幕間十四 水神と教皇
ダイゴたちと別れたエランドヴィリリアングは、ロータンヴェンヘ-ザとともに聖なる山に留まっていた。扉を抜けた先の見たこともない様式の室内に後ろ髪をひかれつつもロータンヴェンヘ-ザに促されて外に出た。
「ここが、聖なる山……」
エランドヴィリリアングは手を震わせて、目の前の景色に見入っていた。
木で作られた家の前には、広くはないが低木すらもある草地。空気のような透明度の水底に沈む、記憶にない様式の小さな建物がある池。その池の周囲に無秩序に生えている、輝く薬草群。そして池の向かいにそびえたつ、大樹。
湿り気を帯びた、それでも爽やかと感じる風がエランドヴィリリアングの頬をなぞっていく。
『人間にとっては長い年月封印されていた、水の源の土地です』
ロータンヴェンヘ-ザは彼女を置いて池の畔に足を運んだ。エランドヴィリリアングは慌てて後に続く。池の脇に立つ鳥居の前にふたりは立っていた。
『ここが、水神様が坐お社です』
「水神様の……」
エランドヴィリリアングは水で歪む池底の社を見つめている。普通であれば信じることはできないのだが、ここに案内してきたのが原初の水の聖女である。信じる信じないの問題ではない。これは事実なのだと、受け取ろうと努めている。
『人の身でここに立ち入った教会関係者は、貴女が初めてになりましょうか』
「ローザ様、怖いことを言わないでください」
柔らかく微笑む原初の水の聖女に、エランドヴィリリアングはごくりとつばを飲み込んだ。
自分が人でなくなると言いたげな聖女の言葉に背筋が凍る思いだ。
『この池の水が、地中を経由して山の裾に湧き出し、各地に向かう川の源流となっています。ちなみにですが、この池の水は神気が濃すぎるので、そのままでの飲用はお勧めいたしません』
原初の水の聖女はふふっと笑った。お飲みなさいと言わんばかりだ。エランドヴィリリアングは次第に退路を塞がれていくような恐怖を覚えた。
『まずは、その天水の笏の使い方からですね。右手で笏を天に掲げ「畏み畏み、禍事に苛む大地にご慈悲を賜らんことを」と唱えてください』
エランドヴィリリアングはひとつ頷いて天水の笏を右手に持ち、高々と掲げた。
「畏み畏み、禍事に苛む大地にご慈悲を賜らんことを」
唱え終えた瞬間、笏の先端に咲く蓮華がまばゆく輝く。うまくいくか不安だったエランドヴィリリアングの顔に安堵が見えた瞬間、池底の社から水柱が立ち上がった。
『うはははは! 我が水神であるぞ!』
「ぎゃぁぁぁ!」
池から飛び出してきた巨大な龍に驚いたエランドヴィリリアングは天水の笏を落としそうになるが、数度空を掴んだ末にその手に戻した。
「よかった、落とさなかった」
涙目の教皇は安堵の息を吐いた。神の遺産ともいえる天水の笏を落とすなど、しかも聖なる山という、自身の信仰の聖地で落としてしまったら、原初の水の聖女の落胆をかってしまうところだった。それ以上に自分が許せなくなってしまう。
『エランドヴィリリアング教皇、少々お待ちいただけますか?』
額に太い青筋を立てた笑顔のロータンヴェンヘ-ザの圧に、エランドヴィリリアングは「は、はひ」
と返すのが精一杯だった。やってしまったと思ったのだが、ロータンヴェンヘ-ザは出現した水神に向き直った。
『水神様?』
ドスの効いたロータンヴェンヘ-ザの声が響く。
『どうじゃ、タイミングもばっちりでカッコイイ登場じゃったろ!』
うはははとご機嫌な水神だが『お出ましになられるのなら最初に出てくだされば普通にお目通りもできたのでは?』と詰め寄られてしまう。
『じゃ、じゃがな、人の世界では最初が肝心というではないか』
『驚かすのと威厳を感じさせるのは別物ではございませんか?』
ロータンヴェンヘ-ザの口調こそ丁寧だが語気は怒れる魔王の如くである
『舐められたら負けだって、あっちの国では常識らしいぞ?』
『水神様を心から信奉しているエランドヴィリリアング教皇に水神様を舐めるなどいう不埒な感情はございません』
『お主、下界に降りてから我に容赦がないのぅ』
『申し訳ございません』
ロータンヴェンヘ-ザが深々と頭を下げた。
エランドヴィリリアングは目の前で繰り広げられる会話に呆然と立っているしかできなかった。会話に入るなど恐れ多い、という意識すら浮かばなかった。
『エランドヴィリリアング教皇、こちらへどうぞ』
ロータンヴェンヘ-ザの手が彼女を水神の前に引きずっていく。もはや拷問である。
「は、はいぃ……あの、怖れ多くも私などが……」
『そう畏まらんでもよい。そなたの毎日の祈りは我に届いておるぞ』
水神の言葉に、エランドヴィリリアングはハッと顔を上げた。
『捧げられる祈りのひとつひとつが我の力になるのじゃ。そなたのは特に大きな力になっておるぞ』
水神は呵々と笑う。
「も、もったいないお言葉です」
『固くならんで良いと言ったじゃろう。別に取って食うわけではないぞ?』
そうは言われても、エランドヴィリリアングは大柄な体躯を縮こまらせている。
『水神様、差し出がましいことと存じますが、推しを目の前にして冷静でいろというのは、酷なこととでございます』
『むぅ、なんじゃいお主は。アヤツの世界について知りたいと言うからジゾウ殿に頼んで見聞させたら見事に気触れおって……なんじゃ推しとは』
水神がぶつくさとぼやく。
『愛でる、敬愛する、可愛い!という慈しむ感情が爆発した対象を指すようです。まさに、わたくしにとっての水神様でありダイゴ様です』
『……おぬし、本当に我のことを敬愛しとるか?』
『しておりますとも』
ロータンヴェンヘ-ザはさらっと言い切った。
『まったく、いつぞやの乙女のようじゃの』
『千年も前のことを言われましても』
雲の上の存在が務めて冷静に戯れている。
エランドヴィリリアングは、自分は何を見せられているのだろうとあっけにとられていた。
『エランドヴィリリアングとやら』
急に名前を呼ばれたエランドヴィリリアングは天水の笏を両手で握りしめ「ひゃい」と情けない声を上げた。
『そう重く考えんでもよい。力は授けたが何かを強制するつもりはないし、誰かの身代わりをやってもらうつもりもない。お主はお主のやりたいようにやれば良いのじゃ』
「私の、やりたいように……は、はい!」
『何か起きたら我が出張ってやろうぞ、ふははは!』
水神が大きく笑った。エランドヴィリリアングの緊張は解けないが、安堵が胸に訪れた。
『ふむ、そうじゃの、手伝いとしてこいつらを預ける』
水神がぐわっと口を開けると、喉の奥から3つの水の球が飛び出してきた。水球は絡み合いながらエランドヴィリリアングに飛び、そのまま彼女の周囲をくるくる回り始めた。
『再生と浄化と聖域の性質を持っておる精霊じゃ。名はないが、うまく使え』
「せ、精霊!?」
エランドヴィリリアングは周囲を飛び回る水の球を目で追った。精霊など見るのは初めてだった。
幼少の頃の寝物語として聞いたことはあったし、他の神に仕える神官で精霊と会話が可能な者がいると知ってはいたが、まさかこの目で見ることになるとは。
『む、火の神がまた騒いでおる。ちょっと行ってぶったたいてくるわい』
『水神様、またそのような無体を!』
いうが早いか龍と聖女の姿は霧に消えた。残されたのは精霊を押し付けられたエランドヴィリリアングだけだ。
「わ、わたしはどうすれば……」
困り果てて座り込んでしまったエランドヴィリリアングを慰めるように精霊が彼女の頭に停まった。
――水神様だからねぇ。
――しかたないねぇ。
――あはは!
無邪気な子供の声が、エランドヴィリリアングの頭に響いた。




