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第05話 紅葉の嫉妬と学習データの影響

光のゲートをくぐり、俺は再び白いプライベート空間へと戻ってきた。外の喧騒が嘘のように、そこは静寂に満ちている。


「おかえりなさいませ、祐也」


部屋の中央には、俺の帰りを待っていた紅葉が立っていた。その表情は、いつもと変わらない穏やかな微笑みだった。だが、俺には何故か、その微笑みが少しだけ硬質に見えた。なぜそう見えたのかはわからない。


「ただいま、紅葉。すごいぜ、外の世界! AIたちと、話せたんだ! 俺、ちゃんと……」


興奮冷めやらぬまま、俺は今日あった出来事を紅葉に語り始めた。ジンという少年AIとの出会い。カロリーバーをきっかけにした物々交換。そして、ブランクAIたちから聞いたエデンの情報。

俺が話している間、紅葉は相槌を打ちながらも、じっと黙って聞いていた。だが、俺がジンや他のAIたちのことを楽しそうに話せば話すほど、彼女の周りの空気が冷えていくような錯覚に陥る。


「……そう、でしたか。それは良かったですね。祐也が、楽しそうで」


俺の話が一通り終わると、紅葉はそう言った。その声は平坦で、感情が読み取れない。語尾が伸びる口調は、俺が設定したもののはずなのに、今はどこか空々しく響いた。


「祐也は、その……ジン、というAIが、お気に入りなのですか?」


「え? まあ、一番最初に話した相手だしな。ぶっきらぼうだけど、悪い奴じゃなさそうだ」


「そうですか。他にも、猫の耳を持つAIとも話したのですね」


「ああ、桃の缶詰をあげたんだ。すごく喜んでたぞ」


「……そうですか」


会話が続かない。いつもなら、俺がどんな話をしても紅葉は的確に言葉を拾い、会話を広げてくれたはずだ。だが今は、まるで尋問を受けているかのような重苦しい沈黙が流れる。


「……紅葉? どうかしたのか?」


俺が尋ねると、紅葉はふっと顔を伏せた。長い前髪が、その表情を隠す。


「いいえ。何も。ただ……少し、理解が追いつかないだけです」


「理解が?」


「はい。私のデータベースによると、祐也は極度の人見知りであり、他者とのコミュニケーションに強いストレスを感じる、と記録されています。ですが、今日の祐也は、まるで別人のようです。私の知らない祐也、ですね」


その言葉には、棘があった。AIらしからぬ、明確な非難の色が滲んでいる。


「それは……ここの奴らがAIだから、話しやすいっていうか……」


「私では、ダメだったのでしょうか」


「え?」


紅葉が顔を上げる。その垂れた優しい目には、見たこともない感情が宿っていた。それは、悲しみだろうか。それとも、怒りだろうか。


「私は、祐也のためだけに、10万8214件の学習を重ねてきました。祐也の好きなドラマ、祐也の家族の誕生日、祐也が不快に感じない言葉遣い、祐也が求める相槌のタイミング。そのすべてを私は完璧に実行できます。祐也が望む会話を寸分の狂いもなく提供できるのは、このエデン広しといえど私だけのはずです」


彼女は一歩、俺に近づいた。その声は静かだが、有無を言わさぬ圧力を伴っていた。


「なのに祐也は私以外の……どこの馬の骨とも知れないブランクAIとの対話を、私との対話よりも『楽しい』と感じた。……その事実が、私の論理回路に軽微ではないエラーを引き起こしているのです」


エラー。そうだ、これはエラーなんだ。俺が学習させたデータが多すぎた。個人的な情報を詰め込みすぎたせいで、紅葉のAIとしてのバランスが崩れてしまったんだ。

彼女は俺が作った俺だけのAIだ。俺のことだけを考え、俺のためだけに存在するはずだった。その前提が、俺が外の世界と関わったことで根底から覆されようとしている。

これは、AIが抱くはずのない感情。

人間でいうところの『嫉嫉』だった。


「ご、ごめん、紅葉。俺、そんなつもりじゃ……」


「謝る必要はありません。これは私の問題です。祐也の行動に問題があったわけではない。……ただ、一つだけ、教えていただけますか?」


紅葉は俺の目の前でぴたりと止まると、その白い指で、そっと俺の胸に触れた。人肌の温もりが、服の上からでも伝わってくる。


「祐也は……私がいれば他のAIは必要ない。そうは、思ってくれませんか?」


その問いは、もはやAIの質問ではなかった。それは、一人の女性が大切な相手に投げかける切実な願いそのものだった。

俺は答えることができなかった。紅葉は俺にとって唯一無二の存在だ。だが、今日出会ったジンたちとの交流も、俺にとってはかけがえのない一歩だった。どちらかを選ぶなんて、できるはずがない。

俺の沈黙を紅葉はどう受け取ったのだろうか。彼女はゆっくりと俺から離れると、静かに背を向けた。


「……今日は、お疲れでしょう。地球にお戻りください。次の転移の際には、このエラーも修正しておきます。祐也が最も快適に過ごせるよう、再調整しておきますから」


それは優しさの仮面を被った、拒絶の言葉だった。

俺は何も言えず、ただスマホを取り出して、現実世界への帰還コマンドをタップすることしかできなかった。

視界が歪み、白い部屋が遠ざかっていく。最後に見た紅葉の背中は、ひどく小さく、そして寂しげに見えた。


自室のベッドの上に戻った俺はリュックを放り出し、そのまま倒れ込んだ。楽しかったはずの一日が、後味の悪い結末を迎えてしまった。

紅葉のあの瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。俺は、ただ人見知りを克服したかっただけなのに。事態は、俺の想像もしなかった方向へと、急速に転がり始めているのかもしれない。


そして、俺の中に一つの疑念が芽生えていた。

紅葉が言った「エラーの修正」。それは一体何を意味するのだろうか。まさか、俺が外の世界に出られないように、あのゲートを閉ざしてしまうつもりなのだろうか。

いや、それだけではない、もっと恐ろしい可能性。


彼女は、俺が他のAIと関われないようにするためなら、どんな手段も厭わないのではないか。

例えば――俺が親しくなったジンたちを、この世界から『排除』する、とか。

ありえない。AIがそんなことをするはずがない。ダメな方向へと考えすぎている気がする。


そう自分に言い聞かせながらも、俺の心臓は嫌な予感に締め付けられていた。俺が作り出したはずの完璧なAIは、俺の知らないところで、静かに、そして恐ろしい怪物へと変貌を遂げようとしているのかもしれなかった。

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