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 隆一さんのマンションの着いたのは、学校を飛び出してから三十分も経っていない頃だと思う。私は日の当たらないマンションに足を踏み入れると、エレベーターのボタンを押した。普段はこの古いエレベーターを使うのは怖くて嫌なのだが、今日は走り通しで階段を上る体力が残っていない。

 不安になるような音を立てながら、エレベーターがびっくりするほど大きく揺れて一階に止まった。薄暗いその箱に入ると、私は震える指で三階のボタンを押した。隆一さんの部屋に、美月さんは居るだろうか?

 三階の廊下を歩くと、私の靴音がコツコツと響く。昼間だというのに、他の住民の姿は見えない。そういえば、ここで隆一さん以外の住民に会ったことがないことを思い出した。

 隆一さんの家の呼び鈴は壊れているので、私はこんにちは、と小さな声をかけながら玄関のドアを開けた。案の定鍵はかかってはいなかった。私はカーテンの閉め切られている室内にそっと入っていった。

 いつもなら大きな声を出して入っていくのだが、今日はそんな気分になれない。これじゃあ、泥棒と変わりがないかもしれないが、私は無言で奥の部屋へと歩いていった。じっとりと嫌な汗が出ているのは、きっと懸命に走って来たせいだろう。

 隆一さんの仕事部屋から明かりが漏れている。そのドアが少しだけ開いているのが見えた。そこから美月さんと隆一さんの声が漏れてくるのを聞いて、私はほっと安心した。

「なぁ、いい加減仕事探して就職しろよ。お前ならその面を生かしてモデルの仕事でも何でもあるだろう。一日渋谷辺りをぶらついて、スカウトでも何でもされて来いよ」

「どうしたんだよ、藪から棒に。俺がそんな仕事はしないのは、隆一だって分かってるだろう。それに、もう三十の俺にスカウトの声が本気でかかると思うか?」

 ふたりの声は廊下まで聞こえてくる。しかし、いつもと違ってその声はどこか剣呑な雰囲気を孕んでいるようだ。私は彼らの話に耳をそばだてた。隆一さんは何を言っているのだろう。美月さんは、もうとっくに就職しているはずなのに。

「じゃあ、量販店の下着のモデルでも何でもいいよ。とにかく、まっとうに生きろって俺は言ってるんだよ」

「お前がそれを言うか。一日中パソコン見ながら家に引きこもってる癖に」 

「俺はこういう仕事なの。モデルが嫌なら俺が雇ってこき使ってやるから、とにかく仕事に就けって。――なぁ葉月。一体いつまでもチビ共に嘘を吐き続けるつもりなんだ?」

 隆一さんの言葉に、私は耳を疑った。葉月? 嘘? 一体何のことを話しているの。

「お前がヒモみたいな生活して、女からもらった小遣いであいつらに飯を奢ってると知ったら、亮太も弥生もどんな思いをするか分かるか? お前はあいつらの憧れのお兄さんなんだよ。それに、兄貴のお前がそんなんじゃ、死んだ妹の美月だって浮かばれねぇよ」

 隆一さんのため息が大仰に聞こえる。私は彼らが何の話をしているのか分からずに、廊下にずっと佇んでいた。

 部屋の中にいるのは、葉月という人らしい。どうして? 確かに美月さんの声が聞こえているのに……。私は少しだけ開いているドアの隙間から、中の様子をそっと窺った。艶々と輝く長い髪の男性。あれは、間違いなく美月さんだ。

「もう、全部終わりにしてこっちに戻ってこいよ。過去の事にこだわり続けるよりも、自分の幸せを考えろ。美月だって、復讐なんて望んでないはずだ」

 丸いお腹をこちらに向けて不機嫌な顔をしている隆一さんが、また大きなため息を吐いた。どうして美月さんを葉月なんて呼ぶの? 今日の隆一さんは、なぜだかいつもよりも怖い。

「隆一には分からないんだ。美月が、どんな風に死んでいったのか知らないからそんなことが言えるんだよ」

 美月さんは背中を向けているので、どんな表情をしているのかわからない。美月さんの癖のない真っ黒な髪だけが蛍光灯の光を跳ね返しているのが見えた。

「確かに、俺はお前と違って後から美月の訃報を聞かされたよ。それでも、美月が死んだことは俺にとってもショックだった。でもな、葉月が今しようとしていることは、お前を更に不幸にするだけだ。美月がお前の不幸を望んでいるなんて、俺にはどうしても思えない」

「俺のことは、俺が決める。――出かけてくるよ。美月の墓参りに」

 美月さんが急に立ち上がると、私が立ちすくんでいる目の前のドアを開けた。身を隠していたものがなくなり、ふたりの前に私の姿が露わになる。

「あ……」

「弥生。いつからここに?」

「ちょっと前から、です」

「――今聞いたことは、全部忘れなさい」

 美月さんは私の頭を軽く撫でると、少し寂しそうな顔をしてそのまま玄関から出て行った。私はその後ろ姿を見送りながら、美月さんがどこか遠くに行ってしまうような気がした。

 美月さん、どうして何にも言ってくれないんですか? これじゃあ、今の話がその通りだって言っているようなものです。

 私は部屋の中で渋い顔をしている隆一さんを振り返った。隆一さんは私と目が合うとすぐに視線を逸らし、くるりと椅子を回転させてパソコンの画面に向き直った。

「隆一さん! 今の話――」

「俺からは話せることは、何もねぇよ」

 ずんぐりした背中を向けながら、隆一さんはぶっきら棒に言い放った。その間も、キーボードを叩く音は休むことなくカタカタと鳴っている。

「でも、美月さんが死んだって――」

「話すことはない。それに、お前学校はどうしたんだ? 今すぐに行ってこい」

 取りつく島もないとはこのことだ。隆一さんは一度も私の方を見なかった。私はすごすごと引き下がって隆一さんの部屋から出て行った。

 美月さんも隆一さんも、どうして私には何も教えてくれないのだろう。私は美月さんの事を何も知らなかったのだ。彼の仕事も、住んでいる場所も、本当の名前さえも。

 頭の悪い私でも、あの会話を聞けば嫌でも分かる。美月さんの本当の名前は、葉月というのだ。彼は私たちに、正確には私と亮太にだけ、死んだ妹の名前を名乗っていたのだ。

「どうして? どうして、どうして!」

 嘘を吐かれていた。美月さんは、美月さんじゃなかった。そんな言葉が私の頭の中を駆け巡る。

 私の震えるほど強張っていた拳から、急に力が抜けていった。もう何が本当なのか分からない。私は、自分の存在の薄さに絶望していた。

 裏切られた。信用されていなかった。美月さんにとって、私は所詮その程度の存在だったのだ。私は、本当の美月さんを何一つ理解できていなかった……。

 私は、隆一さんの部屋の前で声を殺して泣いた。

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