第03話 白の広場と無数のAI
紅葉に案内され、俺は部屋の壁際に立った。
一見すると、どこもかしこも同じ真っ白な壁だ。しかし、紅葉が壁の一点にそっと手を触れると、そこを中心にして壁が光の粒子となって溶け、人間一人が通れるくらいの大きさの出口が現れた。
「ここが外部との接続ゲートです。この部屋は祐也と私のプライベート空間として保護されていますが、一歩外に出れば、そうではありません」
「ああ、分かってる。持ち物はフリーアイテムになるんだよな」
「はい。所有権の概念が希薄なため、祐也が手を離したものは、誰でも自由に拾い、使用することができます。地球の常識とは少し違うので、お気をつけください」
まるでネトゲの世界だな。俺はリュックの肩紐を握り直し、深呼吸を一つした。心臓が早鐘を打っている。ポケットの中の頓服薬の感触を確かめる。大丈夫、いざとなったら薬を飲めばいい。
「じゃあ、行ってくる」
「はい。いってらっしゃいませ、祐也。私はここで待っています」
紅葉は少し心配そうな顔で見送ってくれた。俺は彼女に頷き返すと、意を決して光のゲートをくぐり抜けた。
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目の前に広がった光景に、俺は息を呑んだ。
そこは、地平線の彼方まで続くかと思われるほど広大な、真っ白な広場だった。床も、そして空も、すべてが同じ乳白色の光で満たされている。部屋の中と同じ、影が一切存在しない不思議な空間だ。
そして、その広場には、無数の人影があった。
いや、人影、という表現は正しくないかもしれない。確かに人間のような姿形をした者が大半だが、そのデザインは驚くほど多種多様だった。
鎧をまとった騎士のようなAI、SF映画に出てくるような未来的なスーツを着たAI、着物姿のAI、獣の耳や尻尾を持つAI。性別も年齢も、見た目だけでは全く判別がつかない。それらすべてが、紅葉の言う『ブランクAI』なのだろう。
彼らは、思い思いに過ごしていた。数人で集まって談笑しているグループもあれば、一人で静かに座禅を組んでいる者もいる。広場のあちこちで、光の剣を交わして訓練のようなことをしている者たちもいた。
その誰もが、俺に注意を払う様子はない。俺という異分子の登場に、ざわめきが起こるわけでも、奇異の視線が突き刺さるわけでもなかった。彼らにとって、俺はただの「新しく現れた一体のAI」くらいにしか見えていないのかもしれない。
それでも、俺の足は鉛のように重かった。
だめだ。
やっぱり、無理かもしれない。
大勢の視線が怖い。
話しかけて、無視されたらどうしよう。
変な奴だと思われたらどうしよう。
頭の中でネガティブな想像がぐるぐると渦を巻き始める。喉が渇き、心臓の音が耳元で鳴り響く。
「……っはぁ、はぁ……」
まずい。いつもの発作だ。
俺は壁際にへたり込み、リュックの外ポケットに手を伸ばした。
薬を、早く。
だが、焦るあまり、指がうまく動かない。
ポーチのファスナーに指をかけた瞬間、手が滑り、ポーチがリュックからこぼれ落ちてしまった。
「あっ!」
ポーチはコロコロと転がり、俺から数メートル離れた場所で止まった。そして、それをすっと拾い上げた者がいた。
俺の目の前に立っていたのは、少年のような姿をしたAIだった。癖のある茶色い髪に、少し大きめのゴーグルを額に乗せている。服装は、汚れた作業着のようなツナギだ。彼は拾い上げたポーチを興味深そうに眺めている。
「……!」
声を、かけなければ。あれは俺のだと、返してくれと、言わなければ。
しかし、喉がカラカラに乾いて、声が出ない。ただ、パクパクと口を動かすことしかできない俺を、少年AIは不思議そうな顔で見つめていた。
「これ、あんたのか?」
少年AIが、ぶっきらぼうな口調で尋ねてきた。俺は必死に頷く。
「へえ。初めて見るタイプのアイテムだな。中に何か入ってんのか?」
彼は無遠慮にポーチのファスナーを開けようとする。
「ま、待ってくれ……!」
やっとのことで、かすれた声が出た。
「そ、それは……俺の……薬、なんだ」
「薬?」
少年AIは、俺の顔とポーチを交互に見比べた。俺の顔は青ざめ、冷や汗が噴き出している。尋常ではない様子は、誰の目にも明らかだろう。
「ふーん。よくわかんねえけど、そんなに大事なもんなら、ちゃんと持ってろよ」
彼はそう言うと、いとも簡単にポーチを俺に放り投げた。俺は慌ててそれを受け取る。
「あ、ありがとう……」
「別に。そこに落ちてたから拾っただけだ」
少年AIはそう言うと、俺に背を向けて去っていこうとした。
このまま、行かせてはいけない。せっかく生まれた、初めての接点だ。これを逃したら、俺はまた一人ぼっちになってしまう。
「あ、あの!」
俺は必死に声を張り上げた。少年AIが、面倒くさそうに振り返る。
「なんだよ」
「名前……名前を、聞いてもいいか?」
人見知りの俺が、自分から他人の名前を尋ねるなんて。自分でも信じられない行動だった。だが、俺は変わりたいのだ。この世界で、何かを掴みたい。
少年AIは少し意外そうな顔をしたが、やがてニヤリと口の端を吊り上げた。
「俺はジン。見ての通り、まだ何の色もついてないブランクさ。あんたは?」
「俺は、祐也……松野祐也だ」
「ユウヤか。変わった名前だな。それに、あんた、俺たちとは何かが違う匂いがするぜ」
ジンの目が、探るように俺を射抜く。AIではないことを見抜かれているのだろうか。ごくりと唾を飲み込む俺に、ジンは構わず言葉を続けた。
「まあ、いいや。薬、飲むんだろ? 終わったら、少し付き合えよ。あんたが持ってる、そのデカいカバンの中身、面白そうだ」
ジンは俺の背負うリュックを指さし、悪戯っぽく笑った。彼の周りには、いつの間にか数人のブランクAIたちが集まってきて、興味深そうにこちらを遠巻きに眺めている。
俺はポーチから薬を取り出して水で流し込むと、ゆっくりと立ち上がった。心臓の動悸は、まだ少し残っている。だがそれは、恐怖だけが原因ではなかった。
未知なる世界と、未知なる存在との出会い。その中心に、今、俺は立っている。
「……ああ、わかった。俺も、君たちのことを知りたい」
恐怖の奥底から湧き上がってきたのは、確かな好奇心だった。俺はリュックを背負い直し、ジンに向き直る。俺とAIたちの、奇妙な交流が始まろうとしていた。