空色金魚
少しここでお休みなさい。
大丈夫。あなたはきっと分かり合える。
あれはただの、幼い嫉妬。
形の違いはとても些細な事。
誰もが始まりは皆、空色の金魚なのだから。
* * *
学校から帰ってきてすぐ、私は鞄も下ろさずに店の方に行く。
良かった。今はお客さんがいない。
「お父さん、この金魚鉢を少し借りるね」
私はそう言って、お父さんの返事を待たずに表面にわずかな傷がある金魚鉢に手の中の魚を入れた。
「おや? 珍しいものを拾ったんだね」
売り物を勝手に使う事を怒らず、お父さんは金魚鉢の魚を見て言った。説明しなくてもちゃんと緊急時だと理解してくれているのが嬉しい。
「うん。学校の帰りで見つけたの」
「そう。怪我とかはないようだから、すぐに元気になるよ」
お父さんが断言して、私の頭を撫でてくれた。
その言葉に安心して、私は少し迷ったけど自分の部屋に鞄を置きに行った。
水が入っていないのに水草が揺らめいているだけで異様なのに、その中で空色の金魚が泳いでいることに気付かれたら色々とややこしいことになると思ったけど、まぁ、十中八九、金魚どころか水草さえも見えない人が大半だから、大丈夫でしょう。
お父さんが店にいるなら、間違えて売ることもないし。
鞄を部屋に置いて店の方に戻ると、お父さんがケータイで電話をしてて、その電話が終わると私に謝りながら留守番と店番を頼んだ。
「うん。わかった」
別に珍しいことじゃないので、私もレジのお釣り銭の確認をしながら了承。
「すぐに帰るよ」とお父さんが出て行ってから、「それ」がやってきたのは5分もしなかった。
「すみません」
はたきで棚の商品の埃を払っていたら、男の人の声が聞こえた。
店のドアの前に人が立っているのはわかる。だけど、曇りガラスなので人が立っていること以外、その人が男か女かもわからない。
本当に人かどうかも、わからない。
「すみません。ちょっと荷物が多いので、扉を開けられらないので、開けてもらえますか?」
扉の向こうの人影が、私に頼む。
私は、はたきを持ったまま扉の前に立って、あまりのお粗末さに呆れながら答えた。
「どこに荷物があるの? どう見ても、手ぶらだけど?」
曇りガラス越しでも、それくらいはわかるよ。
扉の向こうの誰かさんは、「ちっ!」と舌打ちしてそのまま消える。
比喩じゃなくて言葉通り、曇りガラスの人影は掻き消えた。
……ただ、消える直前に鈴の音が一回、リンと響いた。
「……ふむ」
私は顎に手をやって考える。
お父さんが出かけてすぐにやってきたってことは、狙いは私かそれとも、あの金魚かな?
まぁ、どちらでも私がすることは同じこと。
私は気にせず、店の掃除を続けることにした。
埃は払い終えてから、私は金魚鉢を手に取る。
私の片手に乗るくらい小さな金魚鉢だけど、中の金魚もまだとても小さいから、悠々と泳いでる。
良かった。元気になってきてる。
金魚の様子に安心して、私はレジ横に金魚鉢を置く。
さっき来たあれの狙いがこちらなら、一応、私の目の届きやすいところにあった方がいいでしょう。
金魚鉢をレジ横に置いて、私はアンティーク人形のコーナーに向かおうとしたタイミングで、「羽柴!」と男の子の声がした。
扉の向こうに、誰かがいる。曇りガラスに映る人影は、身長からして、私と同い年くらいの子供。
何かを胸に抱えているような人影に、私は尋ね返す。
「草葉さん?」
「うん。ごめんいきなりだけど、ちょっと助けて。そこで怪我した猫を見つけて捕まえたんだけど、捕まえてないと暴れて、怪我の手当てができないんだよ」
彼の言葉の直後、猫の威嚇する声が聞こえた。
「それは、大変ですね」
そう言いつつ、私は扉に近寄りもしなかった。
黒髪のアンティーク人形を選んで手に取りながら、ドアの方を見もせずに答える。
「ところで、草葉さんって誰ですか? 私の知り合いにそういう名前の人はいませんよ」
さっきよりはずっと考えたけど、まだまだ甘い。初めから他人を装うべきよ。
10秒ほど沈黙が続き、扉を一階乱暴に蹴ってまた曇りガラス越しの人影は掻き消えた。
先ほどと同じように、鈴を一度鳴らして。
うん。今のは確かに私が意地悪だった。
でも、今ので何となく狙いはどちらか、そしてあの人影の正体も見当がついた。
私は人形を抱きかかえて、金魚に話しかける。
「あなたも大変ね」
金魚は返事をするように、一度跳ねた。
金魚の元気な様子に安心しながら私は、レジ横に置いてある割れ物の包装に使う新聞紙を一枚、引っ張り出した。
また少しして、誰かが来た。
「開けろ」
今度は直球。姿も、もはや人の形を保っていない。
「ここを開けろ」
言いながら、ドアがガタガタと揺れる。
曇りガラス越しの姿は、大人程はある獣の形。
「開けろ」
獣は唸り声を上げながら、要求する。
「開けろ」
何か切羽詰まっている様子で、イラついた様子を隠さずに、ひたすら要求を繰り返す。
「開けろ開けろ開けろ開けろ!!」
ガリガリと扉や壁をひっかく音、地震が起こったように揺れる扉。
それらに混じって聞こえていたのは、鈴の音。
「開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けぎゃああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
要求が唐突に、絶叫に変わった。
巨大すぎる獣の影は掻き消えて、代わりに大人の人影、ごく普通に人間の形がドアを叩く。
「れんげ!? 無事か!?」
「お父さん」
まずは私がそう言ってから、ドアを開けさせた。
曇りガラス越しには、お父さんが立っていて、ホッとしたように息を吐いた。
「れんげ。良かった、何もなかったんだな。
ビックリしたよ。帰って来たら、あんなのが店の前にいるから。見た目と違って、強くなかったのが幸いだけど」
言いながら、店の中に足を踏み入れる。
その瞬間、鈴が鳴った。
お父さんの姿をした「それ」から、鈴の音が聞こえた。
その音と同時に、パンッ! と音を後ろから鳴らしてみた。
さっき新聞紙で作った紙鉄砲はいい出来で、風船を破裂させたような音が店に響く。
店の中に入ることに成功して油断した瞬間に死角からこの音は、「それ」にとってまさに猫騙し。
垂直に飛び上がったと同時に正体を現した「それ」の首根っこを、扉の陰に隠れていた私が掴んで捕獲。
「悪知恵はすごく働くのね」
私がそう言うと、「それ」は「お前が言うな」と言わんばかりに私を睨み付ける。
その視線を無視して、地面に転がる人形を拾った。
ごめんね。身代わりにして。
* * *
人形をとりあえずレジに置いて、私は首根っこを掴んだまま「それ」と一緒に店の外に出た。
「スズ!」
出てすぐにそんな声が聞こえて、そちらの方に顔を向けると、30代くらいの女の人が私の方に駆け寄ってきた。
私の元にたどり着いたタイミングで、尋ねる。
「あなたの飼い猫ですか?」
首根っこを掴んだ、ふてぶてしい黒猫を差し出して。
「そうです! 今朝から逃げ出してずっと探してたんです!」
今にも安堵もあまり泣き出しそうになりながら、その人は私から猫を受け取った。
猫はおとなしくその人の腕の中に納まるけど、まだ私に対して怒っているのかしつこくにらみ続ける。
飼い主はもちろん飼い猫のそんな様子に気付かず、私に深く頭を下げた。
「あなたが見つけてくれたのね! ありがとうございます!」
「いえ、見つけたというか店の中に入ってきたから追い出そうとしてただけです」
正直に私が答えて初めてそこが店の前だという事に気が付いて、飼い主の顔色が変わる。
「す、すみません! あの、もしかしてこの子、何か商品壊しちゃいました? それなら弁償します!」
チラッとうちの店が扱っているものを見て、顔をさらに青くさせたけど即答で責任を取ると言った。
律儀な人。
私は少し考えてから、ちょっとだけその人に待つように言ってから店に戻って持ってきた。
私の手のひらに乗るくらい小さな、硝子の金魚鉢。
小さな空色の金魚が泳ぐその鉢を、飼い主に差し出す。
この表面の傷は元からなんだけど、言い訳にはちょうどいい。
「これ、元々処分する予定だったので、お代はかまわないのでもらってくれませんか?」
お父さんが「こういう」ものを渡すときの常套句を口にして、差し出すと飼い主さんは目を丸くさせる。
「え!? そんな! うちのスズが迷惑をかけたのですから、ちゃんと出します!」
本当に律儀な人。
こういう人は嫌いじゃない、むしろ好きな部類だけど、こういう状況だと逆に困る。私が嘘をついてる立場だし。
「それじゃあ、500円で」
たぶんこのままただで押し付けたら、他の商品を無理して買いそうなので、テキトーな金額を口にした。
アンティークが好きでも興味もないのに、罪悪感だけで買われても私もお父さんも嬉しくない。
私の提示した金額に、まだ申し訳なさそうだったけど、猫が腕の中で暴れてまた逃げ出しそうだったのでとりあえず早く連れて帰りたいのか、飼い主はお金を払って金魚鉢を受け取った。
「けど、本当にいいんですか? 確かに傷がついちゃってるけど、すごく綺麗で可愛いグラスなのに」
「それ、金魚鉢です」
お客さんが何か勘違いしてたので、訂正しておく。
確かにサイズが小さいから普通の金魚はまず飼えないけど、それで何かを飲まないで。特に今は。
私の返答に飼い主は顔を赤くして、また謝った。
色々と律儀すぎる人に少し辟易しつつ、私は言う。
「それ、本物の金魚を飼うには小さすぎて無理ですけど、持っているといいことがあるそうですよ」
これも本当とは言えないけど、嘘でもない。喜ばない人が最近は多いように思えて嫌だけど、普通はとてもうれしいことのはずだから、きっと嘘にはならない。
飼い主さんの「え!? そんなものを500円で処分しちゃうの!?」という顔を無視して、店に戻ろうとしたけれど、私は一応尋ねておこうかと思い直して訊いてみた。
「とても大事にしているんですね、その猫を」
私の言葉に飼い主は一瞬きょとんとしてから、とても嬉しそうに、誇らしげに答える。
「えぇ。この子は私たちにとって、息子なんです」
その言葉に、私もようやく安心できた。
「そうですか。
……こう言ってもらえてるんだから、いいお兄ちゃんになりなさい」
そう言って、私は鈴の首輪が付いた猫の鼻を一回ピンッと弾いた。
飼い主は私の言葉の意味が分からず不思議そうな顔をして、猫の方は気まずそうな顔をしてた。
そのどちらも無視して、私は店に戻る。
飼い主はしばらく店の外で困惑していたけど、猫を抱いたまま部屋に入るわけにはいかなかないと思ったのか、ドアを少し開けて顔だけ出して「本当にご迷惑かけましたー」と言って、帰っていった。
私は店の中の椅子に座って、目を伏せる。
瞼の裏に、あの空色の金魚が優雅に泳いでいたこと姿を思い出す。
そして想像する。
あの猫に食われかけた傷を癒し、金魚鉢から飛び出して、空中もあの鉢の中と同じように悠々泳ぎながら、自分が住む本来の水の中に辿り着くことを。
……あの様子なら、あの答えを聞いたのなら、もうあの猫は金魚を狙わないはず。
「……朝からずっと探してくれて、あなたの不始末にちゃんと責任を取ろうとしてくれた人なんだから、捨てられるわけないでしょ?
形が違っても、種が違っても、生まれた胎が違っても、間違いなくあなたたちは『兄弟』よ」
空から降りて来たばかりの命の始まりが、無事、羊水の中で泳げることに安心しながら、私は猫の兄に言った。
聞こえてはないだろうけど、伝わってるといいのにな。