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 一体、どれぐらい時間が経ったのだろうか。私の涙はいつの間にか乾いて消えていた。頬にはカサカサとする感触の涙の跡が残るだけ。私は、暗い廊下を歩いて隆一さんのマンションを出た。

 涙が出尽くして痛む目元を擦りながら考えた。これからどうしたらいいだろう。本当は隆一さんの言う通り、学校に戻るべきなのは分かっている。しかし、今のこんな気持ちで授業など受けられるはずもない。

「やっぱり、美月さんに直接話が聞きたい」

 私の独り言は、自分の耳に入った途端天啓のように響いた。美月さんを追いかけよう。悲しみでふにゃふにゃに萎れていた心が、大量の血液を送り込まれた心臓のように急激に動きだした。

 私は、美月さんが言っていた言葉を必死で思い出した。さっき、彼は何と言っていただろう。どこに行くと隆一さんに告げただろう。思い出せ。今思い出さなければ、きっと後から後悔する。

「そうだ、お墓参り」

 美月さんがドアを開ける寸前に隆一さんに言っていた言葉。それを思い出せたことは、忘れっぽい私にしては奇跡に等しいことだった。

「でも、これだけじゃまだ分からない」

 このあたりで大きな霊園は一つしかない。でも、美月さんがそこへ行くとは限らないのだ。どこかのお寺の中にある納骨堂へ行くときにだって、お墓参りという言葉を使うだろう。

「どうしよう。どこにいけばいいの?」

 私は動き始めていた足をまた止めた。隆一さんなら行先を知っているだろうか。でも、きっと聞いても答えてはくれないだろう。

 美月さんの行先はまったく分からないままだ。でも、行くだけいってみるしかない。私は財布の中身を確認してから、駅へと向かった。霊園までは電車で二十分ほどかかる。幸い、行きと帰りの電車代くらいは十分にあった。

 亮太の顔が一瞬私の頭を過った。彼に今あった話を伝えたら、きっと驚いて飛んでくることだろう。でも、このことを亮太も知ってしまったら、美月さんはどうするのだろう。私は束の間迷っていたが、思い切って携帯電話の電源を切った。確かめるのは、私一人でいい。

 繁華街を抜けて駅に近づくと、人の通りは急に増してくる。朝のラッシュには及ばないが、電車に乗る人が列をなしてホームに立っていた。

 私はこのとき、制服姿のままでいることを後悔した。もしも補導員にでも出くわしたら、補導されてしまうかもしれない。

 私は俯いて電車を待つ列に並んだ。出来るだけ、具合が悪くて早退してきたようなふりをする。

 ベルが鳴って、滑るように電車がホームに入ってきた。私はドアの横に立ち、規則正しく揺れる車内で、美月さんのことを思った。彼は、どんな思いで私たちに死んだ妹の名前を名乗っていたのだろうか。

 いつだったか、美月さんにどうして髪を伸ばしているのか聞いたことがあった。美月さんの黒い絹糸のような髪に憧れ、私も髪を伸ばし始めたころだった。

 美月さんはそのとき、私の問いにちょっと考えてから困ったように微笑んでこう答えた。

「これは、そうだな――忘れないようにするため。かな」

 今考えれば、それは死んだ妹さんのことだったのだ。彼は死んだ妹さんになろうとしているのだ。そして、六年間彼はそれをやり遂げた。きっと、この先もずっとそうするつもりだったのかもしれない。

「それに、何の意味があるっていうの……?」

 私の呟きは、加速する車輪の音にかき消されて誰の耳にも届かなかった。





 目当ての駅で降りてから、以前来たことのある霊園への道筋を一生懸命思い出していた。あまり熱心ではないけれど、夏の墓参りだけは家族全員で行くことになっている。

 真夏の焼けるようなアスファルトの道筋を一生懸命思い出し、私は迷いながら進んだ。沁みるような冷たい風が吹くいまの時期では、それはとても難しい作業のように思える。しかし、目の前にいつも立ち寄る花屋を見つけて、進んでいる道が正しいことを知った。

「美月さんも、ここで花を買ったかもしれない」

 私はまだ財布の中の残りが十分にあることを確認して、花屋の店先にあった小さな花束を買った。中年の女性店員に、それとなく美月さんがここに寄らなかったかを聞いてみる。

「その人なら、少し前に花束を買ってくれましたよ。ちょっと目立つ人だったから間違いないです」

 店員は何度もうなずきながら、美月さんがどんな花束を買ったかなど事細かに教えてくれた。そして、彼女は好奇心をむき出しにした顔で低く声を落とした。

「やっぱり彼、芸能人なんでしょう?」

「いえ、違いますよ。待ち合わせをしていたんですが、先に行ってしまったようなので追いかけているんです」

 私の答えに、店員はがっかりした顔をした。私は彼女にお礼を言うと、自分の判断が間違っていなかったことにほっとした。美月さんの目的地は、やはり霊園だったのだ。

 目の前には、針を突き刺したようにとげとげする、なだらかな丘陵が見える。丘から突き出して見えるのは、みな墓石だ。

 でこぼこした石畳を歩きながら、私は美月さんを探した。この広い霊園の中で、美月さんを見つけることが出来るのか心配になってくる。

 お盆の時期には人で賑わうこの場所も、今は誰も墓に参る人はいないらしい。黒や白く輝く墓石の前には、飾られている花もお線香も見当たらず、いっそう暗く寂しい気持ちにさせられる。

 夏の姿しか見たことのない私には、この光景は不気味でとても寂しそうに見えた。ここには死んだ人間が眠っている場所なのだと感じさせられる。

 私は速足で歩きながら、美月さんの姿を探した。早くしないと、美月さんはお参りを終えてどこかに行ってしまうかもしれない。私は走りだしながら、整然と立ち並ぶ墓石の間を縫うように抜けて行った。ほとんど灰色にしか見えない霊園の中で、一瞬ぱっと華やいだ色を見つけた気がした。

「いた!」

 私は息を整えながら、スイートピーの花束が供えられているお墓にゆっくりと近づいた。花屋の店員が、美月さんが買っていったと教えてくれた花もスイートピーだった。

 灰色の墓石の前に、ロングコートを着た美月さんがじっと静かに佇んでいる。

「美月さん」

 私は、思わず声をかけていた。美月さんは私を振り返ると、困ったように首を傾げながら小さく息を吐いた。

「どうして、ここが分かったんだ?」

「勝手に付いて来てごめんなさい。さっき美月さんが墓参りに行くって言っていたのを思い出したんです」

「そうか。その花は?」

 美月さんは、私が握りしめているピンク色のガーベラを指した。

「これは、さっき花屋さんで道を聞いたときに買ったんです。それで、お墓参りだと美月さんが言ったから、良かったらこれもお供えしてもらえたらと思って……」

 私は美月さんの顔色を窺いながらそっと花を差し出した。美月さんはそれを受け取ると、柔らかな花弁を一杯に広げているスイートピーの花束の隣にそっと置いた。

「ありがとう。あいつ、花が好きだからきっと喜ぶよ」

「美月さんの、妹さんですか?」

「……そう。俺の双子の妹だ」

 私は『上野家之墓』と刻まれた墓石を見上げた。初めて知った美月さんの名字。

「弥生には、俺の名前はもうばれているんだよな」

 美月さんは私の顔から視線を逸らしたまま、そう呟いた。私は、ただ黙って頷いた。

「俺の名前は、上野葉月。弥生たちに名乗っていたのは、妹の名前だ」

「どうして、そんなことを?」

 美月さんは、また困ったように首を傾けた。駄々をこねる子供を、どうやって説得しようかと考えるように私を見下ろす。

「妹は、長い髪が自慢だった。明るくて、元気で。俺と妹はすごく仲が良かったんだ。あの日も、仕事帰りに待ち合わせをして、美月の仕事の相談に乗ってやる約束だったんだ」

「あの日?」

「美月が死んだ日。俺は早めに待ち合わせの場所に到着して、美月を待っていた。雨が降っていた。傘をさした美月が走ってくるのが見えたよ。あいつはよく転ぶから、走るなって言ったのに」

 美月さんは優しい瞳で昔を語ってくれる。しかし、一度ぎゅっと目を閉じると、深く深く息を吐き出した。

「歩行者の信号は青だった。そこへ、車がつっこんで来たんだ。美月は倒れて、あいつの持っていた傘が遠くに飛ばされた。映画でも見ているようだったよ。突っ込んで来た車は、そのまま走り去って行った。そして、美月はそのまま死んだ。俺の目の前で……」

 私は、言葉を失った。だから、美月さんは雨の日に過呼吸をおこしたのだ。車と接触した女の人を妹さんに重ねてしまったのだ。

「俺は、美月をこの世から完全に消滅させたくなかったんだ。だから髪も伸ばして、自らを美月と名乗ることした。――そうすると、鏡を見るたびにあいつがまだ生きてるみたいに思えるんだよ。俺たちは男女の双子にしては、お互い良く似ていたからね」

 ちょっと微笑みながら長い髪をかき上げる美月さんが、私はこの時とても痛々しく見えた。まだ彼の傷は全然癒えていないのだ。

「弥生は、初めて俺と会った時のことを覚えているかい?」

「もちろん、覚えています。家の近所の児童公園で――」

「俺は、その時のことを全く覚えていないんだ。気が付いたら、どういうわけか小さな女の子と男の子が、親しげに俺にまとわり付いていて、すごく驚いた。だけど、隆一の差し金だとすぐに分かった。自暴自棄になっていた俺を見かねて、あいつは俺に代わりを与えようとしたんだ」

「代わり?」

「そう、死んだ美月の代わり。初めはお前らを鬱陶しく思っていたんだ。でも、弥生も亮太も素直で可愛かった。俺はいつしか、お前らと過ごすのが楽しくなってきたんだ。あれから六年、ずっと楽しい夢を見ていたような気分だよ」

 美月さんはそう言うと、私の頭をそっと撫でた。

「もうお兄さんごっこはおしまいにしよう。俺は、この街には二度と戻って来ない」

「どうしてですか? 私が美月さんの本当の名前を知ってしまったから?」

「そうじゃないんだ。ただ、こうして弥生に全てを話すのもいい機会なのかもしれない。お前たちとは、いつかは別れるつもりだったんだ。俺にはどうしても、やらなきゃならないことがあるから」

「――妹さんの復讐ですか?」

 私の言葉に、美月さんは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに苦笑いしながら口元を歪めた。

「そんなことまで覚えていたのか。弥生はもっとまじめに授業を受けていれば、テストでもいい点取れるのに。勿体ないなぁ」

「どうして美月さんがそんなことをしなくちゃいけないんですか! ひき逃げ犯を逮捕するのは警察の仕事でしょう?」

 私は、思わず美月さんの袖に縋り付いた。恥も外聞もない。ここで美月さんを離したら、きっともう会えなくなる。

「警察は逮捕したよ。身代わりの人間をね。ひき逃げの犯人は、ちょっとした企業の社長の息子でね。金にものを言わせて口裏を合わせたんだ。俺が本当に裁いてやりたい人間は、この空の下でのんびりと暮らしているんだ」

 美月さんが悔しそうに唇を噛みしめる。

「本当に、どうしてこんなことになったんだろうなぁ。あのとき、美月と約束なんてしなければ良かったのか。あいつの死を、目の前で見なければ良かったのか。それとも俺たちが双子でなければ良かったのか――今となっては分からない。でも、俺にはそれしかやりたいことが見つからないんだ」

「私たちといても駄目ですか? やりたいこと見つかりませんか? 私は、美月さんと一緒にやりたいことが一杯あります。初めてもらったバイト代で美月さんに何かプレゼントを買いたいし、一緒に星の綺麗な所へ旅行だって行きたいし」

「弥生たちと過ごしたこの六年間、すごく楽しかった。楽しすぎて、俺の本当の目的を危うく忘れるところだったよ」

「忘れて下さい! そんなこと忘れて、私たちの側にいて下さい! お願いですから……」

 涙交じりの私の叫びを、美月さんは笑って受け流した。もう、私が何を言っても彼には何も届かないのかもしれない。

「ありがとう。弥生は、俺が今まで出会った中で一番綺麗でキラキラした存在だよ。だから、弥生にはずっと今のままでいてほしい。俺の事は忘れて、このまま美しく成長するんだよ」

 美月さんはそう言うと、私のおでこに口づけた。冷たい唇。その感触と共に、これが本当に最後になるのだと私は確信した。美月さんは、私の手の届かない遠い所へ行ってしまおうとしている。

 私の瞳に涙が溢れてきた。盛り上がってくる涙で、美月さんが見えない。私は一生懸命袖で顔を拭ったが、涙はとめどなく流れてきて、美月さんの姿をぼんやりと霞ませてしまう。

 美月さんの袖を掴んでいた私の手が、そっと優しく剥がされた。それが、私たちと美月さんの六年の終わりを告げる合図だった。

 美月さんは優しく微笑むと、私を残して去って行った。軽快な靴音を響かせて、一度も後ろを振り向かずに、美月さんは行ってしまった。

 私は本当の彼を知る代わりに、美月さんを失ってしまった。泣き崩れる私の胸には、後悔と悲しみしか湧いてこない。こんなことなら知らなければ良かった。いつまでも私たちの美月さんでいてほしかった。しかし、時間は元には戻らない。

 私はいつまでも冷たい石畳に膝をついて、去って行く美月さんの背中を見つめていた。それが見えなくなっても、ずっとずっと……。

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