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鯨飲蝶々

 嫌なことをすぐに忘れる人間は幸せだ。

 人に不快な思いを与えたことすら、覚えていないのだから。

 そういう人の頭の中はきっと、何も実らない花で満開のはず。

 けれど、そんな花畑にも価値はある。

 鯨飲で貪欲な蝶々の餌場くらいの価値は、ね。




 * * *




「きゃー! 可愛い~! お人形さんみたぁ~い!」

 いつものように店の掃除をしていたら、甲高い声が聞こえると同時にいきなり私の頭はぐしゃぐしゃにかき回された。

 声がどう考えてもまだ若い女の声だったので、ギリギリのところで肘鉄を決めるのは我慢した。


 ビックリしつつ振り返ると、20そこそこの女の人が、どこから出してるのかと思うくらい甘えた声で、「きゃ~ん」とか言いながら、私を無遠慮に抱き寄せる。

 ……もう同性でも、セクハラって叫んで殴ってもいいよね?


「ちょっ! 何してるの! 失礼でしょ!」

 私が拳を固めたタイミングで、同い年くらいの女の人が2,3人止めに入った。どうやら、連れらしい。

 でも、私を抱きしめている張本人は、へらへら笑って離しはしない。


「え~、だぁって~この子、ちょー可愛くない? もうフリフリのドレス着せて、部屋に飾っておきた~い」と、私を完璧に生きた人形だと思い込んでる発言をする相手に、注意してる方はこめかみにうっすら青筋を浮かべながら、「バカなこと言ってないで離しなさい!」と怒鳴った。

 かなり本気でキレているのが他人の私でも一目瞭然なのに、本人はやっぱりヘラヘラ笑って、「え~、やぁ~だぁ~。おうちに連れて帰るぅ~」と、空気が読めてないどころか爆散させようとしか思えないことを言ってのける。


 可愛いとバカの違いが分かっていないバカを、どうやって引き離そうかと考えながら、私はそんなやり取りと、その人たちを見比べた。

 この人たちは、友達じゃないんだろうなぁとかも思いながら。


 すぐに抱きしめられたから、そんなにちゃんと見たわけじゃないけど、服装を見ればだいたいわかる。

 女友達は基本的に、服装が似る。

 友達=自分と趣味が合う人間と考えたら、この法則は納得のはず。女の趣味や好きなものの方向性がよく出るのは、間違いなく服装だから。


 もちろん、例外はよくあることだけど、彼女たちの場合はその例外じゃないはず。

 だって、私をさっさと離せと注意している人たちは、みんなデニム・スニーカー・パーカーのどれか一つは身に着けている、カジュアル系なのに対し、このバカ一人、やけに胸の開いたミニスカワンピースにハイヒールという格好。

 女友達は服装が似るという法則を知らない人でも、きっと彼女達には違和感を覚える。


 ただ、彼女たちの関係性がここで想像できないのは男の人だけだと思う。

 女なら、子供の私でもやっぱり一目瞭然。

 何故、友達ではない以前に、大っ嫌い、視界にも入れたくないレベルで嫌っているであろうこの女を、表面上だけでも友達の輪に入れているかの理由なんて、とても簡単なこと。


「れんげ、何しているんだい?」

 人を好き勝手抱きしめて頭をかき回すバカの行動に対する苛立ちを、どうにか攻撃に転じないようにあえてどうでもいいことを考え続けていたら、ちょうど倉庫に行っていたお父さんが帰ってきてくれた。

 私は無言で私を拘束していたバカの腕を振り払って、お父さんの方に駆け寄って、そのまま後ろに隠れる。


 お父さんは珍しいことにいまいち状況を理解できていないのか、首を傾げて私とお客さんの集団を交互に見る。

 私は何も言わなかったけど、お父さんの口調や私たちの見掛けで、親子だと(もしかしたら、兄妹と思ってる可能性の方が高いかもしれないけど)わかったのか、バカに注意していた人たちの方は、皆それぞれ頭を下げて謝った。


「すみません! ご迷惑をおかけして!」

「ごめんなさい! ごめんね、お嬢ちゃん。怖がらせちゃって」

 何も悪くないのに、お父さんや私にその人たちは謝るのに、いきなりセクハラを盛大にかました本人はやっぱり、空気を読まないでバカ全開だった。

「きゃ~! すっごいイケメン! 見て見て~、ちょーかっこいい~」


 注意していた人たちが、視線で人が殺せるなら確実にバカがオーバーキルな目で見る。かすかにだけど、何人か舌打ちした音も聞こえた。

 お父さんも彼女たちの関係というか関連性をなんとなく察したのか、曖昧に笑いながら「いらっしゃいませ」と挨拶する。

 そして、挨拶してからそのお客さんに気付いたらしく、声をかけた。


「あぁ。貴方でしたか。そういえば今日でしたね」

「はい。あのこれ、本当にありがとうございます。親戚からもすごく褒めてもらいました」

 声をかけられたのは、バカではなく注意をしてたうちの一人。

 彼女は丁寧に頭を下げてから、鞄から手のひらサイズの木箱を取り出してお父さんに渡した。


 その木箱には、見覚えがあった。

 あぁ、そうか。あれをこの人に貸していたんだ。

 今日がその、返却予定日だったんだ。


 お父さんはその木箱を受け取って、中身を確認する。

「はい。確かに。ご丁寧に扱ってくれたようですね。こちらこそ、ありがとうございます」

 お父さんがそう言った瞬間、ずけずけと近づいてきたバカが木箱の中身を覗き見て、また甲高い声を上げた。

「きゃー! 何これ何これ! すっごいキレイ! 私、こういうの大好き! これ、売り物なんですか~?」


 言いながら、お父さんや周りの人が制止する前に、勝手に木箱からそれを取り出して勝手に頭につけだした。

 今にも羽ばたきそうなぐらい精緻な針金細工の、蝶々の髪飾りを。


「何やってんのよバカ!」

「ちょっ! ご、ごめんなさい! すみません!」

「ほら、さっさと返しなさいよ!!」

 顔を青くさせたり赤くさせたりして、他の人たちはお父さんに謝ったりバカに注意するけど、もう脳みそが完全に溶けて腐って頭の花畑の肥料になってるお気楽バカにはもちろん通じない。


「見て見て~、これ私に超似合ってない? ねーねー、これおいくらなんですかぁ~?」

「返しなさい」

 周りの空気を読まず、自分一人だけ勝手気まま好き勝手やっているバカに、お父さんはただ一言だけ告げる。

 顔は相変わらず笑ってる。

 ただ、目は笑っていない。冷たく、冷たく、そして深く相手を見据えて、お父さんはもう一度だけ言った。

「返しなさい」


 たぶんあのバカは、ここまでされても自分が怒られていることも、その理由も理解できていなかった。その証拠に、言われたって彼女は髪飾りを返さなかったのだから。

 でも、お父さんの言葉か眼か、それとも雰囲気かに対して一瞬、怯えた。それくらいの危機感を覚える本能は、腐った脳にも残っていたみたい。

 その怯えて固まった隙に木箱を持ってきた、あの髪飾りをレンタルしていた張本人がバカから髪飾りを奪い取って、お父さんに返却した。


「ごめんなさい! ごめんなさい! 迷惑ばっかりかけて本当にすみません」

「……いえ。かまいませんよ。

 れんげ。これを片付けておいてくれ。その後は、部屋に戻りなさい」

 顔を羞恥で真っ赤にして謝るお客さんに、今度はちゃんと目も優しく笑ってなだめながら、お父さんは木箱に直した髪飾りを私に渡す。

 いつもならまだお店の掃除やら手伝いをしてるんだけど、あのバカがどこまでもバカで面倒くさかったので、私はお父さんに甘えて、木箱をいつもの置き場所、アクセサリー置き場の棚の片隅に置いて、そのまま部屋に戻った。


 それから2時間くらい経ってから、お父さんが部屋にやってきて私に尋ねた。

「れんげ。あの髪飾りはどこに置いた?」

「? いつもの所に置いたよ」

 私の返答に、お父さんは腕を組んで首を傾げる。

「おかしいな。どこにもないんだよ」

 その言葉に驚いて、私は店に戻って自分が置いたはずの棚を見てみた。


 お父さんの言う通り、間違いなくそこに置いたはずの木箱がなくなっていた。

「れんげ。一応もう一度聞くけど、ここに置いたんだよね?

 間違って別の棚とか、後で置こうと思って部屋に持って帰っちゃったってのはないね?」

 お父さんの問いに、私は首を横に振る。

 何度思い返しても、私は間違いなくここに置いた記憶がある。


 でも、その記憶が確かだというのなら、そして今あの木箱が、髪飾りがここにないってことは、盗まれたとしか考えられない。

 あれは勝手に動き回るタイプだからこそ、厳重に封じていた。だからこそ、盗難だって断言できる。

 しかもあれは、動き回る上に厄介極まりない特性も持つもの。

 だから、売らずにレンタルという形でしか扱えない。


 お父さんは本当に一応だったらしく、元から疑っていなかったのかあっさり「そう」と答えて、私の頭を撫でる。

「気にしないでいいよ。私が店にいたのに、気付かなかったのが悪いんだから」

 そう言いながらも、溜息をついた。実に面倒くさそうな溜息だったから、どうやらお父さんと私の犯人予想は一致しているみたい。


「あのバカかな?」

「たぶんね。目を離すんじゃなかったよ」

 端的で我ながらに酷い言い草を、注意しないでお父さんは同意した。


 お父さんが言うには、あの後あのバカは他の人たちからの叱責も、唇を尖らせて聞き流して、店の中の商品を「これ可愛い~、何これきも~い」とか言ってうろついていたらしい。

 で、他の人たちはあのバカが迷惑ばっかりかけたことを謝って、罪悪感からかそれとも普通に欲しくなったのか、何人かが商品をいくつか買ったらしい。


 たぶん、盗まれたのはそれらをレジに通してる間。

 お父さんが思い返したら、その間だけあのバカは静かにしていたし、それにホッとしたのか、あのまともな人たちも無視してレジに集まっていたみたい。


「どうして、あんなのとあの子たちは付き合っているんだか」

 お父さんも酷い言い草で、呆れたように言う。

 聡いお父さんでも、やっぱり女の面倒くさい人間関係はわからないか。


「あの手のタイプは、男を味方にするのが上手い。そして、事実を自分の都合のいいように何倍も脚色して話す。それが事実だと、記憶を改竄するから妙に説得力があるの。

 ちょっと注意したとか、一緒に遊ぶのを断っただけなのが、イジメられた仲間はずれされたって言って回って被害者面してこっちが悪者にされるから、嫌でもある程度は付き合ってやらないとその後が面倒くさくなるからだよ」


 私の答えにお父さんは少し引いた様子で、「そうなんだ」と言った。

 この程度で引かないでよ。女の人間関係の面倒くささで言えば、これはまだ序の口なんだから。

 ……けど、本当にあのバカが盗んだんだとしたら、よりにもよってなものを選んだなものね。


「まぁ、何にせよれんげは何も気にしなくていいよ」

 お父さんはもう一度言ってから、また私の頭を撫でる。

「誰がどんな結果になっても、それは自業自得、因果応報でしかないんだから」

 それは私も同意なので、深く頷いておいた。




 * * *




「まってよぉ! なんでわたちをおいてぐのぉ!?」

 学校帰り、声が聞こえた。

 舌がまだうまく回らない、幼児のようなしゃべり方だけど、その声には妙に聞き覚えがあった気がした。

 なんとなく振り返って声の主を確認してみて、納得と同時に後悔した。

 嫌なものを見た。


「来ないでよ! 迷惑だって何回言えばわかんのよ!!」

「もう本当にあんた、病院に行きなさいよ!」

「ひどい! ひどいひどいひどいひどいいいぃぃぃっ!!」


 やり取りだけをただ聞いたら一方的ないじめに思えるかもしれないけど、実物を見れば拒絶している側を責めるのは酷。

 コーディネイトがめちゃくちゃな服装、子供の落書きみたいな化粧をして、幼児のような口調でこれまた幼児のように泣きわめく20代の女なんて、そりゃ拒絶するでしょう。


 泣きわめく女の頭には、今にも羽ばたきそうなほど精緻な針金細工の髪飾りがあった。

 今から2週間ほど前に、私の家の店から盗まれた蝶々の髪飾り。

 精神が幼児としか思えない女は確かに、あの日のバカだった。


 あの女は間違いなくバカではあったけど、頭と心の病院のお世話になるレベルではなかった。

 少なくとも、自分を異性に魅力的に見せることに関してはものすごく長けていて、あんなめちゃくちゃな格好なんてむしろ絶対にしない人間だったはずなのに、たった2週間であのざまは、さすがに私も驚いた。

 毎日長時間、あの髪飾りをつけっぱなしだったの?

 それとも、2週間であそこまで「枯渇」するほどのバカだったの?


 そんなことを考えながら、あの日店に来てくれていた、あのバカと嫌々ながらも付き合っていた友達グループが、何とかバカを引き離そうとして皆が一斉に駆け出した。

「まって! まってよお!!」

 バカは子供でもあそこまで泣きわめくのは珍しいと思える声を出しながら、一方的に「友達」だと思っている彼女たちを追いかける。


 赤信号の道路を、一瞬の躊躇もなく飛び出した。


 耳が痛くなるようなブレーキの音と、ドンッ! と鈍い音が響いて、その数秒後にグシャっと潰れるような音、そして最後は周囲の人たち、私と同じようにあのバカの異様さに思わず凝視してしまっていた人たちの悲鳴があたりに満ちた。


 バカを引き離した彼女たちも、後ろの惨劇に気付いて悲鳴を上げる。

「何で! 何で飛び出したの!」

「信号、赤だったじゃん! そんなのもわからなくなるくらい、おかしくなってたの!?」

 悲痛な声を上げる彼女たちに同情しながら、私は呟く。

「正解」


 私の足元に飛んできた、衝撃で羽の部分が潰れて、髪が何本も絡まっている針金細工の蝶を見つめながら、呟いた。


 ……この蝶の髪飾りには、特殊な効果がある。

 この針金細工の蝶は、身に着けた人の「嫌な記憶」を吸い出して餌にする。だから、この髪飾りをつけていると嫌なことを忘れて、余計なストレスを抱え込まずに済む。


 ……作った人はそのつもりで作ったのか、それともそう言って騙すつもりで作ったのかは、わからない。

 わかっていることは、この蝶の食欲は底なしであること。


 これが吸い出して餌にする「嫌な記憶」は、選べないし際限もない。

 つけていればつけているだけ、この蝶は餌を吸い出してしまう。

 しかも厄介なことに、この蝶に吸い出された「嫌な記憶」は、もう二度と本人には戻らない。


 忘れるって行為は、記憶をなくすんじゃなくて思い出せなくなるだけ。

 嫌な思いや思い出をただ忘れただけなら、何かきっかけがあれば思い出せるし、具体的に思い出せなくてもなんとなく覚えていて本能的に避けたり、二度と同じことが起こらないように行動したりするものだけど、あの蝶に吸い出されたのなら、もうそれらは不可能。


 だからお父さんはあの蝶を、結婚式とか何かのイベントで数時間だけつける人にだけ貸し出すレンタル用にしてる。

 厄介だけど使う側が加減さえ見極めたらそれなりに便利だから、処分せずにそういう使い方をしていたのに、あのバカは……。


 底なしの蝶々は、加減を知らない。

 あの蝶を身につけたら、蝶はずっと人の頭から「嫌な記憶」を吸い出し続けてる。

 その「嫌な記憶」は、他人から与えられた理不尽はもちろん、自業自得な自分の行い、失敗を反省して学習したことや、親が自分の為と思って叱ってくれた記憶まで、吸い上げて食らいつくしてしまう。


 だから、彼女はああなった。精神が幼児にまで退行してしまった。

 服のコーディネイトも化粧の仕方も、「失敗」という「嫌な記憶」を吸い取られたことで、その失敗を糧にした「学習能力」も失われ、幼児同然のめちゃくちゃな服装と化粧しか出来なくなった。

 ……赤信号に飛び出したのも、同じこと。

 彼女にはもう、それの何が悪くて危ないことなのかも、わからなかった。

 それを叱って教えてくれた記憶はもう、この蝶の腹の中。


 ……普通なら、あそこまで酷くなるにはもうちょっと時間がかかるはずなんだけど、たぶん彼女は長時間、髪飾りを着けていたことと元々「嫌な記憶」なんてほとんどなかったんでしょうね。

 自分が大好きで、自分の都合のいいように事実を脳内で書き換えるのが得意だから。

 だから、蝶は餌を求めて記憶の深部まで吸い出した。

 これはその結果。

 お父さんが言う通り、万引きも悪いことだと思わないでやったであろう彼女には当然の、因果応報。


 ……そうだと私自身も納得してるのに、気分が悪い。


 足元の蝶が、弱々し気に動く。

 まだ、餌を求めるの?


 私は、ひしゃげた蝶を踏み潰した。

 お前なんて、必要ない。

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