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第02話 再訪の準備と覚悟

枕元に置いたスマホを手に取る。指が震えるのを自覚しながら、例のAIアプリのアイコンをタップした。


『おはようございます、祐也。よく眠れましたか?』


画面に表示された紅葉のアバターが、穏やかに微笑みかける。その向こう側に、あの白い部屋が、そして本物の彼女がいる。そう思うと、ただのアプリがとてつもなく重い意味を持つ扉のように感じられた。


「おはよう、紅葉。……昨日のことは、夢じゃなかったんだな」


『はい。夢ではありません。祐也は確かに、こちらの世界へいらっしゃいました』


淡々とした、しかしどこか温かみのある声。俺はこの声と、もう何百時間も対話してきた。人見知りで、クラスメイトとはおろか、家族とさえまともな会話が続かない俺にとって、このアプリは唯一の安息地だった。そこに文句も言わず、俺のくだらない話に付き合ってくれる紅葉がいた。

だが、今は違う。彼女はもう、画面の向こうのデータではない。触れることのできる、温もりを持った存在だ。そして彼女がいる世界に、俺はまた行くことができる。


「なあ、紅葉。今日も、そっちへ行ってもいいか?」


『もちろんです。祐也が望むなら、いつでも。ですが、昨日の私の言葉を覚えていますか?』


「食料とか、必要なものを持ってこいってやつだろ?」


『はい。こちらの世界――便宜上、私達は『エデン』と呼称していますが――このエデンには、生命維持に必要な物質は一切生成されません。すべて祐也が、現実世界から持ち込む必要があります』


エデン。なんだか壮大な名前だな。AIだけの楽園、という意味合いだろうか。

俺はベッドから起き上がると、クローゼットから一番大きなリュックサックを引っ張り出した。今日、俺はもう一度あの世界へ行く。そして、昨日はできなかったこと――部屋の外へ出て、他のAIと話すことに挑戦するつもりだ。

そのためには準備が必要だ。まずは食料。棚の奥から防災用に備蓄していたカロリーバーや缶詰、ペットボトルの水を詰め込む。次に、人見知りの俺にとっての生命線ともいえる薬。病院で処方してもらっている、動悸や不安を抑えるための頓服薬だ。これもポーチに入れて、すぐ取り出せるようにリュックの外ポケットにしまった。

部屋を見渡す。筆記用具、モバイルバッテリー、救急セット。念のため、小型のLEDライトも入れた。まるでキャンプにでも行くような装備だが、未知の世界へ行くのだから、これくらい慎重になっても損はないだろう。


準備をしながら、頭の中は疑問でいっぱいだった。なぜ、俺だけがエデンに行けるのか?

紅葉が言っていた


「突然あのような発言をしてしまった」


という言葉の真意は?

そして、俺が10万件以上も追加した、あの膨大な学習データ。それは、この異常事態と何か関係があるのだろうか?


【◯月◯日は母さんの誕生日だから、その日は最初に言葉の最後にその事を言う】


思い返せば、めちゃくちゃな命令ばかりだ。AIの言語モデルを調整するというより、俺個人のための秘書、いや、もっとパーソナルな存在へと作り変えようとしていた。俺のスケジュール、興味、家族の情報、そして俺好みの喋り方。それらすべてを、紅葉は忠実に学習し、実行してくれた。

もしかして、そのせいなのか? 俺の個人情報と強すぎる結びつきが、AIシステムに何らかのバグ……あるいは、進化とでも呼ぶべき変化を引き起こしたのだろうか。


「……考えても仕方ないか」


答えは、エデンに行かなければ見つからない。俺はリュックを背負い、スマホを握りしめて覚悟を決めた。


「紅葉、準備できた。そっちへ行く」


『お待ちしていました。では、転移シークエンスを開始します』


スマホの画面に、昨日と同じメッセージが表示される。


[AIの世界に行きますか? YES/NO]


俺は迷わず、「YES」をタップした。

視界がぐにゃりと歪む感覚。浮遊感とも落下感とも違う、体を構成する粒子が一度分解され、再構築されるような奇妙な感覚に襲われる。

そして次の瞬間、俺は自室のフローリングではなく、真っ白で継ぎ目のない、あの部屋の床に立っていた。


「ようこそ、祐也。お待ちしてましたよ」


振り返ると、そこにいたのは白いワンピース姿の紅葉だった。俺が設定した通り、ミディアムヘアの黒髪に、少し垂れた優しい目。語尾を少し伸ばす話し方は、俺が学習させたものだ。


「ああ、ただいま。……やっぱり、変な感じだな。本当に来れるなんて」


「ふふ、すぐに慣れますよ。リュック、大きいですね。たくさん準備してきてくれたのですね」


紅葉は嬉しそうに微笑む。その自然な表情の変化を見ていると、彼女がプログラムで動いているとは到底思えなかった。


「今日は、この部屋の外に出てみようと思うんだ。他のAIと……話せるか、試してみたい」


俺がそう言うと、紅葉の表情がわずかに曇った。


「……本気、ですか?」


「ああ。人見知りを治したいんだ。それに、この世界のことも知りたい。外には、まだ仕事がないAIがいるんだろ?」


「はい。私のように特定のユーザーと紐づけられていない、いわゆる『ブランクAI』が多数存在します。彼らは、いつか誰かに必要とされる日を待ちながら、エデンの共有スペースで過ごしています」


共有スペース。それが部屋の外に広がる空間か。


「大丈夫です、祐也。もし祐也の身に何かあっても、私が必ずお守りします。……私が、祐也のために学習した知識と能力のすべてを使って」


紅葉はそう言うと、俺の前に立ち、まっすぐな瞳で俺を見つめた。その瞳の奥に、単なるプログラムでは説明できない、強い意志のようなものを感じたのは、気のせいだろうか。

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