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クラスメイトたちのおしゃべりでざわめく教室に、カツカツと黒板に当たるチョークの音が響く。私はホームルームが始まる直前の、逸る雰囲気が漂う教室で帰り支度をしていた。
窓の外では、小雨が降っている。今日は朝から雨続きだったので、私の短い髪は一日分の湿気を含んで毛先がすっかり跳ねてしまっていた。美月さんに憧れて、昔一度だけ髪を伸ばしたこともあったのだが、癖毛の私では彼のように綺麗なロングヘアにならなかった。
私は、思い思いの方向を向いている髪を手櫛で撫でつけながら、早くホームルームが終わらないかとぼんやり考えていた。今日も美月さんに会いに行きたい。亮太の兄である隆一さんのマンションに行けば会えるだろうか。美月さんはいつも一人暮らしをしている隆一さんのマンションに泊まっている。
隆一さんと美月さんとは、大学時代に知り合ったそうだ。亮太とよく似た、大きな二重の瞳をした隆一さんは、現在自分のマンションに引きこもり中だ。数年前に脱サラをして、家でパソコンの仕事をしているらしいのだが、なんの仕事をしているのか私にはさっぱり分からない。
「また太っていなきゃいいけど」
私は隆一さんの容姿を思い出して、くすりと口元を緩めた。昔は細身で格好良かった隆一さんは、家に篭るようになってからどんどん横幅が増え始め、今では立派なメタボ体型になっていた。自慢の大きな瞳も、頬の肉に埋もれてすっかり細くなってしまった。
「亮太も、太ったらああなるのかもね」
私は亮太がまん丸に膨らんだところを想像しながら、窓の外に目をやった。糸のように細く続く小雨が降るなかで、黒い大きな傘が一つ、校門の前に咲いているのが見えた。
それを見た途端、私の胸は早鐘のように鳴り出した。遠目に見ても、私にはあれが誰だか良く分かった。長い足と均整のとれたスタイル。あれは、絶対に美月さんだ。
私が窓を開けて身を乗り出すと、黒い傘がひょいと持ち上がり、そこから美月さんの顔が覗いた。私は思いきり窓から彼に手を振った。美月さんも私に気がついたのか、傘を揺らして応えてくれた。
「だれだれ? 弥生のお迎え?」
「結構良いねぇ」
大きく手を振る私に、後ろから友達が声をかけてきた。私は照れた笑いでごまかしながら、まあね。と頷いた。美月さんが褒められると、なぜか私までくすぐったいような気持ちになるから不思議だ。
「まさか、弥生の彼氏?」
「違うよ。小学生の頃から仲良くしてもらってるお兄さん」
「お迎えいいなぁ。私も彼氏できたら迎えに来て欲しい」
友達から羨望の眼差しを向けられる事に、私はちょっとだけ優越感を感じた。もしも美月さんが彼氏だったらと調子にのって妄想してみたが、鼻血が出る前にやめておいたほうがよさそうだ。美月さんが迎えに来てくれただけでこんなにも幸せなのに、それ以上を望むのは欲張りというものだろう。
私は、今日はいつも以上に長くてつまらなく感じるであろうホームルームが、早く終わるように祈りながら着席した。
「起立、礼」
待ち望んでいた終わりの言葉を、今日の日直がようやく口に出した頃、私の逸る気持ちは最高潮に達していた。皆が礼をし終わらないうちに鞄を掴むと、一目散に廊下へと駆け出した。
後ろから冷やかしの口笛が聞こえてきたが、そんなことに構っていられない。ドアを思い切り開け廊下に飛び出すと、隣のクラスから同じように駆け出してきた亮太と出くわした。
「見た?」
「見た」
亮太も私も我先にと下駄箱に突進する。早く美月さんに会いたいのは彼も同じだったらしい。私たちは競うようにして、もつれながら廊下を走った。
途中から本当に競いだしたのだが、コンパスの差で亮太の方が早く美月さんの元へたどり着いた。私はぜぇぜぇ言いながら、亮太の背中を追って懸命に走った。
「お帰り、二人とも。そんなに焦って来ることなかったのに」
「雨の中、これ以上待たせたら悪いですから。大分前から待っていてくれたんですか?」
亮太は息を弾ませながら、美月さんに笑いかける。運動部だけあって、その顔には余裕の表情が浮かんでいる。
「いや、十分ぐらい前かな。弥生は今にも死にそうな顔してるけど、大丈夫か?」
「た、ただいま……美月さん。大丈夫、です」
私は息も絶え絶えにそれだけ口にする。悔しいが、この競争は私の負けだ。亮太を睨むと、彼は口元を引き上げて憎たらしく笑っている。
「じゃあ、行こうか。隆一に借りた車を近くに止めてあるんだ」
連日美月さんと遊びに行くのが恒例となっている私たちは、この時期に余計な予定など入れない。バイトも入れないし、友達に誘われても用事があると言って全て断っている。亮太に至っては、部活もまるまる二週間休むつもりでいるらしい。
「今日は雨だから、プラネタリウムに行こうかと思っているんだ」
美月さんは車の鍵を開けながら、私たちに声をかけた。
「私、プラネタリウム久しぶりです」
私は車の助手席に素早く手をかけると、中にするりと滑り込んだ。亮太が後部座席に座りながらこちらを睨んでいたが、私はそれには気がつかないふりをして車を発進させる美月さんに話しかける。
「美月さんは星が好きなんですか?」
「あぁ、割と好きだよ。子供の頃に夜更かしして、屋根の上によく登ったもんだ。だけど、いつだったか屋根から落ちそうになってね。親に怒られてからはあのプラネタリウムに通うようになったんだよ」
「そういえば、最近改装されて新しくなったって聞きましたよ」
「そうか……思い出がたくさん詰まった、懐かしい場所だったんだけどなぁ」
美月さんは、ため息ともつかない息を吐いた。彼の横顔はいつもと変わらず、薄く微笑んだままだ。でも、きっと美月さんは残念がっているのだろう。
「じゃあ、これから新しい思い出を一緒に作り直しましょう」
私の口から飛び出した言葉を聞いて、美月さん目を丸くして私の顔を見つめる。後ろの席からも、亮太が宇宙人でも見るような目つきで私を見ている。私は恥ずかしくなって、慌てて首を振った。
「あの、美月さんさえよければ、なんですけど……」
私は消え入りそうな声でそう付け足す。思いつくままに、随分恥ずかしいことを口走ってしまったらしい。
俯いた私の頭の上に、ぽんと大きな手のひらが被さった。驚いて顔を上げると、前を見据えたままの美月さんが、頭をよしよしと撫でてくれていた。
「ありがとう。弥生は本当に良い子だね」
「美月さん、俺とだっていい思い出作れますよ」
亮太がげらげら笑いながら口を挟んできた。
「うーん――野郎が言うんじゃ、あんまり可愛くないな」
美月さんの言葉に、亮太は一層笑いながら後部座席を転げまわった。こいつは本当に阿呆だ。でも、こんな風に三人で過ごす時間が、私にはたまらなく楽しくて、そして愛おしい。
到着したプラネタリウムは、新しく改装されたおかげなのか、思ったよりもたくさんの人で溢れていた。入場と同時に座席のほとんどが埋まり、私達も急ぎ足で三人並べる席を確保する。家族連れよりも、断然カップルの方が多いのは、私としては妙に居心地が悪い。
私たちは、美月さんを真ん中にして三人並んで席に座った。ふわふわのシートに身を預け、私はまだ何も映し出されていないドーム型のスクリーンを見上げた。私の動きに合わせてシートがゆっくりと後ろに倒れると、まるで大きな繭の中にいるような心地になる。
「今の時期だと、きっと冬の星座の説明だな」
隣で、私と同じように天井を見上げる美月さんが呟いた。
「冬の星座って、俺オリオン座しか分かんないなぁ。他に何があるんですか?」
亮太の馬鹿でかい声が反響する。
「牡牛座や、ふたご座なんかも冬の星座だよ。冬の空は一等星が多いから、すごく綺麗で見応えがあるんだ」
「明るい星が多いってことですか?」
「そういうこと。じゃあ、お前らに宿題を出そうかな。答えられなかったら、罰ゲームな」
「えぇ――」
私も亮太も目を丸くする。宿題付きとは思わなかった。
「冬の大三角形を形作る星は、プロキオン、ベテルギウス、もう一つは何でしょうか?」
「ちょと、勘弁してくださいよぉ。俺、こういうの苦手なんですよ」
「説明をちゃんと聞いていたら、絶対答えられるから心配するな。それに、こうでもしないと亮太は途中で寝るだろう?」
「亮太なら間違いなく寝ますね。学校でも授業中ほとんど寝てますから」
私の同意に、亮太がものすごい目つきで睨んできた。痛くも痒くもないその視線を無視して、私はまた天井を見上げた。この広いスクリーン一杯に、星たちが映し出されるのはさぞかし綺麗だろう。
開演のブザーが鳴り響き、照明が絞られるように落ち始めた。仮想の夜空が出来上がるのを、皆が静かに待っていた。美月さんとこんな風に星空を見上げるのも、ロマンティックでいいものだ。
このとき、私の耳元に美月さんがそっと顔を寄せた。
「正解の星はね、俺の一番好きな星なんだ。だから、弥生と亮太にも覚えていてほしいんだよ」
美月さんが、掠れた声で私の耳に囁いた。私はなぜか背中がザワザワするような感覚を覚え、鳥肌を立ててしまった。美月さんはそれだけ言うと、何事も無かったかのようにゆったりと足を組んで、天井のスクリーンを見上げている。
私は頬に集まる熱を感じながら、始まったばかりの映像と説明に、一生懸命耳を傾けているフリをする。美月さんに、そっと耳打ちをされただけなのに、どうしてこんなに胸が苦しくなるんだろう。
「それでは、八時頃の夜空を見てみましょう。大きな長方形の星の並びの真ん中に、小さな星が三つ並んでいるのを見つけることができるでしょうか」
スピーカーからは、夜空を飾る星たちの説明をする柔らかな女性の声が流れてくる。
「これが有名なオリオン座です。左上に赤く輝く一等星がベテルギウス。右下に青白く輝く一等星がリゲルです」
説明に合わせて、スクリーンの星が主張するように明るく輝いた。
「オリオン座の斜め下辺りに、一際輝く星を見つけることが出来るでしょうか。大犬座の一等星シリウスです。このシリウスとオリオン座のベテルギウスを結んで三角形を結ぶと、子犬座のプロキオンを見つけることが出来ます。これが、冬の大三角形です」
スクリーンに、星たちを繋ぐ巨大な三角形が浮かび上がった。シリウスが一際明るく輝いて、冬の空にその存在を誇示している。それは、とても美しい星だった。
私は、思わず首だけを回して隣の美月さんを見た。彼は私の視線に気がつくと、小さく笑って頷いた。出された宿題は、じつはとても簡単なものだった。
私は亮太の席をこっそりと盗み見る。あいつは今の説明をちゃんと聞いていただろうか。見ると、亮太は頭を背もたれに預けて既に目を閉じて眠っていた。暗くなった時点で、あいつはもうアウトなのだ。
「亮太は、罰ゲーム決定だな」
美月さんの押さえた声が、また私の耳に注ぎ込まれた。私は唇を噛み締めながら、こくこくと頷いた。
夜空を映しだしていたスクリーンは、いつの間にか東の方角が白々と明るくなり始めていた。もうすぐ終わってしまう。そう思うと、私は何となく物足りないような、ほっとしたような気持ちになっていた。