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私は今日、朝からとても上機嫌で一日を過ごしていた。普段ならば退屈で仕方ない学校の授業も、始終朗らかな気持ちで受けることが出来た。その分内容を理解出来ているのかといえば、一概にそうとは言えないのだけれど……。
この、はたから見たら異様なまでの上機嫌の原因は、昨日かかってきた電話にあった。
隆一さんの車で家に送ってもらった直後、美月さんから私の家に電話がかかってきたのだ。美月さんはまず、昨日の過呼吸のことを丁寧に謝り、その分の埋め合わせを明日したいからと言って、私のお母さんを電話口に出すように私に頼んだ。
私はそれを不思議に思いながらも、お母さんを呼んだ。美月さんとは長い付き合いだ。当然、お母さんも美月さんのことは良く知っている。受話器を手にすると、お母さんはコロコロと笑いながら美月さんと話をしていた。
「ねぇ、お母さん。何の電話だったの?」
「美月君がね、明日の弥生の門限を少し遅らせて欲しいって」
「え?」
「明日、あんたと亮太君を買い物に連れて行ってくれるそうよ。夕飯もご馳走したいから、少しだけ遅くなる許可を下さいって」
「お母さんなんて答えたの?」
「いいですよって言ったわよ」
「本当?」
「美月君なら安心だわ。でも、ご馳走になるばっかりじゃ悪いからあんたもお小遣い持って行きなさいよ。そのためにバイト始めたんでしょう」
「ありがとう。理解のあるお母さんで嬉しい」
「その代わり、一分でも家に着くのが遅かったら外出禁止にするからね」
「はい。気をつけます」
こうして、美月さんのおかげで私の門限は一時間だけ伸びたのだ。
私は鼻歌を歌いながら、教科書をバックに詰め始めた。これから出かけるのだから、できるだけ荷物は少なくしたほうが良さそうだ。
「ねぇ、深見さん」
不意に声をかけられて顔を上げると、ちょうど私の席に近づいてくるふたり組と目があった。
「ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな?」
私の前の空席に座り、後ろを向きながらそう切り出してきたのは、同じクラスの武井希望さんだ。彼女はふっくらとした唇に艶やかなグロスを光らせて、ぱっちりとした大きな瞳で私の顔を覗き込む。高校生とは思えないほど大人っぽい美人だ。
「突然押しかけておいて、いきなり頼み事だなんて本当にごめんね」
武井さんの横に立つのは、隣のクラスの朝生霞さん。恐縮するように微笑む彼女の白い頬に、長い睫の影が落ちる。こちらも武井さんに負けないぐらいの美少女だ。
私は彼女たちに圧倒されながらも要件を促した。普段からあまり話をしたことのないふたりに話しかけられると、なんだか妙に緊張してしまう。
「実はさ、紹介してほしい人がいるんだよね」
「紹介してほしい人?」
「昨日、深見さんを迎えに来ていた人がいたでしょう? 髪が長くて、背の高い男の人」
武井さんは、いっそう身を乗り出して話しを進める。私はなんだか、とても嫌な予感がした。
「遠目にちらっと見ただけなんだけどさぁ、すごく恰好良い人だったよね。私、どうしてもあの人と知り合いになりたいんだ」
熱っぽく歌うように両手を合わせる武井さんに、私は曖昧な相槌しか返せない。
「だからさぁ、私たちにあの人のことを紹介してほしいの。今度彼と会うときにさ、私たちも一緒に行ってもいいでしょう?」
「え?」
私は驚いて武井さんを見返した。その瞳は真剣そのものだ。隣に立っている朝生さんを見上げると、彼女も頬を染めながらこくりと頷いた。どうやら、朝生さんも美月さんにやられてしまったらしい。
「ねぇ、お願い。一回でいいから一緒させて。紹介さえしてくれたら、後は自分たちで連絡先とか交換するから」
私は、その言葉にどきっとした。連絡先の交換……。それは私にだって出来ていないことだ。しかし、武井さんの濡れて光る唇には余裕の笑みが浮かんでいる。もしかすると、彼女は美月さんの電話番号をやすやすと手に入れることが出来るのかもしれない。
私は胸から湧き上がる焦りに似た気持ちに戸惑いながら、なんと言って断ろうかと考えた。美月さんと過ごすあの心地よくてドキドキする時間は、私と亮太だけのものであって欲しい。子供っぽい我儘だと自分でも思うが、美月さんが他の人に笑いかける場面を想像するだけで、私の胸はちくちくと痛んだ。
「ごめんね。美月さんと会うときには、いつも如月亮太も一緒なんだ。だから、私だけの一存では決められないんだよね」
私は、期待に満ちた顔を寄せるふたりに丁寧に謝った。しかし、武井さんはにこりと微笑んでから、茶色い髪をかきあげた。勝ち誇ったような彼女の笑顔。私の嫌な予感は、ますます激しく自己主張を繰り返す。
「それなら大丈夫。如月には、もう朝生が了解取ってあるから」
「え、そうなの……?」
武井さんの返事に、私はすっかりうろたえてしまった。亮太がもう彼女たちの同行を許してしまっているなんて、普段ならば考えられないことだ。
「じゃ、決まりだね」
武井さんは、私の返事も聞かずに、もう用事は済んだと言わんばかりに立ち上がった。
「それで、今度はいつ彼と約束してるの?」
私はとっさに返事が出来ずに、眉間に皺を寄せながら黙り込んだ。美月さんは、今日も校門に迎えに来ると言っていた。そのことを、このふたりに隠しておくわけにもいかない。
私は仕方なく、もう少しで美月さんが到着するころだとふたりに告げた。その途端、武井さんは突然黄色い声を上げた。教室にいたみんなが一斉に私たちを振り返る。
「うそ、今日会えるの? やだ、もっとちゃんと化粧しておけば良かった」
「今からでも十分間に合うよ。深見さん、帰るときには私たちにも一声かけてくれる? 私たちトイレにいるから」
私は朝生さんの申し出に頷きながら、ため息を吐きたいのを必死で我慢した。ふたりが嵐のように去っていくのを見ながら、私は自分の席から立ち上がった。
結局、押し切られる形で私も武井さんたちの同行を許してしまった。断りきれなかった自分が不甲斐ない。しかし、亮太が先に彼女たちに了解をだしていたことに、私は腹が立っていた。
どうして突然他の人を入れたりするの? 亮太はそれで構わないの?
怒りに肩を震わせながら隣のクラスに入ると、もうホームルームを終えてほとんどの生徒が帰宅しているところだった。私は亮太に近づくと、奴の隣の席に無言で座った。
亮太は私を見ると、ばつの悪そうな顔をした。
「朝生たち、やっぱりお前の所にも行った?」
「もちろん来たよ。何で彼女たちにオーケイ出したの?」
「別に、駄目な理由なんてないだろう」
「何で? 私たち以外の人を今まで入れたことないじゃない」
「今回だけなんだから別に平気だろう。美月さんだって、きっと構わないって言ってくれるさ」
亮太はそう言うと、私から目線を逸らした。それを見て、私はぴんときた。
「どっち?」
「……何が?」
「どっちが好きなの? 武井さんと、朝生さん」
「な、馬鹿お前――何言ってんだよ」
焦るその顔は、正解ですと言っているようなものだ。亮太は口元を手で押さえながら、何言ってんだよ。と繰り返す。
「言わないと、ふたりにそのことをばらしてやる」
「な、お前最悪だな」
「最悪なのはそっちでしょう!」
私は亮太の机をバンと叩いた。
「……悪かったよ。朝生のこと結構前から気になってたんだけど、話すきっかけがなかなかなくて。だから、つい承諾しちゃったんだよ」
「でも、彼女たちの目当ては美月さんだよ。それでもいいの?」
「いい。きっかけさえ作れれば、今はそれでいいんだ」
渋い顔をしながらも、亮太は無理やり頷いた。自分でも望みが薄いのは分かっているのだ。それでも、麻生さんと話すきっかけが作れるのならば、という心掛け。殊勝だ。恋をする男子とはこいつの為にあるような言葉だ。
「そういうことならもう良いよ。私も騒いでごめん。ちょっと大人げなかった」
「いや、俺こそ悪かったよ」
私は首を振った。そういうことなら話は別だ。私も亮太の恋の応援もしてやろうという気持ちになってくる。
「武井さんたちに声かけてくるから、亮太も帰り支度しといて。校門で美月さんを待とう」
私は自分の鞄を取りに行ってから、トイレに居ると言っていたふたりを呼びに行く。掃除当番の生徒に断ってからドアを開けると、武井さんと朝生さんが鏡の前に顔を近づけるようにして化粧をしていた。
「もう行くの?」
私を見つけた武井さんが、ポーチに化粧道具を片付け始めた。その顔にはしっとりとした化粧が施されていて、戦闘態勢ばっちりに見えた。スカートも普段よりもぐっと短くしてあり、準備は万事整っているようだ。
「校門で待ち合わせているから、そろそろ出ておいたほうがいいと思う」
私はふたりに頷いてみせた。ふと目についた鏡には、華やかな美人ふたりと、とても幼い子供のような顔をした私が映っている。私は、何となく目を伏せた。このふたりと並んで歩くのは、そうとうな勇気が必要だ。
「じゃあ、早速行こうか」
武井さんの声は弾んでいた。自分に自信があることをその声が物語っている。私はため息を吐きたい気持ちを我慢して、彼女たちに付いていった。
私たちが連れだってトイレから出てくると、亮太は言われた通り廊下で私たちを待っていた。
「そういえばさぁ、如月と深見さんはあの人とはどういう知り合いなの?」
武井さんの質問に、私と亮太はお互いの顔を見合わせた。今まで考えもしなかったが、私たちにとって美月さんとはどういう存在なのだろう。
「うーん、なんだ? しいて言うなら、小学生のときから遊んでもらってる年上の友達――かな」
亮太の答えに、私も一応頷いた。私たちと美月さんは、たぶんそんな関係だ。でも、それも何だか違う気もする。言葉では言い表せられないような、もっと濃密なそんな繋がりだと私は思った。
「名前は、確か美月さんで良かったんだよね」
朝生さんの問いに、亮太は多少固くなりながらぶっきらぼうに頷いた。そんな態度をしていると、本当に望みがなくなってしまうだろうに。私は亮太の不甲斐なさに半ば呆れた。最近の小学生だって、もっとちゃんとした恋愛をしているはずだ。
「美月さんっていくつなの? ちょっと年上そうだよね」
「そういえば、美月さんっていくつだろう?」
私は首を傾げた。美月さんは年齢を感じさせない人だが、よくよく考えてみると相当年上のはずだ。
「俺の兄貴と同い年だから――そうか、美月さんもう三十なんだ」
亮太が灌漑深そうにそう言うと、全員目を丸くした。私も美月さんの年齢を改めて聞いて感心してしまった。美月さんの若々しさに。
美月さんは、出会ったときから少しも変わらない。髪が年々伸びていること以外は、外見には少しの変化もない。いつでも明るくて、優しくて、私の憧れの人だ。
「ねぇ、あれじゃない? もう来てるよ」
武井さんの少し上ずった声を聞いて、私は校門に目をやった。黒いデニムのパンツにラフなジャケット、首にさし色の明るい色のマフラーを巻いた美月さんが、昨日と同じように校門にもたれて立っていた。声を上げる私たちを見つけて、彼はいつものように軽く手を上げた。