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 私は歩いた。とにかく、どこかに向かって。あのまま店のテーブルに、何でもない顔をして座っていられるほど私は強くない。

 私の脳裏には、美月さんと武井さんのあの時の映像が絶え間なく浮上しては、何度も何度も再生を繰り返していた。

 どこで間違ってしまったのだろう。今日も本当だったら楽しい時間を過ごせていたはずだったのに……。

 私はいつの間にか涙を流していた。周りの人々が私を振り返って好機の目で見ていたが、そんなことを気にする余裕は全然ない。私はただ、気の向くまま足の向くままにふらふらと街をさまようように歩いていた。

 気が付くと、いつの間にか太陽はとっぷりと暮れていて、街には赤と緑のネオンが灯されていた。クリスマスの足音が華やかに聞こえてくるようだ。

 いつもは美月さんたちと過ごしていたクリスマスがもうすぐやってくる。でも、今年は? やめよう。私は美月さんの事を考えないように、頭の中身を空っぽにしようとしていた。

 でも、それは初めから上手くいかなかった。私は美月さんの事を考えずにはいられない。こんなに人を好きになったのは、初めての事だった。

 私は人目も憚らず、立ち止まって声を殺して泣いた。叶わなかった私の思い、こんな形でしか発散させてあげられなくてごめん。私はこのとき、ただ私だけのために泣いた。

 どれくらい泣けば、美月さんの幸せを祝うことが出来るだろう。今はなにも分からない。自分の気持ちを葬ることも出来ずにいる私には、そんなことは分かりっこないのだ。

 私は、いつの間にか隆一さんの住んでいるマンションに来ていた。誰かにこのことを話せるとしたら、隆一さんを置いて他にはいないだろう。亮太は、今は朝生さんにかかりきりだと思うから。

 蛍光灯の明かりが点滅しているエントランスを通り抜け、私は階段で三階まで上った。表札に、マジックで如月と書かれた部屋のチャイムを押す。鳴らない。そういえば、去年もチャイムは壊れて鳴らなかったことを思い出した。隆一さんは出不精の上にものぐさらしい。

 私はお邪魔します、と声をかけながら玄関のドアを引いた。抵抗なく開くドアを見て、隆一さんの項目に不用心も付け足しておいた。

 電気の点いていない殺風景なリビングを通り抜け、明かりがほんのりともれてくる奥の部屋を目指す。確か、そこはパソコンが置いてある部屋で、隆一さんの仕事部屋となっていた。隆一さんは、いつもその部屋にいることが多い。私はその部屋のドアを三回ノックした。

「はい」

 中から億劫そうな声が聞こえた。そろそろとドアを開けると、眩しい光が暗がりに慣れた目に痛みを与えた。

 部屋の中には、四台のパソコンが置かれていて、それぞれのディスプレイに波のような形のグラフが映っている。それらは一定の時間が経つと自動で更新されるようで、勝手に新しい波の形が作り出されていく。

 部屋中に伸びているコードは、お互いが絡まりあって見苦しい上に、それに足を取られそうになるので危険この上ない。この部屋の主はこちらに背中を向けたまま、中央にでっぷりと鎮座していた。

 そんないつもの様子と変わりない隆一さんの姿を見て、私は不覚にもまた涙がこぼれてきた。

「隆一さん……」

 涙声の私に気が付いた隆一さんが、驚いた顔で振り向いた。

「何だ、弥生か。珍しいなお前が一人でここに来るなんて――」

「隆一、さぁん」

 突然泣き出した私を見て、隆一さんは丸いお腹を揺らして椅子から降りてきた。

「何だ? 突然出て来て泣くなよ。これだからガキは訳が分からん」

「だって――美月さんがぁ」

「また倒れたのかっ」

「そうじゃ、ありません」

「じゃあ何なんだよ、一体」

 隆一さんは不機嫌に頭を掻いた後、側にあったティッシュペーパーを引き寄せ私に差し出した。私はそれで涙を拭った。

「落ち着いたか?」

「……はい」

「じゃあ、何があったのか話してみろ」

 私は何から話をすればいいのか分からなくなった。今日は五人で出かけたこと。美月さんと武井さんがキスをしていたこと。思い出しただけで、また私の目には涙が浮かんでくる。

「あぁ、もう。泣くなよ鬱陶しい」

「酷い……鬱陶しいって何ですか」

「人の部屋に来ていきなりめそめそするんじゃない。泣けば慰めてもらえると思ったら大間違いだ」

「うぅ。隆一さんの鬼ぃ」

「鬼で結構。今ココアを作ってきてやるから、それまでに泣き止んでおけよ」

 私の目頭がまた熱くなってきたのを察して、隆一さんはティッシュペーパーを箱ごと私に押し付けると、部屋を出て行った。

 なんだそれ。私はつい肩の力が抜けて笑いたくなった。鬼が手ずからココアを入れてくれるだろうか。結局隆一さんは口で言うほど厳しくは出来ないようだ。昔から、面倒見の良いお兄さんなのだ。

 しばらくして、隆一さんの淹れてくれた熱々のココアを飲むうちに、私の気持ちはだんだんと落ち着いていった。

 私は、ポツリポツリとさっきの出来事を隆一さんに話し始めた。気持ちが先行してうまく話せない部分も、隆一さんは焦らずにきちんと聞いてくれた。

「弥生の気持ちも、まぁ分からなくはない。お前はあいつのことが好きだからな」

 そんな直球で言われると照れくさいが、私は隆一さんの言葉に頷いた。

「昔は俺のことが好きだったくせにな」

「……何年前の話をしてるんですか。あのとき、私はまだ幼稚園に通ってたんですよ」

 隆一さんはにやにや笑いながら、自分用に淹れたコーヒーのカップを傾ける。

「覚えてるよ。黄色い帽子かぶってなぁ。あのときの『結婚してください』には参ったな」

「参ったのはこっちの方ですよ。その後、隆一さんがなんて返事したか覚えてますか? 『五歳児と結婚なんかできるか阿呆』って言ったんですよ。今でも軽くトラウマですよ」

 隆一さんのにやにやは止まらない。

「十七歳なら結婚出来るぞ」

「二十キロ減量してから言ってください」

「いいなぁ、三十で十七歳の嫁か」

 私はため息を吐いた。人生で初めての失恋がそれだなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。しかし、今度の失恋だって悲惨なことには変わりがない。下手に時間をかけてしまったおかげで、もう取り返しのつかないところまで心がダメージを負ってしまった。

 おまけに、今度のそれは私から水分をとことん奪い去っていくつもりらしい。補給したところで、これではとてもじゃないが追いつかない。

「だから、もう泣くなって。あいつにとって、お前と亮太は特別なんだよ。恋愛とかそういうものじゃないかもしれないが、あいつはお前のことをすごく大切に思っているよ」

「どうしてそんなことが分かるんですか? 私なんて背も低いし、子供っぽいし、おまけに……可愛くもないし。私には、美月さんが特別に思ってくれるような要素なんて、何一つないんです」

「今日はやけに自虐的だな。心配しなくても、今にあいつがお前探しにここまで来るさ」

 隆一さんがそう言い終わらないうちに、玄関のドアが荒々しく開く音が聞こえた。

「な、言ったろ」

 振り返ると、そこには息を切らした美月さんがいつの間にか立っていた。肩で息をしているのは、走って来たからだろうか。

「隆一、悪いけど一時間だけ出かけてきてくれないか」

「ここの家主は俺だぞ」

「頼むよ」

 美月さんが隆一さんの肩をポンと叩くと、隆一さんはしぶしぶといった様子で立ち上がった。

「一時間だけだからな」

 それだけ言い残して、隆一さんは部屋を出て行った。

「弥生」

 美月さんが私の隣に座る気配がした。私は美月さんの目を見ることが出来ずに、ずっと下を向いていた。

「どうして急に出て行ったんだ?」

 美月さんが私の髪を優しく梳いた。私の大好きな大きくて暖かい手だ。でも、その手は武井さんの腰に添えられていた手だ。美月さんの優しい言葉を吐く唇は、武井さんに与えた唇だ。

 私の涙腺は、もう泣きすぎて壊れてしまったのかもしれない。

「泣かないで。弥生に泣かれると辛い」

「どうしてですか? だって、泣かせたのは美月さんですよ」

 顔を上げると、美月さんの悲しそうな瞳にぶつかった。美月さんは、私の頬を流れる涙を指で掬うように受け止めた。

「どうして、武井さんとキスしたんですか?」

 頬に当てられた美月さんの指が、ぴたりと止まった。

「私にもして欲しいって言ったら――してくれますか?」

 美月さんは首を振った。

「弥生には、そういう事はしたくない」

「私がお子様だから?」

「違う。弥生は特別だから。本当に大事に思っているから、そんなことはしたくないんだ」

「でも、武井さんとはしたのに」

「彼女は、大事な人じゃない」

「分かりません。キスって大事な人とするものでしょう?」

「そうとは限らないことも、世の中にはあるんだよ」

「……分かりません」

「分からなくていい。弥生は今のままでいてくれればいいんだ。何でも割り切ってしまう、薄汚れた大人になんてなって欲しくないんだ」

「どうしてですか? 私は早く大人になりたい」

「大人になったって、嫌なことばかりだ。俺は、弥生にはいつまでも無垢なままでいて欲しいんだよ」

 美月さんは、突然私を腕の中に抱え込んだ。いつも彼がつけている甘い香水の匂いがふわりと香った。美月さんの香りだ。

「あのふたりが弥生の友達じゃないことはすぐに分かったよ。弥生は、ああいうタイプとは普段あまり付き合わないだろう」

 美月さんはちょっと笑うと、私の髪にそっと顔を寄せた。つむじの辺りに熱い息がかかり、私の背中はたちまち粟立った。

「弥生は拗ねるとすぐに顔にでる。分かりやすくて可愛いよ」

 私の耳に、美月さんの抑えた笑い声が忍び込む。

「でも、心配しなくても彼女たちはあの後すぐに帰ってもらう約束だったんだ」

「約束?」

「そう、交換条件といった方が正確かな」

 私は顔を上げて美月さんを見つめた。いつもと同じ笑顔の裏に、飄々とした表情を見た気がした。

「だから、武井さんとキスしたんですか」

 美月さんの笑みは深まるばかりだ。私はそんな彼にショックを受けた。

「私、美月さんが武井さんの事を好きになったんだと思ってました。だから武井さんの気持ちに答えたんだって――でも、そうじゃないんですね」

「大人はね、好きな人じゃなくてもキスをしたり、それ以上の事が出来るものなんだ。いや、最近では子どもだってそうだな」

「え?」

「あの武井さんっていう娘は、俺の事なんて本当は好きじゃないんだ」

「でも、彼女は美月さんの事を素敵だって言っていました」

「あぁ。確かに好みだと言われたよ。でもそれだけ。彼女は俺の容姿がたまたま気に入っただけだ」

 美月さんは白い歯を見せて微笑んだ。

「俺の中身も何も知らない癖に、突然好きだと言われても、そんなの本当の好きとは違うだろう?」

 そう同意を求められ、私は戸惑いながらこくりと頷いた。

 美月さんは、どうしてそんな風に笑っていられるんだろう。好きじゃない人とキスをして、何でもないことのように笑っていられる美月さんに、私は空恐ろしさを感じた。

「でも、本当の好きって一体何だろうな」

 私を覗き込む美月さんの瞳が、遠くを見つめるようにすぅっと細まった。それは、とても冷めて乾いた瞳だった。

 私は、自分の気持ちを美月さんに伝えたくなった。今言わなければ、きっと一生言う機会はないのかもしれない。私は美月さんのジャケットの袖を引いた。その小さな動きを感じて、美月さんが視線を下げる。

「私は、美月さんのことが……好きです。ずっとずっと前から――今だって、美月さんの事が大好きです」

 私の一世一代の告白は、飾る言葉も見当たらずに、ただ一生懸命に美月さんにぶつけることしか出来なかった。

 私の青臭いだけの告白に、美月さんはふぅとため息ともつかない息を吐き出した。

「知っていたよ。俺もずっと前から」

 美月さんは私の前髪をそっとかきあげると、私の額に唇を落とした。柔らかいそれが私の額に触れて、私は身を震わせた。

「ありがとう。弥生の気持ちはとても嬉しい」

 そういうと、美月さんは二度三度と私の額に唇を寄せた。私は目を閉じた。止まりかけていた涙が、一筋また流れていった。

「どうした、嫌だった?」

 美月さんが慌てて私の顔を覗き込んだ。私は首を横に振る。

「頭が爆発しそうです」

 私の言葉に美月さんは低く笑うと、私の肩をぐっと強く引き寄せた。そうすると、体中余すことなく美月さんと密着する。それはとても心地良い感触だった。人は、誰かと合わさりたくて生きているのかもしれない。

 私はその心地よい感触に逆らわずに、美月さんに体重を預ける。甘い香水の香りに満たされた。

「でも、俺はその気持ちには応えられない」

 美月さんの手に力が籠った。

「本当は、俺とこれ以上一緒にいるのが弥生や亮太のためにならないことは分かっているんだ。だけどお前たちと離れるのは……すごく辛い」

 美月さんの髪がさらさらと流れて私の首元をくすぐった。

「駄目な奴なんだ。俺」

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