ヴィオラと優しい人
「……ヤメろ! 来るなっ」
――え?
それは、私の声とは思えないほどしゃがれた声でした。
でも、確かに私の声でした。
そして、私が望んで発した言葉ではありません。
私は、自分の意思で身体を支配する力を失っていたのです。
簡単に言えば、誰かに身体を乗っ取られた。
「落ち着いて」
「来るなっ、来るな!」
あまりに暴れる私をエルネスト様は長椅子に組み敷くように押さえつけました。
エルネスト様は、片手で私の両腕の自由を奪います。
可愛らしい顔からは想像もつかないほどの力です。
「大丈夫。危害は加えないよ」
「信用できるか! お前の……お前の目は、簡単に人を殺せる目だ……!」
私がそういうと、エルネスト様の目がスッと細められました。
その、冷え切った雰囲気に、私は息をのみ、黙り込みます。
彼は、否定も肯定もせずに穏やかな笑みを浮かべました。
「さぁ。君の記憶をみせて?」
次の瞬間、私の中を誰かの記憶が駆け抜けました。
まるで走馬灯のようなそれは、ある少女の記憶。
裏町でひっそり暮らしていた少女が、奴隷商人に捕まり、売られ、死ぬまでの。
その記憶は生々しく、吐き気を催すような場面もありました。
――ひどい。
あんな事をされれば、きっと人は男性恐怖症にでもなるのでしょう。
私は泣いてしまいました。
エルネスト様は悲痛な表情で、涙を指ですくい取ります。
「泣かないで。ごめん。怖い事を思い出させてしまったね」
エルネスト様は泣き続ける私を起こすと、抱き締め、優しく背中を撫でます。
私は、こんなふうに優しくされた事がなかったのでしょう。
エルネスト様に縋り付いて、よりいっそうに泣き出しました。
私の悲しみは、私にも直に伝わってきました。
今、私達は感情を共有しているみたいです。
「苦しいの。忘れたいの。嫌なの。でも、ダメなの。私がリーシャである限り、この記憶は消せない。リーシャという存在を現世に縛る理由だから……」
涙声で必死に訴える私――リーシャの言葉を、エルネスト様はしっかり聞いてくれます。
「私はこの子が羨ましかった。私には、私の身を案じて助けにきてくれるような人はいなかった」
――私の身を、案じてくれた人?
私は、その言葉に引っ掛かりを覚えました。
誰の事を言っているのでしょうか。
父様?
母様?
お兄様方?
だけど、リーシャが言っていたのは違う人の事のように思えてしかたありません。
誰、でしょう?
ダメです。
やっぱり思い出せません。
私は決して忘れてはいけない人の事を忘れている。
すっぽりと抜け落ちてしまっている記憶の中に、その人がいるのでしょうか?
「君はどうしたい?」
エルネスト様の言葉に、リーシャは少し戸惑ったようですが、すぐに答を出しました。
「もう、疲れたの。でも、私は私の力で消える事はできない……私を縛る記憶を癒す術がないから。……辛いよ」
「じゃあ、君を癒してくれる人のところへ連れて行ってあげる」
「……本当?」
「もちろん。ちょっと、今すぐには連れていってあげれないんだけれど……待っていてくれる?」
リーシャがコクリと頷くと、エルネスト様はいい子だ、と言って私の頭を撫でました。
リーシャはもっと撫でて欲しいと言うかのようにエルネスト様に擦り寄ります。
……よく考えたら、リーシャは今、私です。
エルネスト様に擦り寄っているのは他でもない、私でした。
自分の意思ではないにしろ、その事実はかなり衝撃でした。
エルネスト様が撫でて下さっているのはリーシャなのですが、どうしても彼の手が私を撫でて下さっていると錯覚してしまいます。
私はなんとなく、今がどういう状況かを理解しています。
『第三皇子様は幽霊が見えるらしい』
同僚がどこからか引っ張り出してきた、古い噂を思い出しました。
私の中にリーシャがいて、彼女が男性を怖がるから私は変な体質になって、彼はそのすべてを理解して、私を……いえ、リーシャを救おうとしてくれているのでしょう。
――優しい人。
こんなにも優しく、温かな人がどうして、一人で過ごしているのでしょう?
この人の手があんなにも冷たい事を知る人はいるのでしょうか?
彼の、人とは違う――異常を理解してくれる人はちゃんといるのでしょうか?
――私はこの人を守ってあげたい。
それは淡い恋心か、それともただの庇護か。
「ここに移れるかい?」
取り出されたのはガラス玉でした。
中に銀色の液体が封入されていて、ゆらゆらと揺れています。
「移る?」
「うん。分かった。やってみる」
リーシャは、誰かから話を聞いているようでした。
だけど私がその誰かを認識する事はできません。
リーシャは、それから一言も喋りませんでした。
長い沈黙の後、私はある変化に気づきます。
ガラス玉が、だんだんと色を帯びていくのです。
しばらくすると、それは怪しい黒の光を纏いました。
同時に、私を取り巻いていた膜が晴れたように感じます。
「優しく扱ってやらないとな」
そう言って、エルネスト様はガラス玉を懐から取り出した袋に入れ、テーブルに置きました。
「あ、あの……エルネスト、さま?」
「!?」
身体の支配権がもどった私が声をかけると、エルネスト様は驚愕の表情を浮かべました。
「……まさか、意識があったのか!?」
「ええ、まぁ……」
控えめに肯定すると、彼は押し黙ってしまいます。
先程とはうって変わって、睨まれるような厳しい視線。
恐らく、彼があまり人に知られたくない事を、私は知ってしまったのでしょう。
エルネスト様は何かを諦めたように表情を緩め、溜息を一つ付くと、真っ直ぐ私を見ました。
彼の口が開かれようとした、その時です。
大きな音と共に入り口が開け放たれました。
「入るぞエル!!」
そう言って乱入してきたのは、第二皇子ライムント様でした。




