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「よろしくお願いします」

 木枯らし吹きつける冬の夕暮れ。私は手に持っているチラシを笑顔で差し出しながら、流れるように同じ方向へと歩く人の群れに声をかけていた。仕事帰りの人々の顔は、皆一様に疲れているように感じられ、私の声に足を止めてくれる人は一人もいない。

 私はその中の一人であるサラリーマン風の男性に狙いを定めると、彼の一歩先に絶妙なタイミングでチラシを差し出した。もちろん笑顔で首を傾ける事も忘れない。

 チラシを差し出された男性は、私を見て一瞬だけ歩みを止めた。しかし、私が手に持っているのがただの紙切れ一枚だと知ると、彼はつまらなそうな顔をしてまた流れる人の波に戻ってしまった。

「やっぱり、ティッシュじゃないと駄目だよねぇ――」

 私は、まだダンボールの中に山積みになっているチラシに目をやり、うんざりした気分になって深くため息を吐いた。

 このチラシ配りのアルバイトの良い点は、ノルマさえ達成できればいつでも好きな時間に帰れること。悪い点は、誰ももらってくれないのでノルマが全然達成できない事だった。

「お願いします。今度新しく出来たスポーツクラブのご案内です」

 新たなターゲットを見つけてチラシを差し出すと、今度の人は私を見て足を止めてくれた。私はにっこり微笑みながら、その人の手をじっと見つめる。その手が少しでも動けば受け取ってくれるというサインなのだ。目の前の男性の、長い指をした綺麗な手が私の差し出した紙を掴んで受け取った。

「こんなところで何してるの、弥生?」

 突然上から降ってきた声に、私は驚いて顔を上げた。耳に心地よい低い声。そこには、長い髪を背中まで伸ばした背の高い男性が立っていた。

「美月さん! 帰って来てたんですね」

「あぁ、ついさっきね」

 長い睫に縁取られた切れ長の瞳を綻ばせて、美月さんはふんわりと笑った。彼が笑うと、回りの景色までもが華やかに色づいて見える。

「お帰りなさい、美月さん」

「ただいま」

 微笑む美月さんに、私は目を奪われた。長く真っ直ぐな髪を揺らして佇む彼は、女性と見間違えるほど艶っぽい。確かに男性であるのに、美月さんには美しいという言葉が良く似合う。

 美月さんは、悪戯っぽい笑みを浮かべると、ぼんやりと見とれている私の肩に腕を回して、私の頭をぐりぐりと撫で回した。近くで香る甘い香水の匂いにドキドキしながら、私はその大きな手にされるがままになっていた。

「相変わらず小さいままだなぁ、弥生は。ちゃんと飯食べてるのか?」

「食べてます。美月さんが大きすぎるんですよ」

「バイトが終わったら、飯食いに行こう。いつ上がれる?」

 私は、頭をめちゃくちゃにかき回す美月さんの手を掻い潜りながら、足元に置かれたダンボールを示した。

「これを、今日中に捌かないと駄目なんです」

「じゃあ、俺も手伝うよ」

「でも――」

「いいから、その方が早く終わるだろう」

 そう言うと、美月さんはチラシの束を掴んで道行く人たちに配り始めた。今まで、ほとんどの人が目を止めることさえもしなかったチラシの束が、美月さんにかかると瞬く間にその数を減らしてゆく。中には、自分から美月さんに近寄ってチラシをもらう女性まで現れた。

 あっという間に、本当に魔法でも使ったのではないかと思うほど早く、ダンボールの中は空になった。不思議な事に、美月さんが加わってから、私からもチラシを受け取ってくれる人が増えていた。

「ありがとうございます。美月さんのお陰でこんなに早く終わりました」

「じゃあ、着替えておいで。そうだ、亮太も呼ぼうか」

「え、亮太もですか?」

 私はうきうきとしていた気分に、一気に水を差された気持ちになった。亮太は私の幼馴染で、同じ高校に通うご近所さんだ。しかし、現在の私と彼の関係は良好とは言い難いものになっていた。

「亮太は部活が忙しいから、きっと無理だと思いますよ」

「連絡だけでもしてやれよ。後で誘わなかったってばれたら、あいつすごく怒るだろう」

 私は唸りながら、しぶしぶ亮太にメールを入れてやった。本当は、亮太は部活なんて忙しくない。しかし、せっかく美月さんを独占できると思っていた私は、自ら邪魔者を呼ばなければならない悔しさに、奥歯を噛みしめていた。

 そっけないほど短いメールを送った直後、亮太からすぐに電話がかかってきた。

「はい、弥生です」

「美月さん帰って来たのか!」

 もしもし、も言えないせっかちでがさつな声に、私は口をへの字にした。

「今一緒にいるよ」

「ちょ、おまえ――抜け駆けするんじゃねぇよ。俺もすぐ行くから場所教えろ」

「まだお店は決めてないよ。とりあえず駅前に来て。お店が決まったらまたメールしてあげるから」

「……絶対だぞ。十五分で行くからな」

 こちらの返事も聞かずに電話は切れた。せっかく誘ってやったというのに、ありがとうの言葉もなし。私は口を尖らせながら携帯電話をしまった。美月さんはやっぱりね、というように肩を揺らしていた。




 私はアルバイトの事務所に戻ると、すぐにロッカールームに向かった。スポーツクラブのロゴの入った上着を脱ぎ捨て、急いで荷物を取り出す。早く、一秒でも早く美月さんの側に戻りたい。

 私は、今日のノルマと労働時間を書き込んだ書類を所定の棚に入れ、挨拶もそこそこにして事務所を飛び出した。

 美月さんは、年に一度しかこの街に帰ってこない。東京で働いている彼は、いつも冬の始まりを告げる木枯らしと共に、私たちの元に帰ってくる。

 私と美月さんの出会いは、今から六年前に遡る。私が小学五年生だった頃、当時まだ仲の良かった亮太と公園で遊んでいる所へ、美月さんと亮太の兄の隆一さんが現れたのだ。

「お前ら暇だろう、ちょっとこいつの相手しててくれ」

 手招きする隆一さんの隣に立つ美月さんを見た瞬間、私は頭のてっぺんからつま先まで電流が駆け抜けたような気がした。

 その頃の美月さんはまだ髪も短くて、どこか寂しそうに遠くばかりを見ていた。話かけてもほとんど反応を返してはくれなかったが、その謎めいた神秘的な美しさに、幼い私は一瞬で囚われてしまった。

 そのうちに、美月さんは少しずつ私達の言葉に返事を返してくれるようになっていった。優しい笑顔と、落ち着いた物腰。私が美月さんに憧れを抱くようになるのに、そう時間はかからなかったと思う。

 悔しいことに、亮太にも全く同じ事が起こっていたようだった。それからというもの、私と亮太は美月さんをめぐるライバルとなり、時間の許す限り美月さんと一緒に出かけたり遊んだりするようになっていた。

 当時から大人だった美月さんが、小学生と遊ぶのをちっとも嫌がらなかったのは、今となっては不思議に思う。しかし、美月さんは一年に一度この街に帰って来たときには、私達に時間のほとんどを使ってくれるのが恒例となっていた。

 私は階段を駆け下りるのももどかしく、ビルの前で待ってくれている美月さんの元へと急いだ。

 外へ出ると、美月さんが建物に上体を預けるようにして佇んでいるのが目に入った。そんな姿も相変わらず絵になっている。声をかけようとしたところで、私は慌てて口を噤んだ。美月さんの横にはふたり組みの女の人たちが張り付いていたのだ。

 逆ナン。私の頭にそんな言葉が浮かぶ。

 美月さんは首を傾けながら、女性たちの話を聞いている。そんな美月さんは、私の良く知っている美月さんとはまるで別人のように感じられた。

 私はビルの陰から出ることも出来ずに、その場にじっと立っていた。どんな顔をしてあの中に入っていけばいいのかまるで分からない。

 その時、美月さんが私に気がついて手を振った。私の知っているいつもの笑顔。それを見てほっとする私の側を、ふたりの女性が不可解そうに首を捻りながら通り過ぎていった。

「なんだ。まだ子供じゃない」

 すれ違いざまに聞こえたその言葉は、私の胸をチクリと突き刺す。美月さんと出かけるたびに、もう何度この痛みを味わったか数え切れない。こういうときに、私はまざまざと美月さんと自分との違いを思い知らされるのだ。美月さんは大人で、私は子供。

 私は下を向いた。早く大きく、大人になりたい。美月さんの横に立って並べるぐらい。

 俯いた私の頭に、美月さんの大きな手が乗せられた。

「ごめんな」

 私が傷ついているのが分かったのか、美月さんはすまなそうな顔をして私の顔をのぞきこむ。私は顔をあげて微笑んだ。何も聞かなかったふりしよう。美月さんに心配をかけないように……。

「何がですか? それより、私お腹空いちゃいました。何食べにいきましょうか?」

「弥生の好きなもの選んでいいよ。腹が破裂するぐらい食わせてやる」

「高く付きますよ」

「いいよ。俺、稼いでるから」

 私はちょっと迷ってから、お好み焼きと答えた。

「なんだ、そんな物でいいのか? ちょっと洒落た店にでも連れて行ってやろうと思ってたのに」

「お好み焼きが好きなんです。それに、亮太も来るでしょう。あいつ騒がしいから、そんなお洒落な店に入ったら、周りの人が迷惑しますよ」

「あぁ――それは、そうかもな」

 そう言って、美月さんは低く笑った。私の大好きな美月さんの笑い方。ぽつりと落とすように息を吐き出すその声に、私は耳を傾けながら歩く。

 美月さんは、いつも優しく笑ってくれる。私は、彼が怒っているところを見た事がない。その柔和な物腰が、こんな大人になりたいという思いを私に抱かせるのだと思う。

 美月さんを独占出来る貴重な一時は、亮太からの着信の音で邪魔をされた。もっともっと、美月さんとゆっくり話をしたかったのに。私は不機嫌な声で電話にでた。

「もしもし、どうしたの?」

「店、決まったのか?」

「あぁ、メールするの忘れてた。お好み焼き屋さんになったよ。本屋の向かいの」

「今駅前に付いたから、俺もそっちに向かう。適当に頼んでおいて」

 亮太は相変わらず一方的にしゃべると、すぐに電話を切ってしまった。私は肩を竦めながらやれやれと呟いた。




 店は平日にもかかわらず、大勢の客で込み合っていた。熱せられた鉄板の前に座ると、美月さんが食べきれないほど沢山の料理を注文をする。豚玉、烏賊玉、モンジャに焼きそば……。

「そんなに注文するんですか?」

「亮太が来るならこれぐらい注文しなくちゃ間に合わないだろう。それに、少し弥生を太らせようと思って」

「え、やめてくださいよ。それじゃなくても、冬は肥える時期なのに」

 美月さんはコートを脱ぎながら笑った。私もつられてコートを脱いだが、すぐに後悔した。もっと可愛い服を着てくれば良かった。美月さんに会うときには、一番可愛い服を着てきたかったのに。

 そんな私の些細なジレンマなどお構いなしに、美月さんは向かいの席からじっと私を見ている。

「弥生は細いよ。おまけに、小さくて華奢だからお兄さんは心配なんだよ。ちゃんと飯食って大きくなるのか」

 正面から美月さんに見つめられて、私は何て答えたらよいのか分からなくなった。顔が赤くなっているのは、鉄板が熱いからだと誤魔化せるだろうか。

「心配しなくても、こいつすげー食ってますよ。昼飯なんて、弁当のほかにパン買ってくるんですから」

 いつの間に到着したのか、亮太が私を小ばかにしたように見下ろしながら立っていた。

 最近茶色く染めた短い髪を撫でつけ、大きな二重の瞳を少し緊張したように瞬かせている。余計な事をばらしたのは、美月さんを一時でも独占した私への腹いせだろうか。

「久しぶりだな、亮太。お前はちょっと見ない間にどんどんでかくなるなぁ。俺もそのうち見下ろされる日が来るかもしれない」

 美月さんは嬉しそうに亮太を見上げると、自分と比べるように立ち上がった。まだまだ美月さんの方が背が高いのだが、いつか本当にそんな日が来るかもしれないと思わせるほど、亮太はここ数年で背が伸びていた。

 亮太は嬉しそうにはにかみながら、美月さんの向かいに腰を下ろす。

「お帰りなさい、美月さん。いつまでこっちに居られるんですか?」

「今回はのんびりする予定だから、二週間ぐらいだな。じっくりお前らと遊んでやれるぞ」

 そう宣言してくれた美月さんに、私も亮太も笑顔を向けた。年に一度だけ休暇を取って帰ってくる美月さんは、いつもは一週間ほどで東京にまた行ってしまう。しかし、今回はいつもの倍も長く一緒に過ごせるのだ。

「今回も兄貴のマンションに泊まるんですか?」

「あぁ、隆一の家は俺の別荘だからね」

 その時、美月さんの携帯が鳴った。

「悪いな、ちょっと失礼するよ。先に食ってて」

 美月さんはそう言うと、騒がしい店から出て行った。もしかしたら、仕事の電話なのかもしれない。無理をして長い休みを取ってくれたのだろうか。

「なぁ、お前美月さんの携帯の番号知ってるか?」

 亮太が、運ばれたお好み焼きを鉄板に流しながら唐突に尋ねた。私は首を横に振る。そういえば、美月さんの携帯の番号もメールアドレスも知らされていない。

「そっか、お前も知らないのか」

「そういえば、聞いたこと無いね」

「俺、前に聞いたんだよ。メールだけでもいいから、たまに連絡取りたいと思って。そしたら断られたんだ。携帯は仕事の電話しか受け取らないようにしてるからって」

「そうなんだ……。美月さん、携帯とかメールとかあんまり好きじゃないのかもね」

「だからさ、こうして美月さんが遊びに来てくれる以外に、俺たちとの繋がりがないんだよなぁ」

 そう言って、湯気の出る豚玉を頬張る亮太は、少し寂しそうに見えた。私もそれを寂しく思わないでもないが、美月さんにこうして会えるだけで幸せだ。これ以上何かを望めば、ばちが当たりそうで恐いくらいだ。

「大丈夫だよ。美月さんは来年も、その次の年もきっと帰ってきてくれるよ」

 私は亮太にというよりも、自分に言い聞かせるように呟いた。それは私たちの共通の願いだ。いつまでも、いつまでもこの関係が続きますように。

「悪いな。仕事の電話がなかなか切れなくて」

 美月さんは席に戻ると、その細い体のどこに入るのかというほど、お好み焼きを頬張り、東京での話を聞かせてくれた。

 私も美月さんにたくさん話したいことがある。なにしろ、一年ぶりの再会だ。私も亮太も、競うように最近の話をしゃべり始めた。

 この関係はきっと、ずっと変わることはないだろう。私はこの時、本気でそう信じていた。

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