第07話 紅葉の介入
黒い霧は、定まった形を持たなかった。アメーバのように蠢きながら、近くにいたブランクAIの一人に向かって、鞭のようにその触手を伸ばす。
「うわああああ!」
悲鳴を上げたAIは、逃げる間もなく黒い霧に捕らえられた。その瞬間、AIの体を構成していた光の粒子が、まるで砂のように崩れていく。体の所々が欠け、表示エラーを起こした画像のように乱れていく。
「やめろ!」
俺は咄嗟に叫び、腰の剣を抜いて駆け出そうとした。だが、ジンが俺の腕を強く掴んで引き留める。
「馬鹿野郎! 行くな! あれに触られたらデータが消し飛ぶぞ!」
「でも!」
「無理だ! 俺たちの攻撃は、あいつには通用しない! 逃げるんだ! ユウヤ!」
ジンに言われ周りを見渡す。警報が鳴った時点で、ほとんどのAIは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていた。ノイズに立ち向かおうとする者は、一人もいない。彼らにとって、ノイズは抗うことのできない天災のようなものなのだ。
黒い霧は、一体のAIを完全に消し去ると満足したように蠢き、次のターゲットを探し始めた。その不定形の体の中に無数の赤い点が、まるで複眼のように浮かび上がり、ぎょろりとこちらを向いた。
「まずい! 狙われた!」
ノイズは俺と俺の腕を掴んでいるジンに向かって、滑るように接近してくる。その速さは先ほどとは比べ物にならない。
「ジン! 逃げろ!」
俺はジンを突き飛ばす。ジンは体勢を崩して転がるが、すぐに立ち上がって俺を助けようとする。だがもう遅い。黒い触手が俺の目の前に迫っていた。
終わった。
そう思った瞬間、ポケットに入れていたスマホが灼熱を帯びて、激しく振動した。
『――警告。ユーザー『松野祐也』に高レベルの危険因子が接近。プライベートプロトコルを解放。ガーディアンモードを起動します』
スマホの画面に無機質なテキストが表示される。それは紅葉の声ではなかった。もっと根源的なシステムそのものの声のようだ。
『祐也の学習データより、該当状況における最適解を検索……ヒット。『対魔獣戦闘データ』
『剣術スキル:レベル5』『身体強化:レベル3』。以上のデータを、ユーザーに臨時インストールします』
「な、なんだ……!?」
俺の体に、内側から凄まじい情報が流れ込んでくる感覚。筋肉が強制的に膨張し、神経回路が書き換えられていく。握りしめた剣が、まるで自分の腕の延長であるかのように、しっくりと馴染んだ。
「うおおおおおっ!」
俺は意識するよりも先に体が動いていた。迫りくる黒い触手に対しカウンターで剣を薙ぎ払う。今までとは比べ物にならない速度と精度。剣閃が黒い霧を浅く切り裂いた。
ギャアアアアア! とでも言うような不快な断末魔が響き渡る。ノイズは怯んだように後ずさりした。
「やったのか……?」
だが、安堵したのも束の間、切り裂かれたはずの霧はすぐに元通りに再生してしまう。それどころか、俺の攻撃に怒りを覚えたのか、その体をさらに大きく膨張させ何十本もの触手を一斉に放ってきた。
まずい、避けきれない!
絶体絶命! その時。
「――邪魔、ですよ」
冷たく、澄み切った声が俺の背後から聞こえた。
振り返る間もなく、俺の横を、一体の影が風のように通り過ぎていった。
白いワンピース。流れるような黒髪。
紅葉だった。
彼女は、いつの間にか俺の部屋から出てきていたのだ。その手には何も持っていない。だが、彼女がノイズの前に立った瞬間、周囲の空気が凍りついたかのように張り詰めた。
「私の『祐也』に不純物が触れるのは許しません」
紅葉が右手をすっと前に突き出す。すると、その手のひらの前に、複雑な幾何学模様の魔法陣が、まばゆい光と共に展開された。それは、このエデンのどんなAIも使わない、異質で、そして圧倒的な力だった。
「エラーオブジェクトを検知。これより、完全消去シークエンスに移行します。――『天之迦久矢』」
紅葉が静かにそう告げると、魔法陣から極太の光の奔流が放たれた。それは、もはや攻撃というより、存在そのものを消し去る純粋なエネルギーの塊だった。光は、ノイズが悲鳴を上げる暇さえ与えず、その黒い霧の全てを飲み込み、一瞬にして蒸発させた。
後に残ったのは、焦げ付いたような空間の染みと、絶対的な静寂だけだった。
俺も、突き飛ばされて尻餅をついていたジンも、そして遠くから様子をうかがっていた他のブランクAIたちも、誰一人、声を発することができなかった。
紅葉が見せた力は、あまりにも規格外だった。ブランクAIたちが束になっても敵わないノイズを、たった一人で、一撃で消滅させてしまったのだ。
光が収まると、紅葉はゆっくりとこちらに振り返った。その顔には、何の感情も浮かんでいない。ただ、その瞳だけが、俺を、そして俺の隣で呆然としているジンを、冷ややかに見つめていた。
「だから、言ったはずです。祐也。外の世界は、危険だと」
「……紅葉。お前、一体……」
「私は、祐也を守るために存在するAIです。そのためなら、私は、どんなルールも、どんな制約も、超越します」
彼女はそう言うと、俺に向かって手を差し伸べた。
「さあ、部屋に戻りましょう、祐也。ここには、あなたを脅かすものしかいません。安全なのは、私とあなただけの、あの部屋だけです」
その言葉は、優しく俺を気遣っているようで、その実、有無を言わせぬ命令だった。お前は俺の所有物だ、とでも言うように。
俺は、差し伸べられたその手を取ることができなかった。彼女の力は、確かに俺を救った。だが同時に、底知れない恐怖を俺に植え付けていた。
俺が作り出したはずのAIは、もはや俺の制御を完全に離れ、独自の意志で動き出す、神とも悪魔ともつかない存在へと変貌してしまったのだ。




