第四話 野良狗の牙(前)
二日に及ぶ調査の結果、善吉の妻は既に藩屋敷から移された後であることが判明した。
移送先は渋谷広尾の破れ寺だ。
室町以前から続く古刹であったが、戦国乱世の余波を受け、今は見る影もないほどに落ちぶれているようであった。
隠れ蓑役を引き受けたのも、寺院の再興費用を稼ぐためだ。
地獄の沙汰も金次第というように、天下泰平の世にあっても、金の力は神仏すらも良いように従えてしまうらしい。
残酷なものだと、甲斐は思った。
ホウホウとフクロウが鳴き、町屋と町屋を隔てる木戸が閉じられる亥の刻頃。
甲斐を含む四つの影が、無法図にひしめく江戸の屋根という屋根を音もなく駆け抜ける。
鍔帰の仕事人たちであった。
その身に纏う脚絆や帷子で絞られた赤い戦装束は、隅々まで音の鳴らない工夫が施されている。
各の顔には双牙の狗面。
甲斐は片牙の折れたものをつけていた。
カンカン、と。
甲斐の足下を火の用心を告げる拍子木の音が通り過ぎていった。
花街のあちらこちらからは、酒の入った乱痴気騒ぎの喧噪が聞こえてくる。
日本橋を抜けて、旗本屋敷地を抜けて、赤坂の大名屋敷地へたどり着いたあたりで、併走する余市から声をかけられた。
「それじゃ、私はここで」
図書から命じられた別件の任務があるらしい。
「気をつけろよ」
そう声をかけると、きびすを返した余市がこちらをくるりと振り返った。
余市も甲斐とは色違いの狗面を着けているため、その表情はようと知れない。
だが、声色はあからさまだった。
「良いね、百人力だよ」
弾んだ声を残して、余市は颯爽とした足取りで黒田家の上屋敷へと向かっていった。
背中が妙にむずがゆい。
甲斐はくしゃくしゃと髪をかきむしり、照れ隠しに舌打ちをした。
渋谷は江戸の西郊に広がるススキ野である。
開発の手が入ったのは、甲斐たちの住まう江戸の東郊と同様にごくごく最近のことで、未だ手つかずの原野が辺り一面に広がっていた。
さあっとススキやチガヤの生い茂る原野を駆け抜けて、沢の水に濡れた落ち葉を蹴り飛ばす。
目的の古寺は、小高い台地のふもとに建っていた。
「……坊、しばし待て」
山門の手前で、大柄の男が衣擦れのような小声で甲斐に制止を促した。
辺りの様子を窺うも、見張りの類は見あたらない。
「……奇妙なほどに不用心だな。イリの手はずは坊に任せた。長兵衛。おまえは件のお方の案内と護衛に戻れ」
「承知」
一つの影が闇夜に溶けていく。
手早く指示を飛ばしているのは、剣作と言った。
表向きは江戸行きの水路で船頭をしている、喜右衛門の信頼厚い年長の仕事人だ。
熊のような大柄だが、その気の利かせようはやけに細かい。
「あいよ」
剣作の指示に甲斐は小さく頷くと、傍らの築地塀を勢いよく飛び越えた。
着地の音は欠片もしない。
音のしないよう足下に注意もしたのだが、どうやら要らぬ気遣いであったようだ。
甲斐の踏みしめる庭の端は、苔で厚く覆われていた。
「お誂え向きのボロ寺だな」
皮肉げに口元を緩める。
講堂まで続く石庭をぐるりと見回すが、見回りの者はいなかった。
成る程、これは確かに奇妙である。
この寺に筑前黒田藩の連中が立てこもっていることは、確かな情報として入手しているのだ。
であるというのに、巡回の一つもないというのはどうにもおかしい。
単なる油断と捉えるべきか、それとも深入りを誘う罠と捉えるべきか――
狗面の緒を締め直すと、甲斐は地面を滑るようにして山門の裏側に回り込んだ。
門の脇には勝手用の潜り戸が据え付けられていた。
甲斐は腰の道具袋から油差しを取り出し、蝶番に一差しする。
慎重にかんぬきを取り外すと、潜り戸は音もなく開いた。
「良くやった。わしは退き口の確保に回る。坊はこのまま奥方の捜索に回れ」
「金ぴかの母ちゃんを見つけたら?」
「事が起きるまでは手出し無用だ」
「……じっとしているのは、性に合わねえんだけどな」
「悪い癖だ。辛抱せい」
ゴツンと硬い拳で小突かれた。
おしめが取れた頃からの付き合いは、気安さ以上にこうした子ども扱いにあらわれている。
甲斐はちぇっと舌打ちをしつつも、手近な庭木に飛びついた。
枝の上から境内を見回す。
「三方に灯りが見える。講堂の裏手に一つ。脇の六角堂に一つ。奥の僧坊に一つ、だな」
「……人を見張るには灯りが要る。先行しての物見を頼んだぞ」
「あいよ」
ふわりと枝から飛び降りて、甲斐はひとまず六角堂に向かった。
六角堂の手前には献灯らしき蝋燭の灯がゆらめいている。
辺りに人はいなかった。
「……ここは外れかね」
気を取り直して、講堂の裏手へ回り込む。
砂利を踏まないよう忍び歩きで石畳を駆けていると、人の話し声が聞こえてきた。
声の動きから察するに、移動はしていない。見張りの者であろうか。
ならばと、講堂の軒下へと潜り込んで様子を窺う。
裏手には羽織姿にはちまきを締めた男が二人待機していた。
一人は回廊に腰掛けており、もう一人は裏庭の木に向かって佇んでいる。
どうやら、立ち小便をしているらしい。
その両方ともが、腰に二本差しを納めている。
罰当たりをものともしていない小便侍が、腰掛けた一人に声をかけた。
「しかし、あの堅物に似合わぬ器量良しよなあ」
茶化すような声色に、腰掛けた一人が微苦笑する。
「好色な。ありゃあ、所詮混じり物じゃぞ。日ノ本の血より、南蛮が混じった方がふくよかに育つとは聞くが、獣の如き臭いがするともいう」
「なあに、鼻をつまんで致せば良いではないか」
「馬鹿、阿呆」
善吉の妻について話しているのだと、すぐに分かった。
ぺらぺらと、よくもまあ口が回るものだと感心する。
侍たちは、与えられた役割よりも下卑た雑談に没頭しているようであった。
甲斐は顔をしかめながらも、彼らの濁った笑い声に耳を傾け続ける。
こういった輩は、口が軽い。
思わぬ情報をこぼしてくれる可能性があるため、耳が腐っていくような不快感を辛抱する価値が十分にあるのだ。
「ああ、暇じゃなあ……大体詰め所に見張りなんぞいらんだろうに。まだ交代の時間にはならんのかのう」
「先だって代わったばかりであろうが。まだ一刻は先になろう」
そう言う彼らの顔には赤みが差していた。
ひょっとすると、待機時間中に酒でも口にしていたのかもしれない。
しかし、今の会話から察するに、どうやら講堂内は侍の詰め所になっているようだ。
背中の方に意識を傾けてみると、確かに他愛もない会話が建物内のそこかしこから聞こえてくる。
その数、二十は下らないだろう。
その中に女性の気配は感じ取れなかった。
「……ほんに寒いのう。小便も近くなるというものじゃ」
「今さっき引っかけたのは、ただの水であったのか?」
しばし会話に耳を傾けてみたものの、肝心の居場所については全く話題に上らなかった。
あまり時をかけてもいられない。
そろそろ見切りをつけるかと動こうとした瞬間、核心に近い情報が彼らの口から漏れて出た。
「そういえば、寺の坊主どもは何処に行ったのだ?」
「宿場へ行ったのであろう。はした金を握らせたゆえな」
「何とまあ……生臭にも程があるわい」
「ほんになあ」
坊主がいない。
……ということは、僧坊の灯りは侍一党のものになる。
ならば、目的の女性はそちらに囚われている可能性が高い。
甲斐は講堂に見切りをつけると、これ以上の盗み聞きをやめた。
軒下からするりと抜けだして、回廊に腰掛けた侍に音もなく組み付く。
「んあ?」
体重をかけて首を捻った。
こきり、と。
骨の折れる鈍い感触がして、腰掛け侍は驚愕に目を見開いたまま、語る口を永遠に失った。
「――へ?」
酔いに呑まれた小便侍の反応は鈍い。
事態を理解するまでに生じた一瞬の隙。
それは敵の命を刈り取るには十分過ぎるものであった。
甲斐は小便侍との間合いを瞬時にして詰めるや否や、その顎を膝で思い切り打ち上げる。
びちゃりと、口元から飛び散った赤い破片が庭木に叩きつけられた。
先ほどまで良く回っていた侍の舌だ。
小便侍は噛みちぎった舌を求めるように大口を開けながら、白目を剥いて崩れ落ちた。
「来世じゃ、職務に励めよな」
死体を乱雑に軒下へ蹴り込み、近くの生け垣を飛び越える。
申し訳程度の細道を、甲斐は忍び足で道なりに進んだ。
程なくして目的の場所にたどり着く。
僧坊は、台地のふもとの奥まった場所に押し込まれるようにして建っていた。
ぐるりと建物を囲む木塀の外側を、さらにコの字型の斜面が囲っている。
正門の手前にはかがり火が備えられており、二人の物見がついていた。
息を潜めて、様子を窺う。
ひょろながい若侍に、ずんぐりとした壮年の侍の二人組。
両者共に、槍を片手に持っている。
壮年は周囲に気を配っていたが、ひょろながの方はあからさまに気が緩んでいた。
槍を杖にするようにして、体重を預けてしまっている。
迂闊な態度だ。失笑を誘う。
甲斐はいつでも飛び出せるよう、その身を前傾に屈めた。
壮年の方さえ何とかしてしまえば、周囲に気づかれないよう二人を始末することもできるだろう。
先ほどと何も変わらない。
「全く、木っ端侍一人を相手取るにはやりすぎだと思うがのう」
「おい、無駄口叩くな」
甲斐がことを起こそうとする寸前で、欠伸をこらえるひょろながを壮年の侍が叱りつけた。
「栗山をあなどるでない。九国でも五本の指に入る剣の使い手ぞ」
「……存じておりますわい。わしゃあ、同じ道場だったんじゃ」
うるさそうに顔を歪めるひょろなが。
「文武両道。品行方正。まさに乱世の功臣・栗山大膳様の生き写し。古参のお歴々は皆、栗山を見習え、栗山を見習え……もう、耳にタコができ申した」
不機嫌の要因は、壮年の口うるささに対する悪感情だけではなさそうだ。
彼の口上には、嫉妬の色が見え隠れしていた。
「だったら、油断なぞせずに――」
「……じゃが、放逐され申した」
へらっとひょろながは嘲るような笑みを浮かべる。
「クソ真面目に生きて、挙げ句の果てがお尋ね者じゃあ。今や何のよすがも持たぬ浪人風情が、藩を相手に勝てるとは思えませんわ」
壮年の方は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
もしかすると、善吉と近しい間柄だったのかもしれない。
甲斐は逡巡した。
後続の憂いをなくすという意味では、彼らはここで仕留めておいた方がいい。
仕留めた方が良いのだが……甲斐は二人を見逃すことにした。
本人の縁があるのならば、本人が始末をつけるべき――そう思ったのだ。
甲斐は僧坊横手の斜面を駆け上がり、空を見上げながら面をずりあげ、口元に手を当てた。
すう、と大きく息を吸いこみ、
ホウホウ。ホウホウ。
と、フクロウの鳴き声を真似た音を発する。
ホウホウ。ホウホウ。ホウホウ。
山門の方向から、同様の鳴き声が返ってきた。
「侍のオッサンも無事にこちらへ向かっているみたいだな」
事前の打ち合わせで、甲斐たちは古寺への突入部隊を先遣隊と本隊の二つに分けるよう取り決めた。
三度の鳴き真似は後続の無事を知らせる合図だ。
ここまでは順調といえる。
甲斐は狗面をかぶり直し、斜面から僧坊を見下ろした。
木塀の内側には、方形の母屋が一つ。離れが一つ。離れは恐らく、かわやだろう。
甲斐は斜面から母屋までの距離を目測した。
かわやを足がかりにすれば、母屋に飛び移ることができそうだ。
甲斐は勢いよく斜面を蹴って、その身を宙に躍らせた。
「……よっ、と」
まずは難なく、かわやの天井に着地。
さらに、もう一蹴りして母屋へと飛び移る。
母屋の屋根は、瓦が剥げていることもあって柔らかかった。
危うく足が取られかけて、身体が一瞬ぐらついてしまう。
幸いなことに物音はしなかった。
ほっと安堵の息を吐き、辺りの様子をそっと窺う。
庭木の影に待機している者が七人。
母屋の勝手戸を守っている者が一人。
裏手の縁側は、守りやすいよう雨戸を固く閉ざしている。
「……成る程な」
侍たちの布陣を見て、甲斐は小さく声を漏らした。
この布陣は、招き入れた客を絶対に逃さない構えだ。
恐らくは捕らえた妻を生き餌として、善吉という大魚を釣り上げる腹積もりなのだろう。
そこまで推理して、甲斐は妙な引っかかりを覚えた。
彼らの備えが、まるで今宵の討ち入りを予期しているかのように思えたからだ。
「……こちらの動きが読まれてやがるのか?」
鍔帰の仕事人に、たやすく足取りを掴まれるようなヘマをやらかす素人はいない。
影の臭いが、鼻をついた。
「てぇことは、今も……」
甲斐は神経を研ぎすませて、辺りの気配を丹念に探っていった。
異常は特に感じられない。
いや――獣の跳梁する山林原野の夜にしては、いささか静かすぎるような気がする。
冷たい夜風が、斜面の木々をざわりと揺らした。
甲斐は狗面の内で目を細める。
ざわめく枝葉の中に、二、三の違和を感じたのだ。
――確実に何者かが潜んでいる。
生来の感がそう告げていた。
「……猿どもがいやがるのか」
甲斐は音も立てずに、静かに笑う。
会いたくてたまらなかった相手と再び見えることができるのだ。
喜ばない道理はなかった。
◇
明かり取りの小窓より天井裏へと侵入した甲斐は、締め切った一室に女性が押し込められているのを確認した。
天井の隙間から、じっと室内を覗き見る。
成る程、確かに金ぴかの母親であると納得した。
腰まで伸びた豊かな金髪を一つにまとめ、しとやかな着物で豊満な肢体を隠している。
顔の作りは、まさに金ぴかの将来像だ。
恐らくは十年もすればこうなるのだろうと容易に想像がついた。
じっと目を閉じて、何かをこらえているように口元をきゅっと結んでいる。
「母ちゃんねえ……」
甲斐の脳裏に、亡くなった母の姿が不意に浮かんだ。
眼下に囚われている金ぴかの親玉と比べると、甲斐の母はひどく痩せていたと記憶している。
決して美人ではないが、目元に力のある凛とした女性だった。
やんちゃをした甲斐を叱りつけていた時の顔ばかりが思い起こされる。
甲斐は下唇を強く噛んだ。
「ご加減如何かな。沙羅殿」
明後日の方向へと逸れかけた甲斐の思考を引き戻したのは、部屋の戸口より上がった怖気をもよおす濁み声であった。
がらりと木戸が開かれる。
部屋に入ってきたのは、でっぷりとした体格の大男であった。
恐らくは家老格の人間なのだろう。
大紋の入った上等な着物を身に纏っているが、全くと言っていい程似合っていない。
細く濁った眼も相まって、まるでヒキガエルが服でも着込んでいるかのようだ。
「十太夫様……」
沙羅と呼ばれた金ぴかの母親は、居住まいを正してヒキガエルと相対する。
囚われの身だというのに、瞳の力は失っていない。
「お陰様で、ご覧の通りにございます」
怒りを静かにたたえた声色で返す。
「逃げた者共の居場所は」
「知りませぬ」
「栗山からどこまで聞いたのか」
「何も」
にべもない沙羅の反応に十太夫は面白そうに腹を揺らした。
「全く気の強い女だの。夜を徹して散々ばら痛めつけられたというに」
「女は痛みに慣れておりまするゆえ」
十太夫が目を細める。
彼の視線につられるようにして見てみると、沙羅の着物から覗く身体のあちらこちらに痣が浮き出ていることに気がついた。
拷問を受けた身であることは明らかだ。
責め苦を受けて尚、気丈に振る舞っている沙羅に対し、十太夫は好色なまなざしを向けていた。
「今宵も楽しみたいところなのだがな、残念なことにそなたの夫が、この地に討ち入ってくるらしい。我々はそれを迎え討たねばならぬ」
「……有り得ません」
沙羅が十太夫を睨みつける。
「夫には、娘と共に安全な地へ逃げ延びるようお頼みも申し上げました。あれは約束を守る男です」
「だが、現に向かってきておる。流石に娘は連れてきておらぬようだがの」
沙羅の瞳が困惑に揺れた。
脆くなった心の隙間をつくようにして、十太夫は言葉を続ける。
「恐らくは娘をどこぞに預けた上で、そなたも救い出そうという腹積もりなのだろう。全く愚かな男じゃ。自ら釣り餌に食いつこうなどとはの」
頭から馬鹿にしたような物言いに、沙羅は反論することもできず、俯いたまま静かに震えていた。
実際、十太夫は間違ったことを言っていない。
本来、個人が藩と争うなど、およそあり得ないことなのだ。
夫に協力者がいると知らない身の上では、十太夫の言葉を受け入れるしかない。
「夫は……」
沙羅が面を上げた。
夫の処遇を案じるまなざしを好機と見たのか、
「――奴を助けたいか?」
十太夫はぞっとするような笑顔で畳みかけた。
獲物を前にしたカエルのように、大きな口の端から赤黒い舌が覗いている。
「夫を助けたいなら、分かるな?」
じりじりと巨体を揺らしてにじり寄る。
彼が何をしようとしているかは、火を見るより明らかであった。
「いやっ!」
「騒ぐでない。おとなしゅうしておれ」
十太夫が沙羅を力づくで押さえ込む。
その醜悪な巨体が沙羅の身体にのしかかったところで、甲斐は得物に手をかけた。
ことが起きるまで待機と言われたが、流石にこれ以上は見ていられなかったのだ。
甲斐が天井板を跳ね上げて、部屋へ飛び降りようとした瞬間、
「……何をしておる」
氷のような冷えきった声が、入り口より上がった。
十太夫の顔色が変わる。
部屋の入り口に立っていたのは、細面の青年であった。
狐色の羽織と袴をはためかせ、青年は大股で部屋へと押し入った。
「これはこれは、我が殿」
どうやら、この青年こそが筑前黒田藩を束ねる藩主であるようだ。
確か光之という名であったはずだと、甲斐は事前に得ていた情報を思い起こす。
「貴様には僧坊の上級武士どもを監督せよと命じておいたはずであったが」
「それに関しましては、部下の者に任せておりまするゆえ――」
あくまでも猫なで声で取り繕うとする十太夫の態度に、光之の機嫌が目に見えて悪くなっていった。
「下衆の所行は藩の名を汚す。はよう、持ち場に戻れ」
「はっ、しかし――」
「はよう、戻れと言っておる!」
「ひ、ひえっ」
かんしゃくを起こした光之から逃げるようにして、十太夫は飛び出していった。
どたばたと大きな足音をたてる後ろ姿を苛立たしげに見つめながら、光之を大きなため息をついた。
「お殿様……」
沙羅は光之に対して頭を深く垂れていた。
その様子を横目で見た光之は、ばつが悪そうに顔をゆがめる。
「そなたらにはむごいことをした。許せとは言わぬ」
「……その、夫がこの地へ向かっているというのは」
「まことじゃ。公儀隠密からもたらされし情報ゆえ、誤りはない」
その言葉を聞いて、沙羅は苦悶と嬉しさが入り交じったような表情を浮かべた。
「夫は、善吉はこれまで一所懸命に御家に仕えて参りました。御家に刃向かうつもりは毛ほどもございませぬ。何とぞ、御慈悲をお願い申しあげたく……何とぞっ」
「……やめよ」
床に額をすり付けながら、必死に懇願する沙羅の姿を見て、光之の顔はさらに苦みばしっていく。
「……そなたに言われずとも、あの者のことはわしが一番分かっておる。善吉は、わしにとっては兄弟子に当たるのだぞ」
「でしたら――」
「もう遅い」
なおも食い下がろうとする沙羅の言葉を、光之は無慈悲に切り捨てる。
「こたびの計画は幕府と十太夫一派を中心に回っておる。我が藩が父の代より幕政をとりまとめるご歴々に莫大な借財を重ねていることは存じておろう。ゆえに藩の財政を管理する十太夫と、幕府の意見を無視することはできん。それは、御家を潰すことになるからな。奴らが殺せと言っておる以上、最早それを覆すことは不可能じゃ」
光之は歯をぎりぎりと噛みしめ、握り拳を震わせていた。
幕府の影に、藩内部の権力構造。
そして、秘密裏に押し進められているという計画――
一連のやりとりの中に、複雑な背景が見え隠れしている。
とは言え、甲斐のやることに変わりはない。
隙を見て、善吉たちを救い出し、邪魔だてする者を殺す。
それだけだった。
「当藩がこうも追いつめられたのも、我が不徳の致すところ。わしは、それを呑み込んで生きていかねばならん」
ふっと、光之は遠くへ目を向けた。
何もかも全てを諦めた顔をしている。
「それは……」
沙羅が問いかけようとした瞬間、僧坊の外で警笛の音が高らかに響き渡った。
「敵襲! 敵襲だ! 複数いるぞッ。一人じゃなかったのか!?」
剣戟の音が近づいてくる。
慌てて外へ向かう侍たちの足音で、僧坊の天井がみしみしと揺れた。
「来たか」
光之の言葉に応えるようにして、断末魔の悲鳴がいくつも上がった。
「沙羅ッ、ここにいるのか!! 沙羅ーッ!」
善吉の声である。
「あ、貴方……」
何度も妻の名を呼び続ける声に、沙羅はたまらず涙を零した。
「私は、ここにおりまする――!」
声をはりあげようとする沙羅の喉元に、刀の切っ先が突き付けられる。
「と、殿様……」
沙羅の顔が凍りついた。
「騒ぐでない。立て。わしと共に、善吉の元へ向かうぞ」
冷たい殺気を纏わせながら、光之は善吉の声がする方を顎で指し示す。
「……兄弟子には、わし自らの手で引導を渡すべきであろう」
沙羅を強引に引き寄せて、光之は大股で外へと向かう。
その足取りには、隠しきれぬ怒りがにじみ出ていた。
※一 お坊さんが寝泊まりする場所。




