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野良狗のいくさ ~少年仕事人、江戸を疾る~  作者: 三郎
第一章 野良狗、悪臣の喉笛を切り裂く
3/5

第二話 野良犬の巣窟

 目の前で、いかにもな厄介ごとがこちらを睨んでいた。

「ちちうえには、指一本ふれさせぬぞっ」

 場所は道から外れた村の北端。

 まだ未開拓の野原の中にぽつんと立った松の木陰と、あしやガマの茂みとの間に隠れるようにして、男が崩れ落ちている。

 その前に立ちふさがるのは小柄な少女であった。


「へえ、まるで南蛮人形みたい」

 余市のそんな呟きが聞こえてくる。

 恐らく、背丈からして年の頃は甲斐よりも二つか三つは下だろうが、詳しいところまでは判然としない。

 何故なら、少女は一般的な日ノ本の民にはありえない、奇妙な容姿をしていたからだ。

 結い上げられた長い髪は、陽射しを浴びて黄金色に輝いている。

 そのまばゆい様は、まるで実りを迎えた稲穂のようだ。

 身に纏う花柄の小袖は紅花で鮮やかに染め上げられており、何処か浮き世だった印象だった印象を周りに与える。

 この娘は果たして生きた人間なのか。くぐつ師の操る人形なのではないか。

 そんな感想を抱くほど、目の前の少女は甲斐の知る現実からかけ離れた雰囲気を持っていた。


「ぶしつけな目で私を見るなっ!」

 疲労の窺える眼には、空よりも青く澄んだ瞳が収まっている。

 こちらを威嚇するようにして睨んできていたが、小柄なせいか全く迫力が感じられない。

 強い言葉を放ちつつも、黄金色の娘は退け腰であった。

 恐らく、小刻みに身体が震えているのも気のせいではないだろう。

「あちゃあ……見事に怯えちゃってるね。十中八九、甲斐のせいだ」

「俺のせいかよ」

 そう腐ってはみたものの、甲斐自身も自分が原因だとは暗に気づいていた。

 何せ、旅人も逃げ出す山賊面だ。

 図書の言いつけに従い、相手を警戒させぬようにと武器こそ持参しなかったものの、娘が追い剥ぎか何かだと勘違いして警戒したとしても、何らおかしくはないだろう。

 このまま凝視するのもアレだと考えつつ、甲斐は目をそらすようにして、娘の後ろに崩れ落ちている男を見た。


「……成る程、見たまんま侍だな」

 面白くなさそうに呟いた。

 ぶつ裂き羽織から覗く大小の二本差しを見れば、武士身分であることは明らかだ。

 身なりもそれなりに良い。長年の貧窮が祟った食い詰め浪人なら、袴なんぞとうに売り払っているはずだが、土まみれとは言えども一応穿いている。月代も剃りたてで、その生活の程が想像しやすい。

 一見したところではガタイの良い、ぬるま湯に浸かった若侍といった印象を受ける。

 着物のあちこちにある赤い染みと刀傷さえなければ、ただの酔いつぶれとでも判じただろう。

 血の臭いが色濃く残っている。

 男は、浅くない手傷を負っていた。


「呼吸はしてる。でも……放っておいたらちょっとまずいね。血は止まっているけど、あの傷は縫わなきゃ、また開くよ」

「ぽいな」

 甲斐はうんざりとした顔で頭を掻いた。

 死んでいたなら、それはそれで良かった。

 行き倒れなら村役人――この場合は甲斐の父親に「男が死んでた。塚作っとこう」と報告して終了だ。

 だが、生きているとなると面倒が生じる。

 明らかに追っ手のついている訳アリの人間ならば尚更だ。


「おい、お前」

 手負いの父を守ろうと必死なのだろう。黄金色の娘は今にもこちらに飛びかからんといった形相をしていた。

 甲斐は苛立たしげにため息をつく。

 図書の言いつけに従い、男を屋敷へ迎え入れるには、まずこの金ぴか娘を説得しなければならないのだ。

 見ない振りを決め込みたい。

 心の底から、そう思った。


「俺たちに害意はねえ。そのオッサンの手当をせにゃならんから、屋敷までついてこい」

「いやじゃ!」

 娘の答えはにべもなかった。

「あのよぉ」

「信用できんっ」

 甲斐の頭に血が上っていく。

「おい、ちび助……」

 娘がびくりとして後ずさった。

 一応善意に属した申し出だというのに、何故こうもつっけんどんに返されなくてはならないのか。

 ふつふつと怒りが沸き上がってくる。

 怒髪が天に達する前に、傍らにいた余市にポンと肩を叩かれた。

「ここは私に任せて」

「……おう」

 余市はにっこり微笑むと、金ぴかを向いて腰を屈めた。


「ねえねえ、お姫さん。私たちはあながち悪いもんじゃございませんよ」

「ぬっ……」

「ね、ほら。二人とも手ぶらだし」

 両手を広げて茶化しながら、余市がにっこりと笑う。

 それは人さらいの典型的な誘い文句だ――などと内心つっこんではみたものの、意外なことに金ぴかの反応は悪くなかった。

 甲斐を相手にしたときと比べると、目に見えて肩に張った力が解れているのが見て取れる。

 美人というのは本当に得だ、と甲斐は繰り返し毒づいた。


「……お主らはこの辺りの百姓か」

「あー、うーん。まあ、そんなとこ」

 余市がこちらに気遣いながら、言葉を濁してそう言った。

「……百姓は手傷を負った侍をおそうと聞いたぞ」

「そいつぁ一体何時の時代の話だ」

 呆れ顔で横やりを入れると、金ぴかの顔がぴしりと強ばった。

 やはり、初見の印象という二人の間にできた溝は深いらしい。


「何処から来たの? その様子じゃ……物見遊山ってわけでもなさそうだね」

 余市が手傷を負った侍に目を向ける。

「……わからぬ」

「誰に追われているとかも?」

「侍だったように思う。じゃが、ちちうえは詳しくお話してくれなんだ」

 金ぴかはそう答えたきり、陰鬱な表情で俯いてしまった。

 真一文字につぐまれた小さな口を見る限り、これ以上彼女から引き出せる情報はないだろう。


「真実はそこのお侍さんのみぞ知るってところかな」

 肩を竦めた余市がこちらに目を向けた。

 甲斐は腕組みしながら、無言で頷く。

 どうにもこの件に関しては、余市の口八丁に任せた方がすんなりとことが進みそうだ。

 実際のところ、この一件だけではなく、今までに経験した対人的なやりとりのほとんどをおんぶにだっこされていたような気もしたが……甲斐は深く考えないことにした。


「ねえ、お姫さん。ちょっと毛色は違うけど、そこなお侍さんはあなたのお父上だよね? 見たところ傷が深そうだから、このまま捨て置くと危ないんだ」

「お、お命にかかわるのか……っ」

 余市の一言で危機意識に火がついたのか、金ぴかの顔が見る見る内に青ざめていった。

 二人のやりとりを仏頂面で眺めていた甲斐の心がささくれだっていく。

 彼女は甲斐の苦手な表情を浮かべていた。

 涙も、悲哀も、辛抱も――辛気くさいにも程がある。

 甲斐はつまらなそうに舌打ちすると、気休め程度の言葉を金ぴかに投げかけることにした。

「怪我人にしちゃ、顔色はそこまで悪かねえ。処置を間違えなきゃ、この程度でくたばる奴ぁいねえよ」

 その言葉に、金ぴかは何故か目を丸くしていた。

 思っても見なかった場所から、意外な言葉がかけられた、と暗に目で語っている。

 心外な反応であった。

 そのやりとりを見て、余市が声を出して笑い出す。


「甲斐は誤解されやすいけど、根は良い奴なんだよ。だから、信用して良いと思う」

 言いながら、すっくと立ち上がって甲斐の頭をポンポンと叩いてくる。

 それは甲斐が以前拾ってきた捨て犬に、彼女が常日頃やっている動作に似ていた。


「う、ううむ……」

 上目遣いにちらちらと見られる。

 真偽の程を判じかねているようだ。

「おい、不躾はどっちだ」

「甲斐」

 顔を歪めて吠えかかると、すぐさま余市に尻を抓られた。不公平極まりない。


「とにかく、さ。手当するためにも私たちの屋敷に来ない?」

「じゃが、素性の分からぬものについていってはならぬと、ちちうえが……」

「それなら、はっきりしているよ。甲斐はこんなんでも名主の息子だから、大丈夫」

 こんなんは余計だ、と内心抗弁する。

「ま、まことか」

 信じられん、と再び不躾な視線がやってきた。

 甲斐はもう付き合っていられない、とばかりにそっぽを向いて無視を決め込む。

「それなら、信頼できるやも……いや、しかし」

 なおも渋る金ぴかであったが、その逡巡しゅんじゅんは唐突に鳴った可愛らしい音によって、遮られることになった。

 ――くう。

 金ぴかの腹から聞こえてくる。


「い、今のは、その……」

 彼女の顔が瞬く間に茹で蛸のようになっていった。

 流石の甲斐もこれには呆れてしまい、

「ぷっ」

 たまらず吹き出してしまった。

 積もり積もった毒気が抜けていくのを感じる。

 倒れた男が“今の侍”であることなど、最早どうでもいいように思えてきた。

 気に食うか食わないか以前に、目の前の親子連れは窮地に陥った弱者だ。

 溺れる者を見捨てるような所行は、甲斐の望むところではない。


 ――情け深き人におなりなさい。人も物も大事にせねば、“勿体ないお化け”に祟られますよ。

 ふと、おぼろげに亡き母親の怒り顔が脳裏に浮かんだ。


「わ、笑うな!」

 金ぴかは手を大げさに振って、徹底抗戦の構えをとっている。

 これがまた、笑いのツボを刺激する。

「い、いや、悪いな。けどよ」

 甲斐は腹を抱えてしまう。

 頬をフグのように膨らませた金ぴかの顔も、かなりの傑作であった。

「分かった。屋敷に来りゃ、飯くらいは出してやるよ。だから――」

 その言葉を最後まで言い終わる前に、近くでカラコロと鳴子が響いた。

 続いて、無数の足音が聞こえる。

 一、二……六人を下回ることはなさそうだ。

 足音に混じって聞こえる音は、腰に差した刀のそれだろう。


「余市、問答はもう止めだ。そこのオッサンを担いで屋敷へ急げ」

「ん、了解」

 表情を引き締めて放った言葉に、余市は迅速に反応する。

 侍を傷口が開かぬよう背負いつつ、傍らにいた金ぴかの手を取った。

「お姫さん、逃げよう。手を貸してあげる。絶対に離さないでね」

「お、追っ手か……?」

「問題ないよ。追っ手とやらがどんな輩か知らないけど、この村で狼藉を働こうとした時点で、すぐに“どうでもよくなる”」

 不安そうな金ぴかに余市が笑顔で答える。

 その表情は自信に満ち溢れており、一点の曇りも見受けられなかった。

「甲斐」

 去り際に余市から声をかけられる。

「おう、何だ」

 甲斐は音の迫りくる方から目を逸らさずに、二人に背を向けながらぶっきらぼうに返した。

「一応、怪我には気をつけて」

「何を言ってやがる」

 歯を剥いて笑いながら、拳と拳を打ち合わせる。

「こんな面白そうな局面、怪我なんざ気にして首突っ込んでられっかよ」

 クスリと笑みがこぼれた気配を背中に感じた。

 すぐさまそれは、小さな足音を連れてあしの茂みへと消えていく。

 こうして松の木の下に残されたのは甲斐一人のみとなった。

 さあっと、冷たい秋風が野原の茂みを撫でていく。

 程なくして、あしの擦れる音と共に何者かが姿を現した。


「おいでなすったか」

 甲斐の前方に八人、扇のように広がっている。いずれも着流しを着た浪人風のごろつきたちだ。

 いや、敢えてそう見せているだけか。

 良く見れば、あちこちの汚れも無精ひげも、どれもが一朝一夕の代物である。

 腰にはこしらえの悪くない二本差し。

 困窮極まった食い詰め浪人には似つかわしくない一品が並んでいる。

 恐らくは急場ごしらえで身汚く扮装した侍だろう。

 甲斐は極端な半身に立ちながら、笑みを浮かべて“ごろつきもどき”となった刺客たちを歓迎する。


「アンタら、何の用だい? ここはお江戸の東の鍔帰新田。何の変哲もない開拓村の一つだ。用もない侍が来るようなところじゃない。ちなみにお帰りはあちらだぜ」

 多勢に無勢を気にも留めずに、へらへらと笑みを浮かべながら挑発する。

 刺客たちの表情が険しくなる。直情的な怒りが、即座に殺気へと変化していく。


「ここに親子連れの侍がいたはずだ。あの者どもを何処へやった」

 頭目と思しき一人が前に出た。有無を言わさぬ声色だ。

 刀に手を添えており、甲斐が下手なことを言ったが最後、躊躇ちゅうちょせずに斬りかかってくるだろう。

 すぐさま抜刀しないのは、自分の力量に自信を持っているがため。決して雑魚ではない――甲斐は頭目の持つ雰囲気から、片手では数え切れない数の人を斬った経験がありそうだ、とその力量を読みとった。


「そんなもんいたっけなあ」

「隠すとためにならんぞ」

「おお、こえー」

 殺気混じりの圧力を受けながらも、甲斐は人をこけにした態度を止めようとしない。

 否、むしろ腰の得物を抜かせようと煽ってすらいた。

 何せ、甲斐は“今の侍”を嫌っているのだ。

 話し合いだけでやり過ごそうなどという気は毛頭ない。


「ガキが……」

 火縄をいれた火薬壷の如き空気が、見る間に膨れ上がっていくのを感じる。

「へっ」

 鍛錬の成果を“今の侍”相手に試す、またとない機会である。

 良い塩梅に場が暖まったものだと、内心ほくそ笑んだ。

 

「鍔帰の甲斐だ」

「……何だと?」

「武士の作法だろ。こっちが名乗ってやったんだから、あんたらも名乗れって言ってんだよ。せめてもの情けで、墓石に名前くらいは刻んでやる」

 名を聞くことは大事である。

 古来より、功名を尊ぶ武士の間で己の命にも勝るものとして重要視されてきたものが、名乗り合いであった。

 甲斐は自らを縛る百姓身分を嫌ってこそいたが、己が出自に関してはゆるぎない誇りを持っている。

 自らの立ち位置を明らかにするためにも、甲斐は武士の作法に則った宣戦布告を行った。


「――ハッ」

 頭目はその口上を聞き、嘲りまじりに口元を歪める。

「“百姓”風情に名乗る名などない」

 頭目が抜刀し、つられるようにして他の刺客も刀を構えた。

 無数の白刃に陽の光が反射し、凶悪に輝く。

 甲斐は彼らが臨戦態勢をとったのを見て、すぅっと目を細めた。

「……ああ、そうかよ」

 今までにやけ笑いを浮かべていた顔から、表情を消す。

 内から湧き出る殺気を隠そうともせずに、右手の甲をおもてに向けて、前へ突き出した。


「サンピン侍どもに、いくさの仕方を教えてやる。かかってこい」


 それが戦いの合図となった。

 八人の刺客が茂みをかき分け、甲斐に向かって殺到する。数の利を活かした人海戦術であった。

 見る間に詰まっていく両者の距離。

「はん、弱い者いじめだけは得意そうじゃねえかっ」

 甲斐は馬鹿にしたように笑い、最も近い刺客へ向かって駆けだした。

 一足一刀の間合いを瞬く間に乗り越え、甲斐と刺客は無手の間合いにまで肉薄する。


「……ぐっ」

 初太刀を振るにはいささか間合いが近すぎると判断したらしく、刺客が一歩後ずさりながら、刀を振り下ろした。

 とっさの退き技にしては中々の冴えであったが、苦し紛れの技は至極読みやすい。

 甲斐は難なく白刃を右手の甲で受け流すと、駆け寄った勢いを活かしたまま、刺客の首を抱え込むようにして飛びついた。

 両者の身体が中空で回転し、刺客の頭が地面に叩きつけられる。

 骨の折れる、鈍い音が響きわたった。


「まず、一人ッ」

 受け身をとった甲斐は一人目が手放した刀を拾うと、左肩に担ぐようにして構え、二人目の獲物に向かって転進する。

 刺客たちの顔には焦りが生じていた。


「気をつけろ! このガキ、妙な技を遣うぞッ!」

 頭目の指示で色めきだっていた刺客たちが正気を取り戻す。

「チェイッ!」

 二人目の刺客との間合いは一足一刀。

 刺客は迫る甲斐めがけて、裂帛の気合いと共に大上段からの兜割りを繰り出した。

 これに相対するは、片手での薙払いだ。

 遠心力を得た横薙ぎの一撃は、狙い違わず兜割りを弾き飛ばした。


「――あがッ」

 粗雑な扱いに、一瞬でなまくらになった刀を刺客の胸に突き入れる。

 ぞぶりと肋骨の隙間をくぐり抜けて、なまくらは刺客の背まで貫通した。

「……力試しはこんなもんかね」

 血泡を吐く二人目の刺客を、使い物にならなくなった刀ごと別の一人に向けて蹴り飛ばしながら、甲斐は残りの者たちを見回した。

 じりじりと、刺客たちは突出した一人が出ないように甲斐を囲もうとしている。

 既に無手の子どもを相手にしているという油断は消え失せているようであった。


「……良いね、そのつら。どうやら、俺は結構強いらしい」

 今までに重ねてきた修練は十二分に結実けつじつしているらしかった。

 “今の侍”を相手にしても戦える――それだけが分かれば、もう彼らに用はない。

 甲斐は口の端を持ち上げると、背を低くして茂みの中へ飛び込んだ。


「――なっ、追え!」

 真正面から、相手にする道理などない。

 甲斐は走り慣れた獣道を進む。

 刺客たちは全員が甲斐を追ってきていたが、柔らかい地面に足を取られて、思うように速度が出せない様子であった。


「……さて、どう料理したもんか」

 甲斐は低い体勢を維持したまま、こんもりと干し草の敷かれた箇所を飛び越える。

「う、うおっ」

 干し草の下には底なしの泥沼が待ちかまえており、それに足を取られた刺客の一人が、情けない声を上げた。

 甲斐と刺客たちは藪をかき分け、細々と続く畦道あぜみちまで駆け上がる。


「ま、待てぇぃっ……!」

 刺客の中でも足の速い一人が距離を詰めてきた。

 甲斐は駆け足を緩めて、その一人を迎え撃つ。

「何だ、何なのだ。貴様はッ!」

 剣と拳が打ち合わされる。

 一合、二合とやりあうが、全力で駆けながら刀を振り回す鍛練を積んだ侍など、そうそういるものではいない。

 自然と刺客の繰り出す攻撃は単調なものになっていく。

 甲斐は刺客の太刀を受け流しながら、欠伸あくびをこらえるのに必死だった。


「さっき名乗ったじゃねえか、よっと」

 後ろ走りのまま、甲斐は憎まれ口を叩く。

 叩くと同時に、足払いをかけた。

「ぎゃっ」

 体勢を崩した刺客が畦から藪へと転落していく。

 残る刺客は四人である。

 甲斐は畦道を降りて、道に沿って流れていた四間幅の水路をひょいと飛び越えた。

 甲斐を追う四人はどうするべきかと一瞬戸惑いを見せる。

 結果として、刺客たちは二手に分かれることにしたようだ。

 頭目を含んだ二人はそのまま勢い良く跳躍した。頭目は辛うじて渡ることに成功し、残る一人は下半身を水で濡らしてしまう。

 岸に止まった二人は、近場に止まっていた小舟を橋として使うことに決めたようであった。

 小舟に駆け寄り、我先にと二人は乗り込む。

「あっ」

 次の瞬間、小舟の底が抜けた。

 甲斐はしてやったりといった表情を浮かべる。

 これでまともに戦えるのは、頭目と下半身を水で重くした一人のみ。

「そろそろ鬼ごっこは終わりにするか」

 言って、彼らと相対する。

 水浸しになった一人は肩で息をついており、頭目は怒りで両目を血走らせていた。


「……ただの百姓ではないな。一体誰の差し金だ!」

 頬をぽりぽりと掻きつつ、一瞬返答に詰まる。

「いや、分からん」

「――はっ?」

 そもそも、甲斐は屋敷へと逃した訳アリ親子の素性を知らない。追っ手である彼らのこともである。

 ただ、図書に連れてこいと言われたために、その命に従っているだけなのだ。


「別段、あんたらを足止めしろなんて依頼を受けたわけじゃないんだよ、俺は」

 その言葉に一瞬呆けた頭目であったが、すぐに憎々しげな顔で睨んでくる。


「……貴様、一体誰を敵に回しているのか分からんようだな。我々に刃向かった以上、ただでは済まさぬぞ!」

 このまま真正面からぶつかり合ってはただではすまないと悟ったのか、頭目の舌は途端に良く回るようになった。

 この期に及んでも居丈高いたけだかを貫き通す、唾棄だきすべき傲慢ごうまんさである。

 甲斐の嫌う典型的な“今の侍”の姿がそこにはあった。


「浪人だろ? あんたら。浪人身分は死んでもお沙汰なし。公儀こうぎの取り決めたことじゃねえか」

「ハッ、我々はただの浪人などではない。その身を――」

 そうじゃなくてよ、と声を大きくして長口上を遮る。


「浪人として死ぬんだよ。あんたら」

 突如、三人からそう離れていない位置から断末魔の声が聞こえてきた。

 見れば、小舟の罠にはまった刺客たちを、村の百姓たちが鍬を振り下ろして討ち取っている。

「おうい、坊。こいつらは肥やしにしとくぞお」

 水路が血で赤く染まっていく。

 頭目たちの表情は信じられないものでも見たかのように凍りついていた。


「あんたら、運が悪かったよ」

 甲斐の言葉に合わせるようにして、水浸しになった一人の喉から小刀が生えた。

「なっ……!」

「あの親子に追いついたのが、この里でなけりゃあな」

 辺りの藪や雑木林の陰から、ぞろぞろと百姓姿の男たちが沸いて出てくる。

 既に生きているのは頭目一人のみ。

 逃げ場すらも失っていた。


「ま、野良狗の巣に迷い込んだ不運を呪ってくれや……あの世でよ」

 言うが早いか、甲斐は一陣の風と化す。

 風は刹那の間に頭目の脇を通り過ぎ――

 吹き止んだ直後、首を折られた頭目の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちていった。


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