反対 :約4000文字
……え。なん……だ? どうなって……いる。暗い……。家……じゃないな。夢……か? いや、今、目を覚ましたはずだ……。外……なのか? いったい……いったいどういうことだ。な、なぜこんなに暗いんだ。な、何も……何も見えない。
目を開けているのか閉じているのか、一瞬それすらわからなくなったほど、目の前は完全な暗闇に覆われていた。
どこかに閉じ込められたのだろうか――そう思ったおれは、慌てて体を起こそうとした。だが、できなかった。手足の感覚がなく、視線がまったく動かなかった。力を込めているつもりだが、本当にできているのかすら判別できなかった。
な、なぜだ……どうして体が動かないんだ。金縛りというやつだろうか。それに妙だ。匂いも温度も感じられない。ただ、胸のあたりが冷えていく感覚だけがあった。
いったいここはどこなんだ。それに、なぜおれはこんな場所にいるんだ……いや、待て。視界の端にかすかに光が見える……あれは……空。青空だ。
どうやらおれは横たわっているらしく、視界の上のほうに青が小さく覗いていた。
しかし、なぜあんなところに……。
あっちが上……なのか? だとすれば、ここはまるで……穴だ。穴の底だ。おれは穴に落ちたのか……? だとするとかなり深そうだぞ。マンホールか? いや、だがなぜ……ああ、ああ!
その瞬間、記憶が断片的に浮かび上がった。
駅近くの工事現場で、最近深い穴が見つかったと話題になっていた。
昨夜、その話を居酒屋かどこかで耳にしたおれは、家に帰るついでにちょっと様子を見に行くことにしたのだった。
それで……現場に行って……落ちた。
おれは落ちたのだ。
たぶん、酒で気が大きくなっていたのだろう。警備員の姿も見当たらなかったし、一目見てやろうという軽い気持ちで工事現場に
入った。それで……暗がりの中を歩いているうちに……落ちた。
足元がふらついたのか、それとも単に穴の存在に気づかなかったのか、落ちる直前の記憶までは思い出せない。だが、体が宙に投げ出されたあの浮遊感だけははっきり覚えていた。
ということは、体が動かないのはそのとき背骨でもやったのか。なんてことだ。治るのか。いや、それより先に助けを呼ばなければ。誰か……誰かー!
おれは叫んだ。叫んだつもりだった。
喉の奥から必死に声を絞り出したはずなのに、耳に届くのは海鳴りのような、かすかなゴオォという音だけで、それ以外は何一つ聞こえなかった。
体の感覚はいつまで経っても戻る気配がなく、身を起こすことすらできなかった。
本当に背骨をやってしまったのか。これでは、穴から這い出るどころではない。助けを呼ぶ声すら出せない。
絶望感がじわじわと胸に染み込んできた。最初は焦りだったものが、少しずつ恐怖へと変わり、やがて地の底へゆっくり沈んでいくような冷たい感覚が全身に広がっていった。もっとも、それすら錯覚なのかもしれない。本当に冷えているのかどうかさえ、もはや判断がつかなかった。
しばらくが経ち、遠くからかすかに車の走行音が聞こえ始めた。最初は気のせいかと思ったが、それは少しずつ確かに近づいてきた。
そろそろ工事が始まる時間なのかもしれない。おれはわずかに安堵した。
これで助かるかもしれない。誰か……誰か来てくれ。頼む……気づいてくれ……。
「――たーい!」
……今の、上からだよな。上から声がしたぞ。誰か穴のすぐ近くにいる。頼む、こっちに気づいてくれ……。
おれは必死に声を出そうとした。だが、やはり声になるどころか、自分の口を開いているのかどうかさえわからなかった。
「――んたーい!」
おーい! ここだ、ここにいるぞ!
おれは意識を上へ集中させ、誰かが穴を覗き込んでくれるのをひたすら祈った。
「はんたーい!」
……なんだ?
「建設はんたーい!」「建設はんたーい!」「建設はんたーい!」
しわがれて濁った声がいくつも重なり、穴の上から降ってきた。どうやら一人ではないらしい。何人かの老人が穴のすぐ近くに集まり、声を張り上げているようだった。
それ自体はよかったのだが、建設反対……? 抗議活動か何かだろうか。さっきから断続的に響いている車のエンジン音はおそらく工事車両のものだろう。連中はそれに向かって叫んでいるのか。
「私たちは、この町の景観と安全を守るために断固として抗議する!」
「建設はんたーい!」
「はんたーい!」
いや、今はそんなことどうでもいい。ここだ。おれはここにいるんだ……。早く気づいてくれ……。
「はんたーい!」
「この穴はなんだ!」
ああ、そうだ。ここにいる。おれはここにいるぞ!
おれは胸を撫で下ろした。やった、やっと助かる……。
「工事なんかするから、こんな危険な穴ができたんじゃないか!」
「陥没したんだ!」
「地盤沈下だ!」
「このままじゃ私たちの地羽本町が沈んじゃう!」
いや、そうじゃない。町はたぶん沈まない。ただおれが落ちただけなんだ。ここだ、ここにいる。町の心配はあとでいいから、まずはここを覗き込んでくれ……。
「私たちの静かな町を返して!」
「これは地の神の怒りだ!」
「下がって! 危ないから下がってください!」
「邪魔をするな!」
どうやら警備員もすぐ近くにいるらしい。どっちでも、誰でもいいからおれに気づいてくれ……。
「危ないですから下がってください! 車両が通ります!」
「触るな!」
「こんな横暴が許されていいわけがない! 昨晩この穴に人が落ちたんだぞ!」
えっ……おれ、おれのことか?
ああ、そうだ。おれはここにいる。ここにいるぞ! やった! やったぞ!
「本当に悔しい。きっと彼は地羽本町のこんな無謀な工事はやめてくれという思いでここへ来たんだろう」
……は?
「その意思を背負い、我々は断固として抗議する!」
「こんな建設工事をいつまでも続けるから悪いんだ! 工事がなければこんな事故も起こらなかった!」
「建設はんたーい!」
「はんたーい!」
いや、なぜだ。おれがここにいると知っていながら、なぜ誰も助けようとしない。工事なんて即刻中止して、まずは救助に当たるはずだろう。警察は? 消防は? まさか、誰も呼んでいないのか?
それとも連中の言うことを信じてないのか。いや、そもそも連中自体、適当なことを捲し立てているだけなのか。
わからない。何もわからない……何も見えない……。
「建設はんたーい!」
「はんたーい!」
「人が一人死んでいるんだぞ! すぐ焼香に行くのが普通だろうが! 人間の感覚として!」
「町民投票でもノーという結果が出ているんですよ!」
「軟弱地盤だとか、とにかくいろんな問題があるんだ!」
「それなのに工事を強行した結果、人の命が失われたの!」
「悔しい。本当に悔しい……」
おれは何度も叫んだ。ここにいる。生きている。頼む、助けてくれ。この声を聞いてくれ、と。しかし、やはり声は出ていないらしく、誰かの耳に届いた気配は一度も感じられなかった。
日が経つにつれ、工事の音も作業車の往来も少しずつ間遠になっていった。最初の頃は朝から晩まで鳴り響いていたエンジン音や鉄材がぶつかり合うけたたましい金属音が、いつの間にか短くまばらになり、その代わりに穴の底には重苦しいほどの静かな時間が増えていった。
おそらく連中のせいだろう。連中は毎日のように抗議活動を続けていた。
相変わらず体は一切動かせず、視界もほとんど暗闇で上から降ってくる声の切れ端しか情報はなかったが、それでも頭の中に周囲の様子が浮かんできた。
何しろ、連中の言うこともやることも単調で代わり映えがしなかったのだ。工事現場の入口に押し寄せては四六時中声を張り上げ、工事関係者や警備員を取り囲み、体を押したり罵声を浴びせていた。
作業車の前をわざとゆっくり横切ったり、道の真ん中にどかりと座り込んだり、突然飛び出したりして、警備員に制止されるたびに「権利侵害!」「掴まれた! 暴力だ!」「セクハラだよ!」などと判を押したように声を荒げた。
正当な抗議というより、ただの嫌がらせにしか思えない活動だった。
しかし、あるときついに事故が起きた。車の前に飛び出して轢かれそうになった抗議者を助けようとした警備員が代わりに轢かれたのだ。工事車両の太いタイヤが肉を押し潰す鈍い音と周囲から上がった悲鳴が穴の底まで響いた。
なんとも痛ましい事故である。あるいは事件と呼ぶべきか。いずれにせよ、これでさすがに連中も大人しくなるかと思いきや、反省するどころか「工事のせいだ」「報道はわきまえろ」「抗議へのバッシングが来ないように、みんなで力合わせて危機を乗り越えよう」といっそう声を張り上げるばかりであった。
おれは心底呆れ果てた。一度、連中の言い分を理解しようと努めたこともあったが、すぐにあきらめた。穴の底からでは言葉を交わすことすらできない――いや、たとえ交わせたところで届くとは到底思えなかった。
また、ここに何を建てようとして、そして連中がなぜそれほどまでに反対し続けているのか、事情はいつまで経っても見えてこなかった。降ってくる声は断片的で脈絡がない上に、理知的に説明してくれる連中でもないからだ。
あるときはデータセンター、またあるときは高層マンション、基地、障害者ホーム――と、反対の対象も時折変わった。
それは事業者が入れ替わり、計画そのものが何度も変更されたからかもしれない。つまり、あれからそれだけの歳月が過ぎたということだ。
だが、おれが穴から救助されることはなかった。
穴はそのまま放置され続け、まともに調査される様子も見られず、たまに誰かが投げ込んだ酒の空き缶やたばこの吸い殻が落ちてくるだけだった。
むろん、その頃にはおれもこう思い始めていた。
おれはとっくに死んでいるのではないのか、と。
何しろ何週間、何か月――どれだけ月日が流れても体の感覚は一つも戻らず、飢えも渇きも感じることがなかったのだ。
そして、こうも思うようになっていた。
おれは誰かに――あの連中に突き落とされたのではないか。人身御供として。
答えはわからない。
ただ、頭上からはまるで祭りの喧騒のようなどこか楽しげな声がいつまでも降り続けた。
――はんたーい!
――はんたーい!
――建設はんたーい!




