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アパルトマン l'apartement

 アパルトマンに帰ってきたのは夜中過ぎだった。もう寝てるかもしれないと思ってカギを使って中に入ったが、彼女の姿はなかった。こんなことは一緒に暮らすようになって初めてだったから、僕は何とも収まりのつかない気分で冷蔵庫からビールを取り出した。



 ひとりの部屋は妙にしんとしている。



 テレビジョンの暗い画面を見つめる。沈黙するオーディオ・セット、電話。水面下で活動するそれらは僕が手を触れるまで息を潜め続ける。



 空になったビールの缶と部屋のドアを同じ画面に捉らえながらタバコを吸っているとドアが開いて彼女が入ってきた。部屋の空気は変わる。色彩が、音楽が、ゆっくりと開いた朝顔のように香りを放つ。



「ごめんなさい。電話しようかとも思ったんだけど、疲れて寝ちゃってたら悪いしと思って」

 彼女は理由を言わない。僕も訊かない。沈黙の兆しが部屋の空気を満たす。僕は君が隣にいないと眠れないっていうのに。





 画面の中にはいつも男と女がいる。男はいつも女に恋をする。女はいつも男に恋をする。たまには違うことも考えてよ。例えば女は男と暮らしてるけど猫に恋をしていて猫は隣に住んでる犬のことを夢に見ていて犬は男によくなついて嬉しそうな声を出してそれで男はやっぱり女に恋をしている。どうどう巡り。みんなしあわせになれない。



「今の映画どうだった?」

 彼女は僕にそう訊く。僕は何も答えない。作り笑いをしかけて、それもやめる。

「面白くなかった?」

 君の感想を聞かせてよ。

「そうねえ、フランス映画観てていつも思うんだけど、ヒロインの女の子はみんな可愛いのに、その恋人役の男は冴えなくない?」

 そうだね。僕もそう思う。

「でも現実ってそうなのかも。女の子はみんな可愛いし、男はたいてい冴えない。恰好いい男はあんまりいないから女の子も敬遠しちゃうのよね」

 僕は笑ってコーヒーをひと口飲む。まだ少し熱い。苦い。僕は黒い猫のことを考える。



 その猫はもちろん現実の猫じゃない。僕はまだ餌もやったことがない。どんな寝顔で、どんな鳴き声で鳴くのかも知らない。そいつはまだ生まれたばかりだ。今日の昼過ぎ、電気炬燵の中で静かにそいつは目を醒ました。まだ夢の続きを観ているような気分。そいつはきっとそう思ったはずだ。それから少し周りを見回してみる。もちろん炬燵の中から這い出して。ちょっとおかしいぞ、とそいつは思う。いつまでたってもなんにも起こる気配がしない。こんなのって初めてだ。これってほんとに夢かしら。そいつはそんなふうにして生まれた。名前は僕が付けた。いちごミルフィーユ。それがそいつの名前だ。



 歩道の端に落ち葉が積もっている。これはもちろんミルフィーユからの連想だ。僕は彼女に訊ねる。「落ち葉を踏むのって好き?」「ばかねえ今はまだ冬だよ」

 そうだけど。踏むの好きって訊いただけだよ。「じゃあ猫は好き?」「今日のあなたはなんだか子供っぽいわ」

 彼女は僕の質問には答えてくれない。



 そんなこと言ってると、いまになんにも訊いてあげなくなっちゃうけど、いいの?



 彼女が滑って僕の腕にしがみつく。その勢いで僕も一緒に転びそうになる。

「こらこら気をつけてよ」

 ねえそれは僕のセリフじゃない?



 冬の道を歩くのはこんなふうに楽しい。けれどもいちごミルフィーユはついてこない。あいつは電気炬燵の中で生まれただけあって、なかなかの寒がりなのだ。



 彼女は僕よりふたつ歳下だけど、もう働いている。広告を作る会社に勤めているらしい。前に僕は彼女がそこで何をしているのか訊いてみたことがある。彼女はそのとき中学生の女の子が読むようなコミックスを熱心に読んでいたが(彼女は半泣きだった)僕の質問にはちゃんと答えてくれた。

「広告作ってるのよ」



 僕だって働いている。レンタルビデオ屋で深夜のアルバイトをしているのだ。でも学校にも行っている。僕の方がふたつもやっていて偉いじゃない。彼女はあきれ顔で僕を見て何も言わない。今度彼女が読んでいるのはファッション雑誌だ。僕も一緒に写真を眺めたりなんかしているけど、僕にはちょっと字が少なすぎるみたい。

「多いくらいよ」と彼女は言う。そのわりに彼女は女子高校生が抱えるセックスについての悩み特集とかを熱心に読んでいたりするのだ。僕は退屈していちごミルフィーユをあやす。あごの下を強くさすってやるとミルフィーユは気持ち良さそうに目を閉じてにゃーんと鳴いた。





 葉書が一枚届いた。差出人は聞いたことのない名前だったが、受取人も知らない人だった。



 その葉書をどうするかで何日か悩んだ。彼女にも相談してみようかとも思ったが、なんとなくやめた。そういうどうでもいいようなことを訊くようなタイミングがなかなかやってこなかったのだ。つまりこれは、彼女の中に入っているときにするような話ではないし、夕食の後、彼女とミルフィーユと三人でぼうっとしているようなときにも相応しくない話なのだ。そして、それ以外で僕がくつろげる時間はあまりない。



 葉書は僕の机の引き出しにしまってあった。彼女に見つかるように机の上だとかにさりげなく置いておけば話は早いのだろうけど、それはかえって僕が落ち着かないからだめだった。いずれにしても、僕はこのところその葉書のことばかり考えているようだ。



 彼女はまだいちごミルフィーユに会っていない。



 窓を開けると冷たい空気がゆっくりと部屋を浸していく。陽はあたたかで、これなら散歩日和と言えよう。たまにはミルフィーユにも外を歩かせないと。

「今日は天気がいいから、三人でどこか行こう」

「三人て、わたしとあなたと、誰か呼ぶの?」

 僕はまだ彼女にミルフィーユのことを打ち明ける気になれない。どうしてかな。



 彼女が先に立って部屋を出ていくのを見届けてから、僕は机のところへ行って引き出しを開け、中の葉書がまだそこにあることを確認した。さっさとなくなっていたら都合がいいと思うものの、それはそれで落ち着きが悪い。葉書はちゃんとそこにあった。





 冷たい空気は気持ちがいい。何度でも繰り返して深呼吸をする。「具合でも悪いの? なんか息苦しそうだよ」

 これこれ失礼な。まだ若いんだよ。



 たくさんの人と擦れ違う。なぜだかみんな楽しそう。コートを着込んでいるのがルールで、吐く息は陽の光に当たって輝いている。足元に目を遣ると、ミルフィーユはときどき氷で滑ってびっくりした顔をしている。電気炬燵からは地球の裏側くらい遠くのできごとなのだろう。黒い背中が光り輝く。氷は滑るから気をつけてね。



 ずっとずっとまっすぐ歩いてきたら、大きな塀に突き当たってしまった。右に行くか、左に行くかだけど。

「左よ」彼女は言った。今日の彼女はきっと霊感が冴えるのだ。





 葉書は片側にどこかの風景の写真が載っていて、もう一方に住所と宛名と差出人の名前が書いてあった。その住所もいったいどこなのか見当もつかない。少なくとも僕のうちじゃない。その他には余計な字はひと文字も、必要な文字さえ書いてなかった。宛名と差出人の名前とのあいだには少なくとも五行ぶんくらいの空白があった。これじゃあ行間の読みようもない。



 突き当たりを左に折れてから急に人の数が減った。道幅もぐっと狭まって、三人並んで歩くのはちょっと無理みたいだった。ミルフィーユは野生の勘か何かでそれを察知するとするするっと僕たちの前に出たが、ときどき氷で滑るのでそのたびに僕か彼女が細長いしっぽを踏み付けそうになった。彼女は気づいてないみたいだったけど。



「どこ向かってるんだっけ?」

「どこってどこかよ」

 そんなの答えになってないじゃん。

「あなたはどこに向かってるの?」

 わかんない。でも先頭を歩いてるのはミルフィーユだよな。おい、おまえいったいどこ向かってんだ? ミルフィーユは僕の問い掛けにもそしらぬ顔で黙々と歩いている。どうやら歩くコツを掴んだのか、あまり滑らなくなった。たぶん何も考えてないんだろうけど。


 道はたいがいどこかへ通じているものだが、ごくたまにそうでない種類の道がある。そんな道の果てに待っているのは、きっとよくないことに違いない。大きなライオンが口を開けていたりとかしたらちょっと怖いよね。ミルフィーユはネコ科だけど、果たしてライオンにミルフィーユが見えるかしらん。この道はいったいどこへ通じてるのだろうなあ。この道はどこかへ通じてるのかしらん。



 僕と彼女はあまり話さない。僕とミルフィーユもあまり話さない。僕は話しかけるんだけど、答えてくれないのだ。彼女とミルフィーユとはまだ会ったことがないので、きっと話すのは無理だろう。でももしかすると、ふたりはとっくの昔に大の仲良しになっていて僕を除け者にしてるのかもしれない。まあ黙って歩くのも嫌いじゃないんだけどね。



 まっすぐな道はどこまでもまっすぐ続いている。



「しまった」僕ははっとする。ミルフィーユもびくっとして立ち止まる。

「どうしたの?」

「お弁当持ってくるの忘れた」彼女はまたあきれ顔をする。

「それはピクニックでしょう。わたしたちがしてるのは散歩よ」

 なんだか連れないの。でもそういうのってすごく愛かもね、なんて。





 我々が行き着いたところ、それは案の定大きな公園だった。先頭を歩いていたミルフィーユは、視界が一面真っ白になったことに驚いたのか急にち止まって座り込んだ。つられて僕も立ち止まり、彼女も立ち止まった。ミルフィーユの黒いからだと白い雪の対比がなんだか本当っぽくなくてきれいだった。

「どうしよう……入る?」と僕は訊いた。というのもその公園は雪が降ってから誰も入ってないらしく、雪はたっぷり三十センチは積もっていたからだ。

「うーん」彼女も考え込んだ。思案げな彼女の顔はいつでも魅力的だ。

「やっぱ冬だし……雪はあるものよ」それを聞いたミルフィーユは背中の毛を逆立てながらもおそるおそる一歩雪に踏み出した。おいおい。おまえだったらすっぽり雪に埋まっちゃうんじゃない? けれど不思議にもミルフィーユは足跡を付けることもなく、コトコトと雪の上を歩いていく。それはまるで神の姿のようだ。

「さ、行くよ」彼女は僕を促すと先に立って歩き出す。僕も一歩踏み入る。するとどうだ。何のことはない。雪は表面まですっかり凍っていて、我々も雪に埋まることなく歩くことができた。



 左右を林に縁取られた道を進んでいくと、間もなく視界が開けた。


 ミルフィーユは突然駆け出す。太陽の弱い光を受けて輝いた一面の白い床の上を、右に逸れたり左に逸れたりしながらミルフィーユは駆けていく。僕と彼女は手をつないで、アダムとイヴのように、この世への第一歩を踏み出した。



「こういうのってなんだか素敵」彼女は言う。「すごく本当じゃないみたい。だって今朝起きたときに、部屋の中でこんな場所があるってことに気づいてた? そんなはずないよね。だってすごい」

 いや僕は知ってたんだよ。いや嘘だけどね。でも、すごい。

 彼女はまっすぐ太陽の方を見て、放心したように焦点が合ってない。太陽は真っ白い雲にうっすらと覆われて、控え目に黄色く輝いている。僕は横目で彼女の顔を見ている。黄色く輝いた彼女の白い肌は、雪のようではなかった。





 僕はまだパジャマを着ている。お化粧を済ませた彼女の顔はもう昼間の顔をしている。彼女の飲みかけのコーヒーに口をつけると、ほのかに朝の香りがする。

「今日遅くなるから。たぶん残業なの」

 彼女は僕の両頬に軽くキスするとちらりと笑みを浮かべたままドアを開けて出ていった。部屋に戻るときに鏡に目を遣ると、ほっぺたに赤い点がうっすらとふたつ。



 学校はなんだか賑やかだ。売店で買ったパンを齧っているとときどき見知った顔が擦れ違いざまに声を掛けていく。僕も口をもぐもぐいわせながら挨拶をする。ミルフィーユはもう起きたかしら。ちゃんとミルク飲んだかな。



「……従って、現代におけるファッションの構造は三つの観点から考えることができます。まず一つ目は……」



 時折耳に入ってくる先生の話に耳を傾けつつも、意識はふらふらと教室のなかを彷徨っている。隣ではみらいが寝ている。僕はとても愛しい気持ちになってほっぺたをつついてみた。寝顔がちょっとミルフィーユに似ていたのだ。



「そうなんだ。じゃあ今日は遅くまで一緒にいられるね」

 駅前のカフェは今日は外にもテーブルを出している。少しずつ春に近づいているのだ。みらいは黒いハイ・ネックのニットにスウェードのジャケット・コートを着ている。膝丈のスカートにロング・ブーツがすごくよく似合っていて、僕は思わず褒めそうになったけど、もったいないからやめた。



 何かの拍子に葉書のことを話そうかと思ったが、何となくやめる。これじゃあ彼女に隠し事ができてしまう。みらいのこと? もちろん内緒だけど。隠し事にも二種類あるんだ。みらいのことはしていい隠し事。葉書はだめな方。ミルフィーユのことは……どっちでもいい。

 みらいが僕をじっと見ている。僕は目が合った拍子に照れちゃって、思わずキスした。





 ひとりの部屋はしんとしている。ミルフィーユはどこかへ遊びにいったきり帰ってきていないようだ。炬燵に入ってぼうっとする。近くにあった本を何冊か手に取ってみるけれど、開く気にはならない。葉書のこととみらいのことを同時に考えていたからだ。何かが足に触れてはっとする。この部屋でみらいのことを考えるのはなしにしよう。「いたのか、ミルフィーユ」まったく炬燵が好きなんだから。



 僕は彼女に抱きしめられている。なぜだか僕は身動きもしないで、彼女の愛をぎゅっとなって受け止めている。「ただいま」と彼女が言うと、目が開いた。?

「ただいま」と彼女が言う。「おかえりなさい。あれ……寝てた?」 うん。可愛い寝顔してたから抱き締めてたの。

「なんかね、いま目を覚ます瞬間もね、夢の中で君に抱きしめられていたんだ」





 レンタルビデオ屋には、たくさんの物語が眠っている。冒険があり恋愛がありその中間がありそのどちらでもないものがある。毎晩たくさんの人たちが物語と出会う。僕の役目はそっと扉を開けてやることだ。ようこそいらっしゃいませ。素敵な出会いがあなたを待っていますように。



 ごくたまに彼女がやってくる。大抵は仕事帰り、ときどき散歩がてら僕を迎えにくる。そして彼女は子供は入っちゃいけないコーナーに行って、僕が気になるくらい長い時間そこにいたあと、然るべき物語を幾つか抱えて出てくる。その晩は僕も彼女もなかなか寝られない。物語に会いに行ってるから。ミルフィーユはたいてい炬燵の中で寝ている。およそテレビジョンには興味がないらしい。それとも人間に。



 ときどき演劇もやる。僕が父親が癌で入院していて借金を返せない娘をいたぶるやくざで、彼女がいたぶられる娘さん。



 いろいろやっちゃうんだ。



 あんなことも?



 みらいがやってくることもある。けれど彼女は普通のコーナーから普通の物語を選んでくる。犬の話とか豚の話とかが好きみたい。僕はみらいの趣味も彼女の趣味も悪くないと思っている。けれど豚の役はまだやったことがない。





 僕はその風景の写真を何度も何度も眺めたけれど、どう見てもそれは現実のものには思えない。なんかこう、違うのだ。水車がちょっと嘘っぽい。あと遠くの空を飛んでいる鳥とか。水車はそれでもまだ動いている感じもするけど、川の水は澱んでいるみたいだし鳥も空中に止まっているみたい。本当にある風景には見えないのだ。


 筆跡はどちらかというと女の人。でもそう言う僕の字はどちらかというと女の人みたい。きれいだけどちょっと可愛らしい感じのする字。僕のはあんまし可愛くないけど。というのは差出人の名前が男とも女とも取れそうだからなのだ。紛らわしいぜまったく。本来受け取っているはずの人はどうやら男みたいね。



 ペンはオレンジ色。丁寧に書いてあって印象深い。



 ミルフィーユが僕の膝の上から葉書を覗き込む。これ食える? いいや、これは食べ物じゃないよ。葉書っていうんだ。ミルフィーユはそれを聞くとまた丸くなって目を閉じた。眠ってしまったミルフィーユは目がどこにあるのかわからない。





 音楽が鳴っている。それは心のずっと奥の方。目を開くと聞こえなくなってしまうから、僕はぎゅっと目をつむっている。そんなとき僕の世界には彼女とミルフィーユがたくさんいる。僕の世界の隅から隅まで彼女とミルフィーユの色と香りに包まれている。僕はその世界がとても好きで、昼間にひとりで(ミルフィーユは近頃はすっかり外が好きになったみたいで、昼間はあまり部屋にいない)いるときにはよくそこに出かけている。静かな音楽が奏でられ始めると、僕はゆったりと沈んでいく。



 それは奥の方で。



 色は一色ではなくて、赤い光や青い光や黄色い光が互い違いに交差して、互いに重なり合い、その重なりがまた重なり合い、波となって伝わっていく。

 その世界でものはかたちを取ることがなく、そのかわりすべてのものが溶け合って、優しいあたたかさに包まれている。僕はだから寂しくない。ひとりではないから。





 彼女の作っている料理のいい匂いが部屋いっぱいに広がっている。それは部屋の輪郭をぼやけさせ、僕もミルフィーユも淘然となる。そんなとき、からだは部屋と同じ暖かさに震える。たまらなく愛しい気持ちでいっぱいになる。僕の心の奥の方と同じに。



 彼女の作る料理はとてもおいしい。彼女がそれを作ってくれるのは仕事のない日だけだけれど、僕はいつも一週間分お腹いっぱい食べる。もう一週間何も食べなくても平気だよ、と僕が言うと、彼女は優しく笑ってくれる。彼女が嬉しいと僕も嬉しい。



 ミルフィーユはあまり食べない。彼女は最近こっそりミルフィーユにも料理を分けてあげるようになった。僕には気づかれていないと思っているのだ。そういう彼女はやっぱりまだ子供。僕と彼女は騙し合いを楽しむために、いつも言わないことが多い。



 お酒を飲んで赤くなった彼女の顔はやっぱりどこかあどけない。いつも大人ぶって冷たく僕をあしらう彼女の顔はいまはどこにも見当たらない。僕のからだにもたれかかって、とろーんとした目付きでミルフィーユを見てる。ミルフィーユはもう眠っている。昼間外でたくさん遊んだのだろう。





「……従って、このロマン主義の理想を求めるエネルギーは、現実生活では満たされぬまま宗教へと向かうことになるのです……」



 僕は道を歩いている。大学からの帰り道。隣にはみらいがいる。僕の腕に腕を回してぎゅっとからだを寄せている。彼女はいつもより白い顔に寒さで朱がさして、なんだか美人みたいだ。なんか美人みたいよ、と僕はからかう。

「そういうこと言わないの、もう」彼女は顔全体で拗ねてみせるけど、すぐに笑い出す。

「さては惚れ直したな」

 うん、そうだよ。僕は声には出さないでそれに答えた。



「リング・ドーナツの優れた点は」と僕は言った。「穴の開いた部分でさえなおドーナツであるということである」

 みらいは僕の目を見つめ、それから目を伏せてティー・カップを手にとりカップを覗き込むように目を伏せたまま紅茶を啜り、それから目を上げて僕を見る。「黙って食べなさいよ」



 もしあなたがドーナツをコーヒーに漬けたなら、あなたはまさにアメリカに降り立った自分を見いだすでしょう。



 みらいは当たり前のことを話す。音楽の話、映画の話、食べ物の話。僕はそんな話を聴くのが好きだ。あたかもミルフィーユのように、大人しく聴いている。





 ジーンズのポケットからカギを取り出してドアをそっと開けると、部屋の中の暖かい空気が流れ出てくる。部屋の奥はいちばん暗い電球だけが点いている。僕は部屋が軋まないように静かにドアを閉めるけれど、ドアは無情にもドシンと重たい音を響かせる。



 彼女はしかしそれに気づくこともなくぐっすり眠っている。僕は彼女の唇にそっとくちづけてからおみやげのドーナツをテーブルに置いた。



 部屋を電球の薄明りのままにして、僕はまた葉書のことを考えている。それは最近ではあまり手を触れていないけれど、まだきっと机の引き出しに入っているはずだ。僕は眠っているミルフィーユを炬燵の中からひっぱり出すと膝の上に乗せる。ミルフィーユはうにゃっと声を漏らすけれど目は開かない。すぐにまた魚の夢に還っていく。僕はこの部屋でひとり起きている。けれども部屋はしんとはしていない。ふたりぶんの夢が部屋の空気を覆っているから。僕もそろそろ夢を観る時間だ。









 暗闇の中で誰かが喋っている。僕は目を閉じているが眠ってはいない。声は近づいたり遠のいたりを波のように繰り返す。声は低く澱みなく、僕はそのまま眠りに落ちていきそうになるが、何かが僕の心をそっと掴んで深みの中に沈んでいくのをつなぎ止める。誰の声だろう。僕はぼんやりとした意識を支えながら目を開こうとするが、力は瞼まで届かずなかなか開くことができない。声が遠ざかる。眠りに落ち込んでいく意識の中で最後に薄目を開くと遠くの方でぼんやりと何かが光っていた。





 部屋に入るなり何か異様な感じがした。空気が張り詰めて、冷たい緊張を放っている。猫はいない。彼女もいない。それだけではない。何かがそこにいる。僕は靴のまま部屋の奥へと入っていく。

 何も変わったところはない。すべてのものはあるべきところに収まって沈黙している。一枚の葉書を除いては。



 僕の机の上に置かれたそれはやはり沈黙しているが、部屋のものたちが静かな視線をそれに注いでいるのは明らかだ。僕は荷物も下ろさずに机の前に立ち止まったまま、静かにそれを見ている。写真の方が上に向けられていて相変わらずその風景はその場所にとどまったままだ。僕は少しためらったあとそろそろとそれに手を伸ばす。別に何ごともなくそれを手に取ると反射的に裏返す。オレンジのペン。どちらかというと女の筆跡。見知らぬアドレス、見知らぬふたつの名前。それは僕と何かを繋ぐ鍵なのかもしれない。僕は文字を丹念に追うとまたそれを裏返す。また同じ風景。一向に何も変わらない。時さえ動かない。水車だけが回り続ける。



 ミルフィーユがベランダの窓の隙間からひょっこり帰ってくる。僕はミルフィーユに葉書を見られないように素早く引き出しにしまう。僕が話しかけてもミルフィーユはこちらを見ず、黙って炬燵に潜り込む。僕はそれをもの言わず眺める。



 部屋は静かなままだ。



 ドアが開いて彼女が入ってくるのがわかる。部屋は真っ暗だが、僕は眠っているわけではない。彼女は明りをつけないで、そろそろと部屋の中に上がってくる。部屋の入り口でソファの僕に気づくと、立ち止まって様子を窺う。僕は声をかけない。彼女はじっと僕を見ている。彼女は息を殺している。僕はじっと息を潜めている。部屋が極度に沈黙する。その中で僕の息遣いと彼女の呼吸だけが聞こえている。彼女は側に荷物を下ろすと、静かに僕の隣へやってくる。


 僕はずっと何ごとかを考えていた。





 翌日僕は熱を出して寝込んだ。彼女はお粥をよそって持ってくると、それをテーブルの上に置いてそれから僕のパジャマのシャツの中に手を入れた。「大丈夫、そんなに熱はないよ」彼女はそう言うと体温計を振って水銀を下げた。今日は安静にしてなさいね。



 はーい。



 彼女は僕の虚ろな額に軽くキスをすると炬燵の方をちらっと見てから仕事に出かけていった。



 僕はベッドに横になったまま立ち昇るお粥の湯気を眺めている。その向こうで炬燵布団がもそもそ動いて黒い顔が覗いた。おはよう、ミルフィーユ。にゃーん。お粥食べる? にゃーん。あっそ。



 湯気がゆっくり立ち昇る。そろそろ起きて食べよっかな。



 電話のベルが鳴る。僕の意識はふっと戻ってくる。けれどまだ夢の側にいて、何かに憔悴している。ベルの音が近づく。もやもやしたものがからだの内側にある。ベルの音が鳴り響く。僕はようやくそれと気づいてよろよろ起き上がる。見るとミルフィーユが炬燵から顔を出して、僕の方をなじるように見ている。はいはいわかったよ、いま出ますよ。僕が受話器を取り上げた途端、電話の向こうではツーという音。

 また電話がかかってくるかもしれないと思ってそのまま起きている。厚着をして炬燵に潜り込む。ミルフィーユが僕の膝の上で丸くなっている。今日はなんだか優しいみたいだ。目の前ではあたためたお粥がふたたび湯気を上げている。電話の方をときどきちらちらと見遣るが、黙ったままだ。



 僕の意識は起きたままに彷徨う。目の前の白い壁紙を眺めて、テレビジョンの暗い画面を眺めて、それからまた電話を見る。膝の上ではミルフィーユが寝返りを打つ。このようなときに相応しい音楽を僕は知らない。葉書はおそらく引き出しの中で眠っているだろう。からだがだるくて確かめる気にならない。手をミルフィーユの背中に置く。あたたかい呼吸が黒いからだを通して伝わってくる。





 久々に見るみらいの顔は、なんだか妙に初々しいのだ。

「風邪はもういいの?」

 うん、もう完璧。「このあいだ一回昼間電話かけたんだけど、出なかったな」あ、あれみらいだったんだ。出たんだけどね、ちょうど切れたよ。「あ、そうか。さては寝てたのね。ごめん」うん、いいよ。

 僕は空を見上げる。どこまで見渡しても雲はひとつもなくて太陽が空を青く染めている。みらいも一緒に空を見る。僕は光を受けたその顔を見ている。唇のルージュも輝いている。上を向いた目は睫が目立つ。なに見てんのよ。いや、ちょっと。



 いいじゃんよお。



 ま、立ち話もなんですから。どっか行きませんか。「ごめん、今日ちょっと行くとこあるんだ」デート? 「うん」



 ひとりで歩く道も、太陽の光で輝いている。少し熱を含んだ陽射しは微かに僕の内側まで届くようだ。手をポケットに突っ込んでライターをもてあそぶ。自動車がひっきりなしに横を通る。褪せた車体が光を反射する。前から来る自転車は見知った顔だ。「久し振り、元気?」うん、ちょっと風邪ひいてたけど。「ちゃんと食べなさいよ」うん、そこそこね。相手は笑う。「それじゃ」バイバイ。



 本屋にはもちろん本がたくさん並んでいる。僕は何も手にとらずにぐるぐると店の中を回る。本のタイトルに目を落とし、隣へと滑っていく。本屋にはなぜか人もたくさんいる。皆真剣に本の背表紙を睨み、ときどき手を伸ばしてページを開く。そこには何が書いてあるんだろう。僕はぐったりして店の外に出る。ベンチに座り込んでタバコを一本吸う。人々が目の前を足早に通り過ぎる。徒党を組んで、あるいはひとりで。彼女に似た人が通る。でもちょっと違う。彼女はあんなに優しく見えないんだ。ほんとは優しいだけに。



 彼女のからだはあたたかい。もうすぐ学校休みでしょ。うん。じゃあ今度休み取れたら旅行しよ。うん、どこ行く。そうね、どっかいいとこ見つけとくね。よろしく。









 僕はずっと遠くを見ている。波打ち際から沖へ沖へと視線は進み、何隻からのヨットを通り過ぎて海がいちだんと濃さを増すあたりで漁船か何かの船と擦れ違いその先へ行くともはや行く手に何も遮るものはなく、あるのはただほとんど黒い色の海原で、それは果てしない先で交じり合っている空にぶつかるまで途切れることがない。「何か見える?」彼女が僕の横に立っている。

「ううん、何も」「いや、海が見えるよ。どこまでも続いている」「あなたは最近とても不思議なことを言う。自分では気がついていないかもしれないけど、何か、あなたには私とは違う世界が見えているんじゃないかと思って、とても不安になる」

 彼女はまっすぐ海の方を見ながら、ゆっくりと言葉を区切るように話す。

「そんなことないよ。僕に何か特別なものが見えてるわけじゃない。ただ、もしかすると少しセンチメンタルになっているかもしれないけど」

「わたしと暮らすの嫌い?」

「まさか。そういうことじゃない。少し童心に帰ってるだけだよ」「そう」

 彼女はそれきり俯いて、沈黙する。



 石畳の階段がどこまでも続いている。ほとんど崩れ落ちそうなくらい古くて、緑色が夥しく浸食している。両脇はようやく色のつきはじめた林で、進む道のりは薄緑色に染まっている。まっすぐ前から差してくる太陽が、木々の色を明るくする。我々はゆっくりと一段一段登る。幅は人が三人並べるくらいで、僕が前を、彼女が後ろを行く。遠く上の方に人の姿が見える。登っているのか降りてきているのかほとんど止まっているようにも見える。ときどき後ろを振り返って彼女を見る。彼女は僕の五段くらい下をついてきている。彼女が僕に追いつくとふたりで下を眺める。もう登り口ははっきりとは見えない。点のような人影が二、三見える。疲れてない? 大丈夫。それでふたりはまた登り始める。このような行為に我々はなかなか理由を見つけられないけれど、それはつまり、理由なんかの入り込む余地がないくらい単純なことだからだろう。こういうときに僕は気がつくとひとりで自分の心の中を旅している。からだは疲れを知らず、歩みは止まることがない。我に返って初めて自分がいまどこにいるかを思い出し、自分のしていることに気がつく。それから彼女のことを思い出し、立ち止まって振り返る。僕の背中が常に見えている彼女は、僕ほどひとりにはなりきれないかもしれない。僕は彼女の姿を見て少し不安になる。漠然とした冷気がからだの中を昇ってくる。それが喉まで達したときにようやく僕は作り笑いをする。彼女は僕を見て微笑む。僕は少し何か話し、彼女はそれに応える。そして僕はまた前に向き直り、ゆっくりと一段一段踏み締めていく。また心の中へ還っていく。



 風景が後ろへ通り過ぎる。線路が大きくカーブしていて電車の先の方が見え、すぐに我々の乗った車輛もそのカーブに侵入する。彼女が見ているのは我々の通り過ぎた風景で、僕が見ているのが少し後に彼女が見る風景だ。ひとつのものの表と裏側から。我々はあまり話さない。彼女と僕は別々に黙って違う沈黙を抱えている。それはプラスとマイナスのような、太陽と月のような、表と裏のような。見ている風景のような。それは擦れ違いではなく、行き違いでもなく、パラレルな相対。感じているのは孤独。僕は彼女を見る。彼女は僕を見る。僕が見ている彼女が僕を見ているのではなく、彼女が見ている僕が彼女を見ているわけでもない。別々の視点、別々の視野。そんなときも時は流れ続け、電車は走り続ける。それぞれの目的地へと向かって、我々の目的地へと向かって。



 空はどこまでも高く、碧く、地上にあるすべてはそこへ吸い込まれていきそうだ。高みに登ったときにさらに上を見るのはなぜだろう。眼下は緑と茶の交じり合った海、その前には本当の青い海が。来た方を見遣れば緑の先には赤や青や白の点。遠く高いところから見る海は白い波が目立つ。白い飛沫と低く翔ぶ鴎が重なって、それは織物のよう。ここから見る水平線は海と同じ高さで見るそれとは違う。空と一体になったその線をも俯瞰するようで永遠の絶望はない。すぐ足元の崖は鴎たちの住み処となっていて舞い降りたり舞い上がったりを繰り返す。海面まで降りていくそれの動きは緩やかで時はしばし止まったように見える。舞い上がった一羽が目の前をさらに浮上して太陽の中に入って見えなくなる。慌てて目をつむってまた開いたときにはそれはすでに滑降している。この頂きには何もない。鴎の糞が地面を白く変えてそれはコンクリートの床を思わせる。彼女は中央に立って三百六十度を見渡している。高い所の苦手な彼女はとりわけ僕のいる海の側へは絶対に来ない。僕はゆっくりと彼女のほうへ行くと静かにその手をとる。彼女は笑って手を差し出し、我々は一礼して軽くステップを踏む。すぐに彼女はここの高さのことを思い出して動きを止めると僕にしがみつく。僕は彼女の黒い髪に白い歯を見せる。彼女の髪は強い風にはためいて動きは決して止まることがない。彼女のからだを強く抱き締めながら、まるでこの世には我々ふたりしかいないかのように思う。鴎たちの耳障りな鳴き声がふっと遠ざかり微かなデジャヴュがよぎる。一瞬のちには風の音と鴎の鳴き声とが耳にぶつかり全部が現実のままにある。不安がふたりのからだを行き交い、我々は見つめ合う。この一瞬あとに飛び下りてすべてをなかったことにもできるのだ。けれど僕は彼女からからだを離してもう一度海を見、水平線を見てから彼女の手をとって細い階段を降り始める。









 ここには誰もいない。



 暗い部屋には僕しかいない。部屋は僕の思考で埋め尽くされ、そこには何人も入り込む余地がない。自分の姿を想像すると、眼がぎらぎら光っている様子が思い浮かぶ。その眼には何も映っていない。奥行きのない深淵は生命の色がなく、ゆえにその眼が見るのはすべて死にゆくものの姿。死はやがて部屋の隅々にまで行き渡り、僕も自然とその一部になる。音もまた死に絶え、時間という言葉はそこには存在しない。僕はじっとうずくまっているがすでにからだの輪郭は闇に溶け込んで定まらない。少しずつ僕が僕であることをやめていく。心などというものも今ではどこかへ行ってしまった。拡大した心に巣食くった闇の色に染まって。



 誰かの喋る声がする。それは遠く微かに途切れがちに、されど澱みなく、一種お経のように低く響いている。僕の耳はそれをほんの端で捉えているが拒絶と拒絶の拒絶がせめぎあい耳以外の部分からからだの中に侵入してくるようだ。息を吸う音がする。それは自分の呼吸のようでもあるし、この部屋にいるのかもしれない何者かのもののようでもある。いずれにしろ声は澱みなく続く。僕のきらぎらした眼は死の部屋の隅々までを見巡らすが何もその眼には捕えられない。気がつけば自分は、部屋全体に拡がっていた。



 それは拡散ではなく拡大。からだのなかに抱え込んだ闇を知らず知らずのうちに肥大させてしまった空しい結果。空虚さという名の巨大な闇。それは光を吸い込み、光を遮断し、ありとあらゆる暗黒のものを引き寄せる穴。やがて僕はかつて自分が何ものかであったことを忘れ少しずつ虚無へと落ち込んでいく。



 眼を閉じると、声は少し近づく。



 その声はさまざまな位相を揺れ動いているようだ。低い男の声だったかと思うとそれはいつのまにか滑るように高い女のそれへと移ろっていく。流れるようなその声は波となって部屋の壁に反射する。それは波紋と反射によって無限に谺して部屋をつまり僕を埋め尽くす。からだのなかで反響した声はやがてひとつの叫びとなって僕の口から飛び出る。



 気がつくと声はもうどこにも聞こえない。闇が下の方へ沈溺してくる。自分のからだの重たさに僕は傾く。



 一条の光が部屋を貫く。



 光はフラッシュのように一瞬見えてはまた消え、消えてはまたさっと横切る。あるいは正面から、斜めから。縦横に分断された部屋は闇と光の明滅を繰り返す。間隔はしだいに無限に縮小され果たしてそれは光の連続であったし、あるいはまた闇の連続でもあった。僕は限りないまでゼロに近づいていって、ついにはゼロ存在となった。









 みらいは僕の顔をまじまじと見つめる。もの言いたげな表情がさっと通り過ぎるが、おそらくそのことは言わずに。

「旅行どうだった?」

「いや、それが、行かなかったんだ。風邪、直り切ってなかったみたいでさ、すごい熱出て、しばらく寝たきりだった」

「そうなんだ。残念だったね。彼女、せっかく休み取ったのに」

「うん、そのうちまた休み取ってくれるって言ってるけど。行きたいところがあったのにな」

 みらいは何も訊かない。けれどやはり僕の顔を見つめている。僕が表情を読み取ろうとして見つめ返すとみらいは目を逸らして息をついた。

 僕は落ち着かない気分でみらいの後ろの光景を、にぎやかな店の様子を眺め渡す。ひとしきり視線が行き渡って再びみらいを見ると、その伏せた目には涙が溢れていた。





 耳の奥で死の声が鳴っている。





 僕はそのみらいの涙から目を逸らす。けれど視線は行き場を失って渦のように回転を始め、からだの内側を押さえ切れない衝動が駆け抜ける。僕は呼吸を整えるために目を閉じる。すると堰を切ったように死の声がからだの中に溢れ出す。もはやその流れはいかようにもとめがたい。大きく息をしようとするが呼吸は思うようにできない。慌てて息を止め、呼吸がその束縛を越えるようにするがかえって胸は苦しくなるばかり。僕は目を開く。目の前には、そこには誰もいない。





 僕はいつのまにか部屋に辿り着いている。そこには誰もいない。彼女もいない。猫もいない。机の上に、一枚の葉書。



 僕はふらふらとよろめきながらその葉書を手にすると、大きく半分に破き、続いてその半分に、やがて散り散りになって元のかたちがわからなくなるまで破き続けた。

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