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「どうだった?」
車に乗り込んでから、美月さんは私たちに感想を求めた。
「面白かったです。星ってこんなに綺麗だったんですね」
「そう言ってもらえて良かった。亮太は?」
「あ――すんません。俺ちょっと寝てました」
亮太は素直に謝って頭を掻いた。こいつはどこか憎めない性格をしている。そんな素直なところは昔からちっとも変わらない。
「じゃあ、やっぱり亮太は罰ゲームだなぁ」
美月さんは綺麗な顔をにやりと歪めながらゆっくりと車を発進させた。雨がまだ降り注ぐ濡れた街を、美月さんは軽快に車を走らせる。雨はいつしか本降りになっていて、私は窓から煙るように輪郭を滲ませる街並みを眺めた。
「罰ゲーム受けるの俺だけですか? 弥生、お前はちゃんと答え分かってるのかよ」
「私は亮太と違って、ちゃんと話を聞いてたから分かるもん。答えは、シリウス。大犬座の一等星だよ」
私は得意げに胸を張った。美月さんが正解、と大きく頷く。
「そう、シリウスは大犬座のちょうど鼻の部分に当たる一番明るい星なんだ。ギリシャ語で『焼き尽くすもの』という語源からその名が付けられたんだよ」
前だけを見て語る美月さんの言葉は、酷く淡々としていた。彼のその口調に違和感を覚え、私は首を傾げて美月さんの顔を窺った。美月さんの好きな星は、どうやら物騒な由来があるようだ。一際美しく輝いていた星の、凶暴な一面を覗いてしまったような気がして、私は急に不安になった。
「焼き尽くすもの……。今の俺にぴったりの星だ」
誰とはなしに、美月さんは小さく呟いた。冬の夜空に輝く美月さんの一番好きな星。
私はこのとき、美月さんのことをほとんど何も知らないことに初めて気がついた。美月さんの勤めている会社も、住んでいる場所も、携帯の番号も――彼の苗字さえも。私は悲しいくらい何も知らされていない。
私にとって、美月さんが側にいてくれることが重要だった。美月さんさえ帰ってきてくれたら、それだけで何も必要ない。そう思い込もうとしていたのだ。
でも、と今になって思う。本当はもっと知りたい。美月さんの中にもう一歩深く踏み込んでみたい。でもそれをした途端、今までの関係が崩れてしまいそうな気がして何だか怖い。
「美月さん、あの……」
私は思い切って美月さんに声をかけた。信号待ちをしている美月さんは、助手席の私の方を振り向いて首を傾げる。
「聞きたいことがあるんです――」
私の言葉を遮るように、突然辺りにクラクションの音がけたたましく鳴り響いた。見ると、目の前の横断歩道を歩いていた若い女性が、道路に倒れている。白いコートと長い髪が濡れた道路に広がり、持っていた傘が少し離れた場所にひしゃげて落ちていた。
私は窓を開けて身を乗り出した。キャーと言う叫び声と、怒号のような声が道に溢れている。接触事故が起きたらしい。幸い、女性は転倒しただけで大した怪我ではなさそうだ。
「びっくりしたなぁ」
亮太も窓から乗り出して、目を丸くしている。
「あれは、車乗ってる奴が悪い。ねぇ、美月さん? ――美月さん?」
亮太が突然、座席の間から運転席に顔を出した。私も、亮太の不思議そうな声につられて美月さんを振り返る。
美月さんは真っ青な顔をして、ハンドルにもたれるように俯いていた。速くて浅い呼吸音は、何か苦しいことを我慢しているようだ。
「美月さん! どうしたんですか?」
私は美月さんの肩に手を置いた。震えている。美月さんは苦しそうに胸を押さえると、大丈夫だと言うように、私たちに片手を上げた。その手も小刻みに震えているのを見て、私たちはいよいよ美月さんの様子がおかしいことに気がついた。
「美月さん、車止めましょう。そこの交差点過ぎたところが空いてるから」
私は後ろから鳴らされるクラクションの音を忌々しく思いながら、美月さんの背中を摩った。信号はとっくに青に変わっていた。
美月さんはゆっくりと車を動かすと、私の示す場所に停車する。私はすかさず、ハザードランプのボタンを押した。
「亮太、隆一さんに電話して。車取りに来てもらおう。私は美月さんを病院に連れて行くから」
亮太は何度も頷いて、鞄から携帯電話を取り出した。ボタンを押す手が震えているのは、この際しょうがない。かくいう私も、美月さんの背中を摩る手が心なしか震えていた。
「兄貴、すぐ来てくれよ。車乗って帰れなくなったんだ。仕事なんてほっとけよ。美月さんが大変なんだ。突然震えだして、息も苦しそうだし――は? ビニール袋?」
亮太は上ずった声で私を見た。
「ビニール袋ある?」
「急に言われても、そんなの持ってないよ」
「弥生も無いって。え、タオルでもいい? 弥生タオル!」
私は慌てて鞄の中をひっくり返して、スポーツタオルを取り出した。
「あったよ兄貴。それを――美月さんの口元に当てればいいんだな」
私は聞こえてくる亮太の声にしたがって、美月さんの口元にタオルを当てがった。長い髪を掻き分けて、丸めたタオルを美月さんの口元に当て続ける。
美月さんは、縋りつくように私のその手をぐっと掴んだ。その強い力に、どれだけ美月さんが苦しんでいるのかを知って、私の目に涙が浮かんできた。
は、は、は、と苦しそうだった美月さんの呼吸が、少しだけ深くなってくる。
「それを美月さんの呼吸が楽になるまで続けてくれ。今から兄貴が来るから、それまでここで待ってろってさ」
「美月さんどうしちゃったの? 救急車呼ばなくていいの?」
私は、美月さんの口元からタオルを離さないように両手で押さえながら、亮太を振り返った。亮太は焦った顔をしながらも、先ほどよりは少し落ち着いた表情を見せている。
「大丈夫。兄貴の話では、直に治まるらしい」
「でも――」
「過呼吸っていうそうだ。二酸化炭素が足りなくて起きる症状らしいから、自分の吐く二酸化炭素を吸わせると治まるって。本当はビニール袋がいいんだけど、無いからタオルで」
「そう、なの……?」
私は震える美月さんの広い背中を見つめた。こんな美月さんは今まで見た事がなかった。私の頬に、後から後から涙が伝って落ちてくる。
「俺、そこのコンビニで飲み物買ってくるから、美月さん見ていろよ」
亮太はひらりと車を降りると、傘も差さずにコンビニへと走った。私はその背中を見送りながら、美月さんの息で熱くなったタオルを一生懸命支えた。不意に、私の手首を掴んでいた美月さんの手から、力が抜けた。
「美月さん?」
美月さんは上体をゆっくりと起こすと、まだ瞼を閉じたまま大きく息を吐き出した。その額から、汗の玉が一つ滑り落ちる。
「もう、大丈夫。ごめんな、びっくりさせて」
「美月さん、本当に大丈夫?」
「あぁ。お陰で、大分楽になったよ」
何度も頷く美月さんの手の震えは、いつの間にか収まっていた。それを見た途端、強張っていた私の体から一気に力が抜け、助手席にへなへなと崩れ落ちていた。安心した途端、涙が更に溢れてくる。
「びっくり、しました。美月さん、すごく苦しそうだったから……」
私はこらえきれずに、顔を両手で覆った。
「ごめんな」
美月さんは私の背中に手を乗せて、私がそうしていたように、そっと何度も撫でてくれた。
「この阿呆が」
駆けつけた隆一さんは、開口一番に美月さんに向かってそう告げた。傘からはみ出て濡れてしまった肩とお腹の水滴を払いながら、隆一さんは運転席の美月さんを追い出して自分がそこに納まった。大分窮屈そうなのは、誰が見ても明らかだったが、皆何も言わなかった。
「ガキ共。送ってやるから今日は大人しく帰れよ」
少し乱暴に車を発進させてから、隆一さんは助手席に座る私と、後部座席の亮太をじろりと睨む。家から引っ張り出されたせいで、随分機嫌が悪そうだ。
「俺も兄貴の家まで付いていくよ」
「ずるい、亮太が行くなら私も行きたいです」
隆一さんの肉に押された細い目が、きゅっと釣りあがった。それを見て、美月さんがため息を吐く。
「ふたりともごめん。今日はこのまま帰ろう。また明日、学校に迎えに行くから」
「車はもう貸さないぞ」
隆一さんが、すかさず口を挟む。
「悪かったよ、隆一。もうこんなことで呼び出したりしないから機嫌直せよ」
「お前は――俺が何で怒ってるのか、全然分かっていないな」
隆一さんは、後ろの美月さんを振り返った。運転しながらそんなことをするのは控えて欲しいと思ったが、隆一さんに意見することなど私には出来なかった。隆一さんは静かに、しかし激しく怒っているのだ。
「お前、ちゃんと東京で医者に通ってるんだろうな?」
「……前見て運転してくれよ」
美月さんが肩を竦めて前を指差す。私も亮太も、その通りだとばかりに頷くと、隆一さんは舌打ちしてから、むっつりと黙り込んで前を向く。
「あんまり心配かけるんじゃねぇよ」
隆一さんの小さな声が、静かな車内に広がった。口では怒っているようなことばかり言っていても、隆一さんは美月さんを心配していていたのだ。
私は不機嫌そうな隆一さんを見て、くすりと忍び笑いを漏らした。口が悪くても、怖そうに見えても、隆一さんは本当はとても優しいのだ。
「弥生、お前ここで放り出されたいか?」
「す、すいません」
私は慌てて、口元に滲んでいた笑みを消して前を見た。左右に揺れるワイパー越しに、どんよりと暗い色をした空が見える。
「この雨じゃ、今夜は星が見えないですね」
「今日のおさらい? 弥生は勉強熱心だな」
私は美月さんに褒められて、嬉しくて頭を掻いた。後ろで亮太が鼻で笑う声が聞こえた。
「プラネタリウムも綺麗だけど、本物の星はもっと綺麗なんだ。初めて知っている星座を見つけたときは、そりゃあ感動したな。でも、最近は夜が明るくなってきているから、星を見つけるのは難しくなってきたな」
「東京は、ここよりも夜が明るそうですもんね」
「そうだな。でも、俺はあそこで星を見ようと思ったことは一度もない」
美月さんは、遠い目をしながらそう呟いた。なぜだか、それは酷く虚ろな響きをしていた。