10
干からびるほど泣き伏した後、私は抜け殻のように頼りない足取りで家に帰った。いつの間にか日が落ちて、辺りはとっくに暗くなってしまっていた。何も言わずに帰宅した私の顔色を見たとたん、お母さんは私にベッドに寝ているように命令を下した。よほど酷い顔をしていたのだろう。
私は自分のベッドに横たわりながら、ぼんやりと天井を見つめていた。朝と変わらない自分の部屋。こうしていると、本当は全部夢だったんじゃないかと思えてくる。しかし、ピリピリと痛む目頭や、あの冷たい美月さんの唇の感触は、すべてが現実に起こったことなのだと否応なしに自覚させられた。
「亮太に、悪いことしたな」
今まで切っていた携帯電話の電源を付ける。亮太は美月さんにさよならも言えずに、彼を失ってしまったのだ。それも、私の所為で。
「亮太に、ごめんねって言わな、きゃ……」
電話会社のロゴが明るく浮かび上がり、私の携帯電がゆっくりと目覚めた。私は、また涙が浮かんでくるのを止められない。熱くなった目頭を押さえると、私の手の中の携帯が震えた。表示画面を見ると、亮太からだった。
あいつに、なんて説明しよう。そう思いながら携帯を耳に当てる。
「弥生。何で携帯切ってたんだよ! 俺ずっとかけてたんだぞ」
「ごめん亮太。私――」
「いいからテレビ見ろ! 早く!」
耳元で怒鳴る亮太に驚いて、私は緩慢な動きでテレビをつけた。途端、慌ただしい様子の住宅街の映像が目に飛び込んできた。リポーターが緊迫した様子で手に紙切れを持ち、その内容を繰り返ししゃべっている。何か事件が起きたのだ。私の背中を、嫌な予感が駆け巡った。
「つけたよ。どのチャンネル?」
「何でもいい。刺殺事件の報道してるやつなら何でもいい!」
亮太は珍しく焦っている。同時に、酷く苛ついているようだ。
「ついさっき、テレビでどっかの社長の息子が刺殺された事件が起こったんだ。その犯人の逮捕された時の映像見たんだけど、美月さんにそっくりなんだよ」
亮太の声と、バンと何かが叩きつけられたような音が電話越しに聞こえてきた。
「美月さんに確認しようにも、番号分からないし、兄貴にもお前にも電話がつながらないし。何かあったのかと思うだろう、普通。犯人見たか? 美月さんじゃないよな? ただの似ているだけの別人だよな?」
私はテレビの画面を見ながら、がなり立てるようにしゃべる亮太の声を遠くに聞いていた。テレビでは、正に犯人逮捕の瞬間の映像が繰り返し流されていたのだ。
激しいフラッシュの中を、花道を歩く役者のように犯人は進む。長い髪に、細く均整の取れた体。両手と頭に大判のタオルのようなものをかけられているが、間違いない。あれは……あの姿は、美月さんだ。
私は、息が苦しくなった。
「弥生! 聞いてるのかよ。何とか言えよ、馬鹿」
「りょう、た」
喉が張り付く。今の私には、すぐにでも消えて無くなってしまいそうなほどか細い声しか出てこない。それでも、私は電話に向かって話した。
「話があるの。隆一さんとこに、今から来て」
「……それって! 嘘だろう?」
「今日あったこと、全部話すから」
私はそれだけ言うと、電話を切った。テレビからは、若いリポーターがけたたましいほどの声を張り上げて、カメラに向かって同じことを何度も何度も繰り返していた。
『犯人の身元が分かりました。犯人は上野葉月、三十歳。無職の男性です。繰り返します――』
隆一さんの部屋に到着した私の前に、これ以上ないくらい青い顔をした亮太が立っていた。忙しなく体のどこかを掻きむしっているのは、彼が相当苛々している証拠だろう。
私は、唇を噛んだ。
「ごめん、亮太ごめんね」
「謝ったりするな! そんなことどうだっていいから、何があったのか話せよ」
「焦るな。弥生も来たから、俺から全部話してやる」
いつもは奥の部屋から滅多に出てこない隆一さんも、この時ばかりはリビングのソファーに窮屈そうに収まっていた。
私も亮太も、隆一さんの向かい側に座った。それを見届けてから、隆一さんは美月さんの本当の名前、そして彼の過去を話始めた。それは、私が霊園で美月さん本人から聞いたことと、全く同じだった。
私は、目を瞑り、涙が出るのを必死に抑えていた。本当は耳も塞いでしまいたかったが、それだけは我慢した。
「昼過ぎに、あいつから電話があったんだ。弥生に全部ばれたから、もうここにはいられないって。あいつ、弥生と別れたその足で引き逃げ犯の所に向かったんだな」
「こんなの、全部弥生の所為じゃないか! お前が余計なことしなければ、美月さんはあんなことしなかったかもしれないのに……」
「ごめん……本当にごめん」
俯く私に、隆一さんの声が優しく降ってきた。
「弥生の所為じゃない。これは、葉月が自分で選んで決めたことだ。それと、葉月の思いを知りながら、説得することが出来なかった俺の責任だ」
隆一さんは、ぼさぼさの頭を項垂れた。彼はこの六年間、ずっと美月さんを説得し続けていたのだろう。しかし、それでも美月さんの心は変わらなかった。
「お前たちを利用したことは、今でも悪いと思っている。でも、俺にはほかに方法が思い浮かばなかったんだ」
「美月さんを紹介してくれたことで、兄貴を恨んだりしない。でも、どうして俺たちに話してくれなかったんだよ」
「お前たちが本当のことを知ったら、こうなると分かっていたからだよ。葉月は、お前らの事を本当に可愛がっていたんだ。それは、お前らだって分かっているだろう。だからあいつ、本当はお前らとの関係をずっと絶ちたがっていたんだ。これから殺人を犯す自分と、長いこと関わっているのは将来的に良くないって」
隆一さんは一度言葉を切って、小さなため息を吐いた。
「でも、葉月はすり寄ってくるお前らを拒めなかった。お前たちは六年もの間、あいつの決心を鈍らせ続けていたんだよ。でも、その間に葉月を思いとどまらせることが、俺には結局出来なかった……」
隆一さんは、今は消えているテレビにちらりと目を向けた。旧友の事件を知って、彼も心を痛めていることが、その視線だけでよく分かる。
「お前たちを巻き込んだのは俺だ。本当に悪かった、許してくれ」
頭を下げる隆一さんに、私は首を振った。
「私は、隆一さんに感謝してます。だって、私たちに美月さんを引き合わせてくれたんだから」
私は今にも嗚咽が漏れそうなほど悲しかったが、無理やり唇を引き上げた。それはきっと、不細工でぎこちない笑顔だっただろう。でも、もう涙を流すのは嫌だった。
「美月さんと会えて、私は本当に幸せでした。これ以上ないくらい楽しい思い出がたくさんできたんです」
亮太のすすり泣きが聞こえた。亮太もまた、美月さんと一緒に過ごせて楽しかったはずだ。
「だから、隆一さんにお願いがあるんです」
私は、自分の意に反して溢れてくる涙をぐいと乱暴に拭った。私は美月さんに会えて本当に幸せだった。私の美月さんを好きな気持ちに嘘はない。例え、美月さんが誰でもあっても――どんなことをしていても。
だから、今度は私が美月さんを幸せにする番だ。




