ僕は、朔に先を越されてしまう恐怖から、そうしなければいけない気持ちがしていただけなのかもしれない。今日になって冷静になってみれば、あのとき告白をしていなくてよかったと思える。なぜなら、朔にまだ確認していないことがあるからだ。
――朔も、茜のことが好きなんじゃないのか?
「よっ、ほっ!」
朔は波打ち際で、打ち寄せてくる波を飛び越えて遊んでいる。茜はそんな様子を楽しそうに見つめている。端から見ていると、嫉妬するほど仲の良い二人。
僕はもう、自分の抱いているこの感情を、はっきりと自覚していた。
嫉妬。妬む心。
そんな気持ちを朔に対して抱くなど、思ってもいなかった。
確かに朔は僕にはないものを持っている。けれど、同じ人間ではないのだから、それは仕方のないことだ。代わりに僕は朔にはないものを持っているのだから。
――けれど。
「わあっ!」
バシャンという水の音とともに、朔の叫び声がした。
「ああ、やっぱりやると思った~」
「やっべ。靴ぐしょ濡れだ~」
僕も薄々予想していたことだが、予想を裏切らず靴を濡らしてしまう朔の行動は呆れを通り越して、もはや感心してしまうレベルである。
「普通脱いでからそういうことやるよな」
「こういうのは脱いでやったらスリルがなくなるだろ。ああ、でももう仕方ねえ。こうなったら裸足になるしかないな」
「うん。結局はそうなることになるよね」
そして靴を脱いだ朔は、濡れるのに頓着しなくなったぶん、思い切り遊び始めた。
「そうれ!」
「きゃあ! 冷たい!」
「うわ!」
上着を脱ぎ捨て、ジーンズの裾をたくし上げた朔は、それこそ水を得た魚のように生き生きとした表情で水を僕らに向けてかけ始めた。
「やめろ、今何月だと思ってる!」
「十月下旬~」
「京。朔に常識は通用しないってば。もう、こうなったら私もやけだ!」
ついには、茜までも靴を脱いで波打ち際へと向かっていった。二人の壮絶な水のかけ合いが始まり、僕は唖然とその光景を眺めていたが、ふいにこちらにもまた水が飛んできたので、さすがに自分も冷静さが一瞬消えた。
「やったな!」
靴と靴下を脱ぎ、水の方に入っていくと、さすがにその冷たさに身が縮こまった。けれど、そんなことなどお構いなしに朔と茜は互いに水をかけ合っている。それに僕も加わり、壮絶な水かけの応酬が繰り広げられることとなった。
「京も参戦だね! よおし、容赦しないから!」
「かけろ、かけろ! 茜! 今度は京に集中攻撃だ」
「なっ、ずるいぞ二人でタッグを組むなんてっ」
朔と茜が思い切りこちらに水をかけてくるので、もはや僕としても遠慮という文字は脳裏から消え去っていた。服が濡れてしまうのも構わず、二人に向けて水をかけまくる。
「うわっぷ」
「きゃあっ」
二人の攻勢に負けない僕の攻撃に、彼らも悲鳴をあげている。代わりに僕のほうも頭からなにまでずぶ濡れとなっていた。いつもならこんな無茶苦茶なことはしないタイプであるはずの僕だが、なぜかそのときはほとんど躊躇しなかった。
ただこのとき、この瞬間を楽しんでいたかった。
明日世界が終わってしまうかもしれない。
もうこんなふうに三人で過ごせる時間もなくなってしまうのかもしれない。
そう考えたらこんな馬鹿馬鹿しいことも、なによりもかけがえのないことであるように思えた。
終わって欲しくない。
今このときが永遠であればいい。
そんなふうに思うのは、過ぎた願いなのだろうか。




