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野良狗のいくさ ~少年仕事人、江戸を疾る~  作者: 三郎
第一章 野良狗、悪臣の喉笛を切り裂く
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第一話 野良狗の卵たち

「どうしたの? 甲斐かい

 そんな呼びかけとともに、甲斐の鼻先を木剣の切っ先が掠めていった。

 どうやら、皮一枚を持っていかれたらしい。

 鼻先がやけにちりちりと痛む。

 唸りをあげて通り過ぎていった木剣の通り道に、ひらひらとケヤキの落ち葉が舞っていた。落ち葉は、真っ二つに断たれている。


「おっ……まさか、避けられるとは」

 残念さが二割、楽しさが八割といった調子で、幼なじみが呟いた。

 紅を引いたように赤い口元が、クスリと綻びを見せている。

 互いに残心をとりながら、落ち葉の積もった地面を蹴る。

 さあっ、と赤や黄に染まった木の葉の吹雪が舞い上がり、両者の間合いが遠間へ開いた。


「……おい、余市よいち

「はいはい」

 幼なじみの少女は、ひんやりとした秋風のように涼しげな顔を浮かべている。

 彼女は、雑木林の木漏れ日の中に悠然と立っていた。

 間合いが開いたのを良いことに、木剣で肩をトントンと叩きつつ、からかうようなまなざしをこちらに向けてきている。


「そんな恐い顔しないでよ。ただでさえ、ボロ衣の似合う山賊みたいな顔つきなんだからさー」

「ほっとけ」

 大変小癪な態度である。

 確かに、彼女の小ぎれいな格好と比べれば、甲斐の格好はどこからどう見てもやくざ者かごろつきのそれだ。

 身にまとう、袖の短い野良着は継ぎ接ぎが目立つ。ぼさぼさに伸ばした髪は紐でひとくくりにしており、手には稽古用の木剣を持っている。旅人が彼を目にすれば、賊と見間違えて警戒したとしても、おかしくはないだろう。

 対する余市はというと、胡散臭いほどの艶やかを匂わせていた。

 人目を気にしない男装も、藍染の半股引からはえる白い足も。傾けた首につり目がちな流し目も、肩ほどで切り揃えられた黒髪の間から見えるうなじも――

 それらすべてが、まるで他人に見られることを意識しているようで、百姓娘の純朴とかけ離れている。


 まさにすっぽんと月。

 がしがしと髪を掻きむしる甲斐の姿を見て、余市の笑顔は満開になる。

 端麗な容姿というものは本当に得だと甲斐は思った。


「今のはどういうつもりだ、てめえ」

 だが、それと先だっての狼藉ろうぜきは別物である。

 甲斐は忌々しげに余市を睨みつけた。

 現在、申し合わせによる鍛錬の真っ最中であった。


 申し合わせとは、

「上段、参る」

「上段、受ける」

 と、決まった箇所に打ち込まれた打突を受け流すだけの単純な稽古だ。

 型稽古とほとんど変わらず、正味しょうみ七年も続けていれば、目を瞑ったとしてもしくじりようがない。

 あやうく太刀を浴びかけたのは、ひとえに余市のせいであった。


「途中で動きを変えやがって」

「私から目をそらすのが、悪いんじゃない?」

 悪びれもしない答えが返ってくる。

 余市の張り付けたような笑顔からは、反省の色は窺えなかった。

「いきなり、明後日の方向を向いちゃって。何か気になるものでもあったの?」

「……いや、遠くで鳴子なるこの音と、女の声が聞こえたもんで――」

 言った瞬間、甲斐の立っていた位置に木剣による渾身こんしんの一撃が振り下ろされた。

 落ち葉が大量に舞い上がり、地面に小さな穴が開く。


「おい! 殺気なんざ込めやがって、何だってんだ!」

「知ーらない」

「大怪我したらどうすんだ!」

「その時は一生養ってあげるよ」

「男が女に養われてたまるかっ」

 やいのやいのと喧嘩が始まる。

 二人のやりとりを見て、別の一人が笑い声をあげた。


「今のは、甲斐が悪い。いくら申し合わせといえども、鍛錬は鍛錬。常に真剣勝負の心意気で望まねばならんもんじゃからな」

 顎鬚あごひげをさすりながら口を挟んだ人物は、二人から少し離れた場所にある切り株に腰を下ろしていた。

 あさぎ色のちゃんちゃんこを羽織り、黄色い頭巾をかぶった老人だ。

 名を図書ずしょという。

 甲斐と余市の師匠であると同時に、甲斐にとっては実の祖父でもあった。


「でもよ、爺さん。本当に聞こえたんだ」

 甲斐は確信を持って抗弁した。

 耳には侵入者の来訪を告げる鳴子の音と、年端もいかない少女の悲鳴が未だ余韻として残っている。

 

「フム、方角と距離は分かるか?」

「北に四半里かな。多分、村の北はずれに仕掛けた奴だ。ここからだとちょうど反対側になると思う」

「……そんな遠くの音、何で聞こえるのさ。相変わらず、甲斐はどっかおかしい」

 余市が呆れたように口を挟んだ。

「聞こえたんだから、仕方ねえだろ……」

「けど、今日の風の強さを考えたら、聞こえないのが普通だよ。普通」

「そこまでにしておけ、二人とも」

 再度たちこめる口論の気配を、図書の一言が抑えつける。


「甲斐がそう言うのならば、そうなのじゃろう……とは言え、北には北の物見がおる。今はせがれたちが北側の野良地を開墾しておる頃じゃろうし、“役割分担”は守らんとな」

 くつくつ笑う図書を見て、甲斐は自身の顔が苦みばしっていくのを抑えられなかった。

 甲斐は現在、“役割分担”を放棄している真っ最中なのである。


 ――武術の稽古なんざ辞めちまえ。お前は百姓の息子なんだ。野良のことだけ考えてりゃ、そんなもんを修めずとも生きていける。


 甲斐の脳裏に、耳にタコができるほど繰り返された父親の言葉が浮かび上がる。

 木々の合間から覗く透き通った秋空が、急にずしんと圧し掛かってきたような気がした。


「わしは別段構わんのじゃがな。少しは父親の言うことを聞いてやっても良いのではないか?」

「嫌だね」

 唸るように即答する。

 常日頃から放蕩息子とそしられようと、こればかりは譲ってやれない。

 甲斐は自身を縛り付ける、百姓という身分を好いていなかった。


「へらへらと“今の侍”に頭下げるのも、百姓仕事もまっぴらごめんだ。第一……俺には“やらなきゃならないこと”がある」

 目に力を込めて、図書を睨んだ。


「まあ、良いわい」

 図書も余市も、この一件については深く掘り下げようとしてこなかった。


「ほれ、二人とも構えなさい。変な形で終わらせては悪い癖が残ってしまう。やるなら、正しい形を通しで、じゃ」

 パンと両手を合わせて、図書が稽古の再開を促す。

 無論、甲斐に否やはない。

 何故なら今の自分にとって、武術の腕前を磨くことこそが最上の課題であるからだ。


桜花おうか一二三ひふみ流、申し合わせ稽古。半身構えいっ」

 言われたとおりに極端な半身構えをとる。

 左手に持つ木剣は肩に担ぎ、右手は剣に添えず、前に突き出し余市に向けた。

 余市も鏡写しに同じ構えをとっている。

 間合いは変わらず、遠間のままだ。


「よいか。申し合わせといえども、ゆめゆめ油断してはならんぞ。相手を出し抜くつもりで剣と拳を振れ」

「分かったよ」

「分かりました、図書様」

 二人の突き出した右手の指先が、獲物を狙う水鳥のように揺れる。

 秋風に運ばれた落葉が、二人の間でくるくると踊った。

「始めぃっ」

 初太刀をとったのは、余市であった。


「上段、面巻き。参る」

 タ、タ、タ、と地面に小さな足跡を刻み、余市が瞬時に間合いを詰めてきた。

 担がれた木剣が、ごうと甲斐のこめかみに向けて振り下ろされる。

 片手での一撃とはいえ、遠心力を乗せられたその一撃は重く、鋭い。

「上段、かぶと。受ける」

 甲斐はこれを右手甲の丸みを生かして、上方へと弾き飛ばした。


「受けが甘い。弾くのではなく、受け流す。一二三流初伝(※一)、甲は鉄壁の守りじゃ。何時いかなる場合であっても、敵の太刀を滑らかに受け流せるよう意識せよ」

 初太刀を弾かれたせいで、余市が脇を露わにした。

 その機を逃さず、甲斐は即座に反撃する。


「風切り突き、参る」

 受け流しに用いた右腕を、そのまま肘打ちに転じる。

 至近距離の反撃としては定石であったが、それがゆえに対応もとられやすい。

 案の定、斜め前へ足捌きを進められるだけでこの攻撃は避けられた。

 両者の位置が、すれ違うようにして入れ替わる。


くちばし隠し、参る」

 余市が背中を見せたままで、体当たりをかけてくる。

 その脇から木剣が突き出ており、こちらの横腹を狙っていた。

 これは左手に持つ木剣で弾きながら距離をとる。

「今のは体捌きでも良かったんじゃないの?」

「俺はお前ほどすばしっこくはねえんだよ」

 さらに稽古は続けられる。

 申し合わせが積み重なっていくにつれて、二人の速度は上がっていった。


「また隙を見せてくれてもいいのに」

「二度も同じ失敗するもんかよ」

 余市に軽口を返しながらも、舞踊を思わせる連撃を、すべて甲で受け流す。

 一度、二度と回数を重ねるごとに、受け流しの滑らかさが向上していくのを自覚する。

 余市もそれは同様であった。

 卓越した体捌きが、容易に彼女を捉えさせてくれない。

 手合わせは、千日手の体を成しつつあった。

 数えで六つの頃から続く長い付き合いだ。

 互いの考えは読みやすく、読まれやすい。

 相手を出し抜けと図書は言ったが、そう容易く実行できることではなかった。


おぼろ飛び、参る」

 余市を出し抜く機会が訪れたのは、彼女が中伝(※二)の武技を繰り出した時であった。

 細身の体が宙を舞い、白い脚が虚空に満月を描いて振り下ろされる。

 甲斐は甲を用いず、体捌きでこれを避けた。

 間髪入れずに迫り来る木剣の空中連撃は、さらに間合いを詰めることで無効化する。

 余市が地面に足を着けた時には、二人の間合いは密着するほどに近づいていた。

 ここから先は組み打ちの領分である。


手弱女たおやめ、参る」

 甲斐は余市の手を取り、小指を軸に捻り上げて、地面に勢い良く組み伏せた。

「はんっ、今のは迂闊だろ、余市」

 そのまま首を絞めようとしたところで、はたと気がつく。


「……お前、何で顔赤くしてんの?」

「そりゃあ、甲斐とこうも身体重ねてればねえ」

「――は? おまっ」

 突拍子もない発言に、甲斐は思わず拘束を緩めてしまった。

 その機を逃さず、余市が体勢を入れ替える。

 瞬く間に甲斐の首が、余市の両脚によって逆に絞められるという事態に陥った。


「絞められるのも悪くないけど、やっぱり私は絞める方が好きだね」

 余市は赤い舌をぺろりと出して、極楽もかくやといった表情を浮かべていた。

 対する甲斐は地獄へと旅立ちかけている。

 息ができずにもがき苦しむが、余市は決して拘束を緩めるようなヘマをやらかさなかった。


「そこまで!」

 図書の制止がかかってようやく、甲斐は現世に引き戻された。

「フム……甲斐の方が実力で上回っているのは間違いないが、それでも勝てないのはもう相性の問題じゃろうなあ。途中でちょくちょく手を緩めておったしのう」

 当たり前だ。女相手に全力を出せるか。

 そう声に出したかったが、喉が痛んでうまく声が出せなかった。

 ようやく、絞り出せた言葉は、

「……この野郎、殺す気か!」

 といった遠吠えのみである。

 けほけほとやりながら余市に吠えたが、効果は今一つのようであった。


「来年には甲斐も私も元服おとなだし、心中というのも案外悪くなさそう……ふむん」

 頬に手を当て、顔を赤くしている。

「ふむん、じゃねーよ!」

 何処まで本気か分からない。

 甲斐の幼なじみは、妖怪“蜘蛛女”とでも呼ぶべき、恐ろしい本性を隠そうともしていなかった。


「大事な跡取りと嫁候補に死なれるのは、少々困るのう」

 これには図書も苦笑いを浮かべていた。


「おーい、さきの名主様ぁ」

 二人の稽古が終わるのを見計らったかのように、雑木林の外より図書を呼ぶ声が聞こえてきた。

 声のする方を見やると、畦道あぜみちに野良着を着た中年の男が鍬を片手にこちらへ駆けてきているのが見えた。


「おお、長兵衛か。お主が参ったということは……北はずれに現れた客人の件か?」

「あれ、何でご存じなんで? 言づてを頼まれたのはわしだけだと思っていたんじゃが」

 何、耳の良いのがこちらにいたから、と図書は甲斐を顎で指し示した。

 長兵衛と呼ばれた百姓は、それだけで多くを察したらしく、困ったような笑顔を浮かべた。

「甲斐のぼん。あまり、今の名主様を悩ませるんじゃねえぞ」

 たしなめるその言葉に、甲斐はうるさいとばかりにそっぽを向いた。


「北はずれの客人は、倅の手に負えんのか?」

「へえ、手傷を負ったお侍に異人の娘の二人組でさあ。何て言うか、もう明らかに訳アリの匂いがして、どうしたものかと決めかねていますわ」

 侍、の言葉に甲斐はぴくりと眉を上げた。

 図書はというと、何故か納得したように頷いている。まるで、二人の素性が分かっているかのような素振りである。

 図書がこちらを向いた。

 厄介ごとを押しつけられそうな、嫌な予感がする。


「甲斐、市さん」

「何ですか、図書様」

「……あんだよ」

 ぶっきらぼうに返したが、続く言葉にはある程度予想がついていた。


「これから、二人には北はずれへ向かってもらいたい。お客人を我が屋敷にお迎えせねばならんのだ」

 "今の侍"を里に迎え入れる――

 甲斐の口の中に苦いものが広がっていった。


※一…流派の基本技。

※二…流派の応用技。

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