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 風は穏やか。天気も良好。漆黒の毛並が美しいその体に跨って、(たちばな)風馬(ふうま)は前方に広がる青空を見据えた。

 レース場はこんなにも大きかったのかと、風馬は広大な景色に改めて驚く。見渡す限りの青い芝。頂点をとっくに通り過ぎた太陽が、ゲート手前でゆるりと旋回する馬たちを照らしつける。緩やかな風に乗って運ばれる青臭い緑の匂い、土の匂い。

 感慨にふけっていると、後ろに続くジョッキーが催促するように咳払いした。風馬はぎょっとして、一気に焦点を目の前に絞る。前をゆく馬と随分距離が開いてしまっている。


「まさか、ゲイル――」

 嫌な予感しかしない。

「誰が緊張なんてするかよ!」

 前方でブルルン、と勢いよく鼻の鳴る音がした。

「……だよね。緊張してるのは僕です」

「しっかりしやがれよ、ひょろひょろフーマ」

「了解、ゲイル様」


 風馬は墨のようにどこまでも真っ黒なたてがみを撫でた。

 ゲイル――レイヴンゲイルと風馬の初めてのレースが、ここ東京競馬場で間もなく始まろうとしていた。




 橘風馬はその名の通り、風のようにゆるやかな、よく言えば田舎育ちの純粋な少年だった。名前の由来は至極明快。母親の風子と父親の和馬、それぞれから一文字ずつ取った。人生の始まりから平凡なのである。

 そんな風だから、風馬は公立の高校を卒業し、平凡な大学を出て、何事もなく地元の市役所勤めの公務員になるだろう。誰しもがそう思っていた。

 だから風馬が就職先に厩舎(きゅうしゃ)(馬の世話や調教を行う場所)を選んだことは、身内の間でもちょっとした話題になった。しかしそれもつかの間の話で、周りはやがて口々にこう囁いた。「名前の通り、まるでそうなるために生まれてきたみたいね」と。


 風馬は厩舎に入るとすぐに、めきめきと才能を開花させていった……などとドラマのようにはいかないのが人生だ。彼はそれなりの、つまり社会人として平均的な生活を送っていた。一般のサラリーマンと違う点と言えば、起きる時間が三時間ほど早いこと、それから服装がグレーのツナギであることぐらいではないだろうか。


 そんな平凡な毎日が何年も続いていた。

 だからこそ、風馬にとってレイブンゲイルとの出会いは衝撃以外の何物でもなかった。

 真夜中を真昼間に変えてしまうほどの超新星爆発。目も眩むほどの光が瞼の裏に焼き付くように、あの日の出来事は風馬の脳裏にずっとずっとへばりついているのだった。


 *


 静けさの海に眠る馬小屋を、風馬は穏やかな眼差しで見つめていた。早朝と呼ぶには早すぎる午前三時半。人はおろか馬たちも睡眠を貪っている時間帯だ。

 微かに聞こえる虫の鳴き声をぼんやりと耳にしながら、風馬は湿った牧草をゆっくりと踏みしめ、息を潜めて馬小屋へと忍び込んだ。


 日の射さない暗闇で見る小屋は、まるで廃墟のようだった。風が吹けば全てバラバラになってしまうんじゃないかと思った。それと同時に、子供のころから大切にしてきたような、手垢だらけのおもちゃ箱のようだとも、風馬は思う。

 ここにはすべてが詰まっていた。働くことの大変さ。社会の広さ。同僚との他愛もない会話。それなりの毎日。笑うこと。泣くこと。馬との出会い。愛情。情熱。そして別れ。

 風馬の半生とも呼べる数々の出来事や感情が、たくさんたくさん詰まっていた。


 だけどそれも、今日でおしまいだ。


 風馬は空っぽの馬房(ばぼう)の前に立った。すぐ傍の柱に備えつけられたネームプレート。これは彼女の永久欠番だ。漂う闇が濃くて夜目が利かず、プレートに書かれた文字までは読むことができない。けれど風馬はそれを愛おしそうに指先で撫でながら、確かな声で呟いた。


「――プリンシパル」


 今目を閉じて、再び開けたら。そうしたらもしかしたら世界は変わっているかもしれない。

 いつだかの休憩時間に、同じ厩舎で働く佐藤先輩が話していたことを思い出す。これは夢だ、と自覚している夢――そういった類の夢を明晰夢と呼ぶのだと。別段興味がそそられる話題でもなかった風馬は、話半分にしか聞いていなかった。明晰夢から覚めるにはどうすれば良いのだろう。解決策だけでも聞いておけば良かったと、今になって思う。

 ぐだぐだと無意味なことを考えながら、風馬はそこで数十分は立ちつくしていた。いや、実際はもっと短い時間だったのかもしれない。多大なる決意を胸に、こうして朝早くから厩舎に赴いたというのに、風馬の心は小さな雨粒が落ちた水面のように頼りなく揺れていた。


 馬が好きだ。

 これが最後なんて嫌だ。

 本当はずっと、この厩舎で馬と共に暮らしたい。

 それ以外に望むものなんてもう何もないのに。


 気がつけば力の籠ってしまった右手の中で、白い封筒がくしゃくしゃになっていた。風馬は慌てて手を開き、皺を伸ばす。長四封筒の真ん中には頼りない筆圧で「退職届」と書かれていた。

 この封筒を事務所の一番奥にある上司の机に置いてくる。今日の仕事はそれだけだ。毎日の体力仕事に比べるとなんて楽な仕事なんだろう。馬小屋を突っ切って数メートル、ポストの裏に隠されたスペアキーで鍵を開けて事務所に入る。簡単なことだ。今日の早番は――確か、佐藤先輩だ。彼が出勤する前にさっさと動くんだ。風馬は己を鼓舞した。動け、足。動け、体。


 その時だった。ふいに、ぐんと右手が何かに引っ張られた。


「う、わ!」


 思わず首をよじって右手の先に視線を向けた。暗闇の中にうごめく、得体の知れない二つの光――と、引きちぎれんばかりに引っ張られた退職届の封筒。あ、と思った時にはもう、封筒はビリビリッと音を立てて上半分が真っ二つだった。突如消える張力。支えを失くした風馬の体はバランスを崩して右肩から盛大に落ちていった。


「――ってて」


 倒れ方がまずかったのか、右肩から出張った骨がひどく傷む。打ち付けた部分を左手で庇いながら、風馬はすぐさま態勢を起こして暗闇に目を凝らした。何かいる。いや、何かじゃない。あれは――


「なんだよ、俺の大好きな白人参じゃないのかよ!」


 憤慨した声が、口から涎まみれのちぎれた封筒をべっと吐き出した。


――なんだこれは?


「だいたいここのメシは食えたもんじゃねぇよ。口の中パッサパサ」


 風馬はついに自分の頭がおかしくなってしまったのだと絶望した。今喋ったのは誰だ。成人した男性のような、声変わりの終えた低い声。ここは馬房で、こんな時間には従業員など誰一人出勤しないはずで、だとしたら――どういうことだ?


「あとな、大好物だと言ったが実は生まれてこのかた白人参なんて食べたこと無いぜ」


 そもそもこの世にあるのかすら分からないがな、などと独り言を喋り倒していた()()は、やがて混乱する風馬に気がつくと興味深げにじろじろ視線を突き刺して、おしまいに驚いたような声でぽつりと呟いた。


「お前……俺の声が聞こえるのか?」


 ありえない。ありえないありえない。亞利得無易。風馬は念仏のように心の中で何度も同じ単語を唱えた。だんだんと目が暗闇に慣れてくる。ぼんやりとした馬房の中に一頭のサラブレッドがいた。闇夜に溶ける真っ黒な毛並。光る両眼。ぱさぱさと空を擦る尻尾。風馬の中の疑念が確信に変わる。


 馬だ。

 馬が喋っている。


 驚きに腰の力が抜ける。へなへなとその場に座り込んだ風馬は、その馬の問いかけに力なく頷いたのだった。

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