美姫残像
昔は良かったと語るけど、過去と思い出は違うもの。
思い出とは、こうでありたかったという願望。
人は失ったものをいつも美化してしまう。
だから期待はもちろん、失望なんてバカらしい。
そこに映る美姫は、残像ですらないのだから。
* * *
「これを引き取ってはもらえませんか?」
その人は店に入ってきてすぐ、商品なんて何一つ見もせず一直線にお父さんの方に向かってきて、差し出しながら言う。
差し出されたのは、古びたカメラだった。
一目でデジカメじゃなくてアナログだってわかる、大きくて重そうな古くそして変な形のカメラをレジ台において、そのおばさんはお父さんからの返答を待つ。
おばさんが待っている間に、私はそのおばさんを意味もなくただの暇つぶしで眺めた。
けれどその人は、暇つぶしにもならないくらい普通のおばさんだった。
歳はたぶん40代で、ぽっちゃりとした体格に特徴のない顔立ち。
人ごみの中どころか近所のスーパーに放り込むだけで、もうそこらの主婦と見分けがつかなくなるくらい、平々凡々なおばさんの見本といった感じ。
せいぜい、やたらと疲れた表情を雰囲気が少し気になる程度。
でもそれだって、別に珍しいもの表情でも雰囲気でもない。何か悩み事を抱えてるんだな、苦労しているんでしょうねと、他人事な感想で終わる話。実際、他人事だし。
そんなおばさんが「引き取ってくれ」と言って差し出したカメラを手に取り、お父さんは少しだけ間を置いて聞き返す。
「うちが引き取っても、いいんですね?」
「はい。ぜひとも、引き取ってください。お金はいりません。なんなら、私が払います」
おばさんの即答を聞いて、初めからわかっていたことだけどおばさんの目的が予想から確信に変わる。
そもそも、うちはアンティークショップであってリサイクルショップでも質屋でもない。
商品は信用できる専門のバイヤーさんとで取引してるのに、時々うちの業種を間違えて買い取りを希望して持ち込む人がいる。
もちろんそういうのは、例外を除いてお断り。
売れなさそうなのを持ち込まれても困るだけだし、盗品だった場合は面倒くさいことこの上ないからね。
けれど、今回は例外。
きっとあのカメラは、深海の壺や自分の願望を押し付ける愛妻、底なし貪欲の蝶々と同じ類の物。
お父さんはカメラの状態を確かめながら、言う。
「いえ。こちらで買い取らせていただきます。……ところで、お客様」
お金はいらない、ちゃんと買い取ると言っても疲れた無表情だったおばさんが、お父さんの次の言葉で初めてわずかに笑った。
「買い戻されたくない方は誰ですか?」
自分が何故、ただ普通に捨てるでも壊すでもなく、うちまで持ってきてお金を払ってまでして処分したがる理由を察し、理解していることが嬉しかったみたい。
その後しばらく、お父さんはそのおばさんと話をしてた。
どうしてカメラをうちに引き取ってもらいたかったのか、その辺の理由は私がいたら話しにくいだろうと思って、私は店から自室に戻る。
カメラの事を尋ねたのは、それから数時間後。晩御飯を食べ終わった頃にふと思い出して、私は訊いてみた。
「昼間のカメラ、どうなったの?」
「あぁ、あれ? 引き取ったよ。見る?」
お父さんの提示に私は頷くと、どうも店にまだ出すつもりがなかったらしく、自室からカメラを持ってきてくれた。
やっぱりそのカメラは、大きくて重くて表面のいたるところに使うには支障がない程度の傷があって状態も良くない、どこで売ってもさほどいい値段にはならないと目利きの素人でもわかるもの。
でも私は少しだけ、このカメラに惹かれた。
その理由を探って私はカメラをクルクルと回して全体を見ながら、初めに見た時から思っていたことを口にする。
「変わった形のカメラ」
私はデジカメが主流の時代に生まれた子供だけど、お父さんはアナログカメラが好きだから、同い年の子供よりアナログカメラに詳しいというか、なじみ深いつもりなんだけど、このカメラはお父さんが持ってるカメラとは全然違う、初めて見る形のカメラだった。
「ポラロイドだからね」
私の独り言に、お父さんが答える。
「ポラロイド?」
聞きなれない単語をオウム返しすると、「最近の子供は知らないよね」と苦笑して説明してくれた。
「専用のフィルムを使って、その場で印刷できるカメラだよ。正確にはインスタントカメラと言って、ポラロイドはそのカメラやフィルムを主に製造した会社の名前だけど。
デジカメが主流になっちゃったから、すたれちゃったんだよ」
説明されて、少し納得。
カメラに関しての目利きは完全に専門外だけど、どれくらい古いものかは私にだってわかる。
私が見たところ、確かに古いけどそれでもこのカメラは製造から半世紀も経っていないはず。せいぜい、20年くらいかな?
それくらいの古さなら、アナログでもそこそこ小型化してるはずなのにかなりの大きさと妙な形なのは、すぐに印刷できるフィルムを入れるためのスペースと、印刷したものが出る部分なんだと納得しながら、どんなフィルムを入れるんだろうと思ってフィルムを入れる場所を探してみた。
探して、気付く。
カシャカシャとかすかに音がそのカメラからすること。
それはシャッターを切る音に少し似ているけど違う。それよりももっと小さくてささやか、でも妙にテンポの速い音。
少しよく見たら、その音の正体がすぐにわかった。
フィルムの残り枚数が、巻き戻っていた。
カシャカシャとフィルムの残り枚数を示す部分が、カシャカシャとリズミカルな音を立てて、5、10、15と巻き戻っていく。
フィルムの残りが限界まで巻き戻った後、私は一応、お父さんに尋ねてみる。
「お父さん。このカメラにフィルムは?」
「もちろん。入ってないことは確かめたし、入れてないよ」
普通のカメラじゃないことはわかっていたけど、フィルムがいらないのはお得だなと、私は特に意味もないことを考えた。
* * *
土曜日だったので朝から店でお父さんと掃除をしたり、接客したり、ただまったりと雑談したりと、いつもの休日を過ごしていたら、お昼頃に招いていないお客さんがやってきた。
「うちのカメラを返せ!!」
扉やドアベルを壊しそうな勢いで扉を開けて、開口一番に放った言葉がそれ。
他にお客さんがいないときで良かったと、私とお父さんは同時に思った。
招いていない客は40代後半くらいのどこにでもいるような、やや小太りで白髪交じりの髪がちょっと薄くなってきているおじさん。
昨日のおばさんと同じように、どこにでもいてすぐに周りの人と見分けがつかなくなりそうなぐらい、個性のない普通の中年。
ただし、目が異様だった。
何かに飢えているような、ギラギラとした汚い輝きでその目は満ちていた。
そんな気持ち悪いおじさんは、顔をゆでたタコみたいに真っ赤になりながら、乱暴に足音を立ててお父さんに近づいて、怒鳴りつけた。
「おい! 昨日、カメラを売りに来た女がいるだろ! あれは私の妻で、あのカメラは私のものだ! あのバカ女が勝手に持ち出して売ったんだ!!
まだ売ってないだろうな!? 今すぐ返してくれ!!」
「カメラ」の時点でついた予想の通り、このおじさんはあのおばさんの旦那だった。
そうだと判明したのなら、話は早い。
お父さんはいつもの笑顔で、きっぱりと言い切った。
「おや? あのカメラは奥方の伯父の形見だとお聞きしましたが? そうだとしたら、所有権はあなたではなく奥方の物ですよ」
眼がまったく笑っていない笑顔で、はっきりと言いきられておじさんは言葉に詰まる。
「……う、うるさい! 妻の物は夫の物だろ! あいつは全く使ってなかったんだから、俺が使って何が悪い!! いいからさっさと返せ!!」
けれど何かに取り憑かれて飢えているこの男に、お父さんの正論は通じない。
最低な言い分でゴリ押して、レジに拳を叩き付けて怒鳴り散らす。
それでもお父さんの笑顔は揺るがない。
どこまでも笑っているのに何の感情も見当たらない笑顔を保ったまま、お父さんは言う。
「カメラを取り戻したとしても、フィルムはどうするんですか?」
その言葉は、その男の欲望に関係あるものだったからか、お父さんの言葉を掻き消すように怒鳴っていた言葉が急になくなる。
数秒間の間を置いて言われた言葉をようやく理解したのか、少しポカンとした顔で男は尋ね返した。
「……フィルムを……何とかできるのか? 手に入るのか? ここなら?」
お父さんはその問いには答えず、私に言う。
「れんげ。昨日のカメラを持ってきてくれ」
質問の答えじゃないのにその男は勝手に自分の都合のいいように解釈したのか、一人勝手に怒っていたのが媚びへつらうような顔になって「ありがとうございます!」と先走った礼を繰り返す。
私が昨日お父さんに見せてもらった後、倉庫にしまったカメラを持ってきた時にはその男は、何を勘違いしているのか馴れ馴れしい口調でお父さんに何かを見せていた。
「お父さん」
呼びかけて私はカメラをお父さんに渡す時、レジ台に並べられた「それ」、お父さんに一方的にその男が見せていたものが見えた。
それは、妙に分厚くて硬そうな紙に印刷された写真。
そしてその写真には全部、同じ女性が写っていた。
妙に古臭い服装の、20歳前後の女の人。服ははっきり言ってダサいとしか言いようがないのに、そんなのが気にならないくらい、そこらの女優やアイドル何か眼じゃないほどの美人がどの写真も一人で、こちらに向かって優しい笑顔で映っている。
私の視線に気づいたその男は、私に笑いかけながら言う。たぶん本人は、子供にやさしく笑いかけているつもりなんだろうけど、新しいおもちゃを買ってもらえない子に自慢するような、下卑た笑みだった。
「綺麗な人だろう? これはな、私の妻の若い頃なんだ」
「は?」
思わず、声に出た。
けれど言葉は続かない。色々とツッコミどころが多すぎて、何を言えばいいのかわからない。
「信じられないのも仕方ない。昨日のあいつを見たのなら、なおさらだな」
私の客商売にあるまじき失礼な対応を、どうもポジティブな意味で取ったらしく、男は訊いてもいないことを勝手に語りだす。
「妻は昔はこんな風に美人で、優しく、常に私を立てて気遣い、いつも穏やかに笑っているまさに大和撫子の鑑のような女性だった。
しかし、結婚して子供が生まれて年月が経つにつれて、妻は変わった。いつも不機嫌そうで、口を開けば文句ばかり、そのくせ自分は家事を手抜きして怠けて、ぶくぶく太ってあの様だ。
まぁ、年月があれば人は変わると思って諦めていたがな、半年ほど前にこのカメラを見つけ、何気なく景色を撮ってみたら、驚いたよ!
若い頃の妻が、私の愛した妻が写っていたのだから!!」
男はおそらくお父さんに話したことをそのまま、私にも語る。
若い頃の妻に対する惚気と自慢、現在の妻に対する不満と侮蔑を交互に。
とても同一人物の事を話しているとは思えない酷い内容を夢見るように、現実をどこかに置き忘れて語る。
「それから私は写真を撮り続けた。一日一枚しか取れなかったから、妻が写るに相応しい景色を探して写真を撮ったよ。写真に写る彼女は、私との旅行を楽しむようにいつも嬉しそうに笑って写ってくれた!
……けど、フィルムがついに先日切れてしまった。もちろん私はフィルムを用意して写真をまた撮ったが、今度は一日一枚じゃなくて何枚でも自由に取れるが、全部普通の写真だ! 妻が写らなくなった!
だから、フィルムが必要なんだ。またあの写真が撮れるフィルムが!!」
汚いぎらつく目の正体はわかった。
けれど、貴方の望みは叶わない。
お父さんがカメラをレジ台に置くと、男はひったくるようにしてカメラを手にし、フィルムの残り枚数を確認して歓喜の声を上げる。
「!! おお! あ、ありがとう! ありがとう!!」
お父さんがフィルムを補充したとどこまでも勝手に自己解釈を続ける男を、お父さんは黙って見ている。
私も、黙って見る。
その音だけを、黙って聞いていた。
私とお父さんが何も言わないことをさすがに不気味に思ったのか、男のテンションがやや下がる。
下がってようやく気が付く。
カシャカシャという小さな音に。
何もしていないのに、フィルムの残り枚数が減ってゆくことに気付き、絶叫した。
「!? ああぁぁぁぁ!? な、何で!? 何でだ!? まだ何も取っていないのに!!」
「そのカメラは、元の持ち主の願いが宿っているんですよ」
絶叫する男を冷めた目で眺めながら、お父さんは言う。昨日、あのおばさんから聞いた話か、それともお父さんには一目見た時からわかっていた話か、それは私にもわからなかった。
「あなたの奥方の伯父とその妻は、とても仲睦まじい夫婦だった。夫が定年退職したら、夫婦で趣味の旅行をしようと約束していた。
しかし、妻は夫が定年を迎えてすぐに病に倒れてそのまま亡くなってしまった。
遺された夫は、妻との果たせなかった約束の代わりに昔、妻に送ったポラロイドカメラを使って、妻と行く予定だった旅行先で写真を撮り続けた。
妻と一緒にここに来たかった、この景色を見たかったと思い続け、願い続け、しかし叶わなかった願いが、彼の死後になって形になったのがこのカメラです」
お父さんの説明に、泣きそうな顔で男は聞く。
何故、フィルムがなくなったのかを、フィルムを再び手に入れることはできるのかを知る為だけに、続きを待った。
「このカメラは、今はいない人を確かに写してくれます。その人が、亡くなっているか健在かも関係なく、『思い出』を焼き付けてくれます。
けれど、それには限度があります。きっと、このカメラの持ち主は妻を亡くした時、後追いをしたかったくらい愛していたけれど、自分はまだ生きていること、未来があること、過去に縋り続けても妻は喜ばないことを何よりも理解していた強い人なのでしょう。
だから、回数制限がある。
50枚。今はいない人の思い出をそれだけ撮れたら、十分だろう。あとは、ちゃんと未来と現実に向き直って生きろ。そこまでがこのカメラに宿り、託された願いです」
深く妻を愛し、だからこそ前を向いて生きた男の、ほんのわずかな弱音の願望。
それが、このカメラに込められたもの。
決して、現在の現実から逃げるためのものじゃない。
けれど、男はそれを納得しなかった。
「ふ……ふざけんなっ!!」
男が叫んでカメラを床に叩き付けようと腕を振り上げた時、お父さんは男の腕を掴み上げ、私はカメラをキャッチしつつ男の脇腹に肘を入れた。
「うぐっだだだだっっ!!」
私の脇腹に入ったエレボーと、お父さんが手首をつぶさんばかりの力で握られて、奇妙な悲鳴を上げる。
「もうわかったでしょう? というか、初めからわかっているのでしょう?
現実逃避はもうおしまい。あなたが今すべきことはこのカメラのフィルムを探すことでも、写真の中にしかいない『妻』の自慢でもなく、離婚協議という現実を受け入れることだ」
お父さんがそう言って手を離した時には、男の目からはあのギラついた光はなくなっていた。
でも、レジ台に並べていた写真を全部かき集めて帰って行ったという事は、まだあれは現実を見ていない。
愚かな「思い出」に逃避し続ける男に、お父さんと私は顔を見合わせて、呆れた溜息をついた。
数時間後、店じまいの直前にお客さんが来た。
正確には、お客さんじゃない。ただ謝りに来ただけ。
昨日、うちにカメラを売って、そして今朝の騒動の原因と言えば原因のおばさんが、顔を青くして申し訳なさそうに頭を下げて謝った。
「すみません! うちの主人が迷惑をかけて本当にすみません!!」
「いいんですよ。それよりも早く、『元』主人になるといいですね」
おばさんの謝罪にお父さんがそう即答すると、少しだけおばさんは笑った。
けれどすぐにその笑みは消えて、また申し訳なさそうに言う。
「……そうおっしゃるってことは、だいぶ迷惑をかけたようですね」
夫が何をしたか、何を言ったかを察して、疲れた顔をするおばさんはお父さんと私に尋ねた。
「夫は、写真を見せましたか? 妻の、私の若い頃だって」
その問いに私たちが一度頷くと、おばさんは深々とため息をついて一葉の写真を取り出した。
ポラロイドではなく、でもデジカメで撮って印刷したものじゃない、普通のフィルムカメラで撮って現像したであろう写真。
そこに映る女性は、楽し気で生き生きとした表情に好感を持てるけど、可も不可もないごくごく平凡な20代の女性。
その女性を指さし、彼女は言う。
「これが、私の若い頃。あの人と付き合っていた頃の私です」
あの男、この人の夫が持っていたポラロイド写真に写っていた女性とは似ても似つかない女性だった。
髪形や服装の方向性辺りは、確かにその写真と一致するけど顔は完全に別人。
そして、どちらが真実を語っているかは一目瞭然。
写真の女性を順当に年を取らせたら、彼女になることくらい一目でわかる。それくらい、写真の彼女と現在の彼女に大きな差異はない。
私が「は?」と思わず言ってしまったのは、あの写真の女性がこのおばさんになるという変貌に驚いたからじゃない。
逆整形したと説明しても不自然なほど、面影のない別人としか言えないあの写真の女性を、自分の妻の過去だと信じて疑わないあの男の思考回路が理解できず、思わず驚いただけ。
「……あのカメラ、撮影者の記憶を頼りに『もういない人』を写しているのはわかっていましたが、あそこまで『本人の改変された記憶』頼りだとは思いませんでした」
お父さんが苦笑しながら感想を述べると、おばさんは投げやりな調子で言う。
「あの人、思い込んだら人の話なんか一切聞かないんです。この写真を見せても、他の人に『別人だろ』と言われても、あの写真の私が本当の昔の私だと信じて疑わない結果が今ですから」
お父さんもかなり困った感じで笑いながら、「……思い出フィルターって恐ろしいですね」と答える。
私は、昔のことにフィルターがかかって美化するほどまだ生きてはいない子供だから、たぶん何を言っても説得力はないし、思うことも的外れなんでしょう。
でも、これだけは言っておきたい。
同一人物だと認識しておきながら、過去の美貌の妻は称賛し、現在の順当に年を取った妻は貶す男に関して思うことはただ一つ。
「男って本当に、バカ」
「さすがにひとまとめにされたら困るな」
私の言葉にお父さんは突っ込んだけど、否定はしなかった。
やっぱり、バカじゃない。