『じん』は人を騙す化け物
「志賀さん。準備はできてますか?」
固定電話から島津さんの声が聞こえてくる。
その声は、少し通信が悪いのかもしれない。
途切れ途切れというかぶつ切りというか、しかし彼女の声が聞けたことで恐怖の一端がほんの少しだけ薄れた。
「えぇ、本当に……本当に助かるんですよね」
目の前の扉を不安げに見つめながら、電話口に向かって話す。
ドアノブには麻縄がぐるぐるに巻いてあり、それは近くの棚に結ばれている。
まさに数分前、自分がやったのだ。
どう考えても、これから対峙する『じん』に対してそれが無駄であることはわかっていた。
言うなれば、これは最後の悪あがきというやつなのかもしれない。
「助かるのかって……そんなの私に訊かれてもどうもなりゃしませんよ。それはあなた次第じゃないですか」
至って冷静な声のままでそう言われる。
これはきっと、彼女なりの励ましなのだ。
いつまでもなにかに縋りついていては、どうにもならないのだと。
いや、そうでなくとも、追い詰められた私にはそう思うほかに希望がなかった。
「志賀さん、たった今、『じん』が家に入ってきました」
「ほ、本当ですか……! でも、玄関の扉が開く音は……」
突然のことで少し大きな声を出してしまい、島津さんにシーッ! と電話越しに注意されてしまった。
「大声、出さないでください。見つかりますよ」
気をつけます、と小声でいうと、ため息が電話の向こうから聞こえてくる。
「気配の限りでは、あれはまだ入ってすぐのところにある御札に苦戦しています。ですが、数分もあればその効力も切れるでしょう。志賀さんはそのままその部屋にいてください。音を出して『じん』をできるだけ惹き付けるんです。その間に私がなんとかしますから。あ、くれぐれも大声だけは出さないように。でないと、殺されますよ」
島津さんの冷静な態度とは裏腹に、私の胸中は恐怖と焦りでいっぱいだった。
汗が全身から噴き出し、中に着ているシャツが既にビショビショになっているほどだ。
しかし、今日さえ、この一時さえ乗り越えれば、また平穏な日々が戻ってくる。
半年間の苦しみから開放される。
今の私を楽にしてくれるのはその心持ちだけだった。
「志賀さん、電話切りますよ」
はい、と返事を返す間もなく、島津さんは電話を切ってしまった。
思えば、この半年間、彼女に頼りっきりだったように思う。
島津さんに出会ったのは、この恐怖が始まったのは……いつ頃だったか。
必死に記憶を捻り出す。
そうだ、あれは確か、祖母が他界する三日前のことだ。
いつものように、会社からの帰り、祖母への見舞いに行った日のことだった。
祖母は、元々重度の認知症を抱えていて、その頃にはもうほとんど言葉を発することもなかった。
たまによくわからないうわ言をハッとしたように言うだけだった。
その日も祖母は、ボーッとベッドに横たわったときに見える天井を眺めていた。
「おばあちゃん、今日はいつもよりボーッとしとるな。そんな天井見てて飽きんの」
もちろん、返事が返ってくることはない。
祖母が入院してからいつ頃からだったか、それは記憶の片隅にすらないが、気がついた頃にはこちらの問いかけに応じてくれることさえなくなっていた。
そう、だから返事が返ってくることはない、と思いこんでいたのだ。
「一哉……一哉」
問いかけに応じた、というよりは、急にうなされだしたかのように苦しみだしながらこちらを見て、祖母が私の名前を言ったのだ。
「なに、おばあちゃん」
久しぶりに祖母に名前を呼ばれたのが嬉しかった。
しかし、もはや会話すらままならないのを、最後の力を振り絞ってくれているのではないかと思い、ワタシは祖母をあまり急かさないように落ち着いた声で言った。
「一哉、おまえんとこにも『じん』がいく」
さっきまでボーッと天井を見ていただけの祖母がなにかに怯えているような目をして、焦ったような表情を浮かべる。
「死んだ、死ぬ……話かけてはいけない何があっても。あぁ、だめなんじゃ! 取り合ってはいけない、何があっても信じちゃいかん。『じん』は人を騙す!」
そこに、ここ数年、一度も上げたことがなかったほどの大声で、話し出す祖母がいた。
言っていることの意味が分からず、ただ病室の中で喚く祖母を眺めていた。
それから三日後、祖母は容態が急変し、無理を言って会社を早退したあと、急いで駆けつけたが、既に祖母は亡くなっていた。
もう幾年かも前から祖母は随分弱々しく、いつかはこうなるだろうと思っていたからか、悲しみはあるものの、涙は出なかった。
むしろ、祖母の死をすんなりと受け入れられた。
それよりも、困惑したのは、祖母の最後を看取った母からの報告を受けたときだ。
亡くなるほんの数分前まで、なにかよくわからないうわ言、だけども今までのものとは比にならないような大きな声で、喚いていたという。
『じん』を近づけるな、『じん』の音じゃ、と何度も繰り返し繰り返し言っていたと。
『じん』それは、亡くなる三日前にも聞いた単語だ。
一体それはなんなのか、祖母が死ぬ前に心底怯えたものはなんだったのか。
気になりはしたものの、すぐに葬儀の準備が始まり、色々とバタついたことで、そんな記憶は翌日には消え失せていた。
しかし、その後すぐに思い起こされることになったのだ。
葬儀当日、親戚の他にも、私も知らないほどの大勢の祖母の友人、知り合いが参列に来ていたのを覚えている。
彼らは祖母とどんな関係だったのか、普段の私には気になっているところだが、祖母の葬儀でとても話しかけようという気にはならなかった。
それでも、何人かの参列者が私のところへ来て、孫の私に一言、お悔やみの言葉をかけてきた。
そして、その中にいたのだ。
島津千代、彼女は一言、「志賀一哉さん、あなた、『じん』の次の標的になっていますよ」と、そう囁く。
その時思い出した『じん』という単語。
祖母が亡くなる前に恐れたなにかの名前だった。
私が興味を示すと、彼女は名刺を取り出す。
『霊媒師 島津千代』その文字が不思議と私の目を惹いた。
オカルトや非科学的現象に興味のなかった私は、普段なら鼻で笑い飛ばしたあとに名刺を突き返すくらいのことをしていただろう。
しかし、『じん』が一体何なのか、祖母が恐れたもの、それを知ることができるとわかると、いつの間にかそれが私の気がかりとなって頭から離れなくなった。
そして、葬儀が行われた日の二日後だったか。
ついに、受け取った名刺に書いてある電話番号を、スマホに入力した。
私が『じん』について知りたい旨を伝えると、彼女はある喫茶店に私を呼び出した。
当時の私は霊媒師にも事務所のようなものがあって、そういうところに呼ばれると思っていた。
そして、霊媒師は霊関係の相談、除霊を生業とするものだから、自然とお金を払う必要があると思っていた。
しかし、それを彼女に伝えると、電話越しにちょっとした笑い声が聞こえ、「お代はいただきません。おばあさんにはお世話になりましたし」と言われた。
そうして、その週の土曜日、待ち合わせの時間通りに喫茶店に入店すると、島津さんが先に座って待っている。
カウンターの上にはいかにもとでも言うような古文書のようなものが積み重なっていた。
早速『そういう』話をするのかと思い内心身構えていたが、彼女は、本題に入る前に、私の祖母には随分と世話になったことを話して、それがいつの間にか、世間話へと移り、何分かしてその話題も尽きた頃、彼女はようやっと、突然冷静な様子で話し始めた。
「『じん』はとんでもない化け物です。以前はおばあさんが狙われていました。でもおばあさんは『じん』が襲いに行く前に亡くなった。だから孫のあなたに狙いを変えたんですよ」
化け物、そう言われてもいまいちピンとこない。
そんな表情をしたように見えたのだろうか。
彼女は持ってきていた御札を、取り出した。
「私はこの御札や様々な除霊法で何百という怨霊、怪異を鎮めてきました。しかし、『じん』は今までの比にならない、それぐらい危険な化け物です。志賀さん、信じて。私はあなたを助けたいんです」
彼女の瞳がまっすぐ私の瞳を覗いていた。
とても冗談や冷やかしには思えない、真剣な眼差しを向けられたのだ。
だから、私も真剣に考え返答した。
「幽霊とか、妖怪とか、そういうものは基本信じてないんです。でも、あのときの祖母の怯え方は明らかにとんでもないものだった。まるで死そのものが目の前にいて、睨まれているかのような……。あの日、祖母が恐れたのはなんだったのか気になるんです。ですから、できることなら、僕は『じん』のことを知りたい。協力してくれるのであれば喜んで」
自分で言っているうちに本当にその化け物が、あの日祖母を襲おうとしていたのか、考えてしまって胸の内に恐怖が流れ込んできて、あっという間に頭の中が不安でいっぱいになってしまった。
再び私の様子を察してくれたのか、彼女は、必ず助けますから、と言い『じん』が改めてどんな化け物であるかを教えてくれた。
大昔、伝承に残っているものでは江戸時代まで遡るという。
当時、『じん』は『入鬼』と呼ばれ、関東では人を付け回す妖怪として恐れられていた。
『入鬼』に決まった姿形はなく、気まぐれに人を襲うというよりは、一人の人間を狙う。
標的が変えられることはなく、その人間は死ぬまで『入鬼』の恐怖に怯えながら暮らす他なかったのだと。
これは、祖母にも一致するところがある気がした。
祖母がいつ頃から『じん』に狙われたのかは知らないが、しかしいよいよ亡くなるというその日にも、祖母は『じん』に怯え、認知症の弱々しい体からは想像できないくらいの大声で喚き散らしたのだ。
『入鬼』はそのうち、口にするのもはばかられるほど恐れられ、忌避された鬼の字が入っているものとの変わりに、『じょう』と呼ばれるようになった。
『じょう』は時代とともに訛りや方言が加わり、そのうち今の『じん』に変わったのだという。
「怖いですか。こんな話をして不安にさせてしまってすみません。ですが、これは必要なことです。正しく怖がってもらうことが」
言われた通り、恐怖は感じていた。
しかし、それは曖昧で漠然とした恐怖。
説明されたことで逆に、自分が狙われているのだという実感は薄れていた。
まるでフィクションの話のようで、しかし全てがでたらめな話とも思えない、奇妙な感覚に襲われていた。
「志賀さん、今はそれでも良いですから。恐怖を忘れないでください。でも、私を信じるということだけは絶対に約束してください」
再び、あの真剣な眼差しが向けられる。
迷いながらも混乱した頭をなんとか整理し、そして、わかりました、とはっきりと返事をした。
それから、彼女に住所と電話番号教え、なにかあったら連絡するということでその日は別れた。
そして、話は一週間前の仕事帰り、駅を降りて暗い夜道を歩いていたときまで飛ぶ。
その日はやたらと残業が多く、もう夜遅くになっていたことで辺りには既に人気がなかった。
しかし、明らかにおかしかったのだ。
自分はなにかに見られている。
もしかしたら、追われているのかもしれない。
どうしてなのか、どうしようもなくそう感じ、激しい悪寒とともに、全身に鳥肌が立った。
そうしていつの間にか、トボトボとした足取りだったのが早歩きに、やがては恐怖のあまり走り出していた。
一瞬でも早く家へ帰りたい、その一心で、普段は運動など皆無だった体に随分と堪えても、構わず足を動かした。
駅から、家までは歩いて十五分ほど。
実際は走っていたのだから、もっと早くに家に着いていたのだろうが、その時の私にはその時間が何十分にも何時間にも思えた。
そうして、やっとの思いで家についたときには、服は恐ろしさから湧いた冷や汗と、体温上昇に対して湧いた汗とでビショビショに濡れていた。
家の玄関を見、壁を見、屋根を見て、安堵する。
しかしそれも束の間、再び全身を激しい悪寒が襲った。
体の赴くままに急いで鍵を出して玄関の戸を開け、勢いよく滑り込むと、すぐさま鍵を閉める。
予感は当たっていた。
鍵を閉めた瞬間に、扉が激しく叩かれた。
ノックなんてものの勢いではない。
まるで、目の前にある金属製の扉が、そのまま壊れてしまうほどの轟音。
しかし、扉そのものは歪むどころか、叩かれた振動さえなかった。
だが、わかるのだ。
島津さんに説明されたあの『じん』がこの扉一枚を隔てた向こう側にいるのだと。
直接存在を知覚したのはこれが初めてだ。
これまでも、家に帰るとノートがびりびりに破られていたり、何も触っていないのに急にお皿が割れたり、それからなにかに見られているような気というのはたまにしていた。
そのたび島津さんに相談したりして、束の間の安心感を得ていたのだ。
しかし、今回のものは今までと違う、と思っていた。
だって、見られているというよりも追われているような感覚だったからだ。
ずっとなにかに追われているような気がしたのに納得がいく。
『じん』はずっと、私の背後にいたのだ。
扉が叩かれる音は更に激しく、音量も上がっていく。
私は恐怖のあまり、足がすくんでしまい、玄関の前から動くことができずそこでうずくまることしかできなかった。
それから数分は経っただろうか。
突如として扉を叩く音が止んだ。
あれは、『じん』は諦めて帰ってくれたのだろうか。
そう思い、少し安心しかけて、動かない体を踏ん張って、なんとか立ち上がろうとしたその時、呻き声が扉の向こうから聞こえた。
「うーッ……うーッ」
苦しそうな、しかしおどろおどろしい声が耳に届く。
その時、やっと思い出した。
そうだ、島津さんに電話をかけなければ。
そう思い、スマホを取り出す。
ロック画面を解除し、通話アプリを開いたところで、突然『じん』らしきものの声色が変わった。
「かずや……開けろ……しが……」
呟くように、それが私の名前を呼んだ。
恐怖よりも驚きが先行していった。
私は既に、この化け物に名前を知られている。
しかし、その事実を知ったことで、逆に冷静になれた。
今、自分は危険な状況にいることを、初めて客観的に見ることができたのだ。
それからは実に自然だった。
体を奮い起こし、立ち上がると、呼ばれているのを無視して、リビングまで歩く。
そうして、もう一度スマホのロック画面を解除し、島津千代の名前をタップした。
しばらくして、呼び出しコールが十回は鳴ったあと、島津さんが出た。
そして、その声が私に問いかけた。
「遂に来たんですか」
ただその一言だけだ。
すぐに、まさにその通りであることを、外のそれに気づかれないように小声で言った。
「わかりました。志賀さん、この電話を切って、十分後にまたかけ直しますから」
私は意図を理解していなかったが、しかし、すぐに了承すると、島津さんの返事を聞いて電話を切った。
彼女の声を聞いたことで、少し落ち着いたような、安心したような気分になり、勇気を出してもう一度玄関の前まで行き、聞き耳を立てた。
もう、私のを呼ぶ声は聞こえない。
島津さんと電話をしているうちに帰っていったのだろう。
十分後、今度は島津さんの方から電話がかかってくる。
「『じん』は帰りましたか」
「はい、おそらくですが……」
島津さんの少し考えたような吐息が聞こえた。
「詳しく話を聞かせてください。声は出しませんでしたか」
「いえ、声は出してません……」
出してない、というよりは出せなかったというのが本当の事だったが、この会話の内ではそんなことはどうでも良かった。
それから、家の中でおかしな現象は起きていないか、『じん』の声色に聞き覚えはなかったか、息苦しさを感じていないか、と立て続けに質問された。
全て当てはまることはなかったが、島津さんは続けて、深いため息をつく。
そして、二十秒も無言の時間が続いた。
途中で通話が切れていないか不安になったが、そんなことはなかった。
「志賀さん、一週間後、仕事を休んでください。無理なら無断欠勤でもしてください。絶対です」
そう言って、通話は切れてしまった。
バタン、と一階で音がする。
きっと、ついに御札が破られたのだろう。
そうだ、音を出さなければ。
右手に掴んでいた固定電話を離して、近くにあった目覚まし時計を手に取る。
そして、アラームをほんの一分後にセットした。
そうすると、思っていたよりすぐにジリリリリッと音が鳴り始める。
すると、音に反応したのだろう。
階段が大きく軋む音がアラーム音に混じって聞こえてきた。
軋む音は段々と近づいてきて、次第に音も大きくなっていく。
抱えきれないほどの恐怖を感じ、一週間前にも味わった激しい悪寒が再び襲ってくる。
耐えれば、耐えれば一階に隠れ忍んでいる島津さんがなんとかしてくれる。
そう思っていた。
しばらくして、軋む音が聞こえなくなった。
『じん』は階段を登りきったのだ。
ゆっくりと足音が近づいてきて、もうすぐそこまで来ているのがわかった。
一週間前と同じように、一枚の戸を隔てたその向こう側に化け物がいるのだ。
すぐに、扉を叩くのかと思うと、怖くなり耳を塞ごうとした。
しかし、それより前に耳に届いてきた音は衝撃のものだった。
「一哉さん、終わりましたよ」
紛れもない、島津さんの声。
その声は相変わらず冷静沈着で、息切れ一つしていなかった。
「ここを開けてくださいませんか」
「は、はい」
もう終わったのだ。
瞬時に張り詰めていた緊張が破れ、内に溜まっていた恐怖が流れ出ていく。
そうして扉を開けようとしたところで、一つ疑問が浮かんだ。
あぁ、できれば気づきたくなかった……。
すぐに恐怖は逆流し、マックスに到達する。
「島津さんは、一度も僕を一哉と呼んでいません。あなたは、一体……」
相手の返事はなかった。
その代わりに、ブチッと音がなる。
その音の居所を探しているうちに続けて二回、三回とブチッという音が鳴った。
これは……麻縄が千切れる音だ。
『じん』が入ってこれないようにするための最終手段だったのに。
何本も、何巻きもした麻縄はどんどん千切れていく。
何本かのものを編んで太くしたものも当たり前のように千切れてしまった。
向こう側から力強く開けようとしているからではない。
全く謎の力が麻縄を一本ずつちぎっていくのだ。
そして最後の一本になる。
そして、それすらもあっけなく千切れた。
もはやなんの感情も感じなかった。
感じることができなかった。
頭が真っ白になって、それから、意識が朦朧とする。
扉が開く音が聞こえ、入ってきたモノに衝撃さえ受けなかった。
目の前にいるのは島津千代だ。
それが私のことを見下ろしている。
きっと、『じん』が化けているんだ、直感でそう思った。
「本物の島津さんは……どうした……」
いつの間にかしわがれてしまった声で、なんとか呟くことができた。
「しが……かずや」
目の前の島津さんの見た目をしたそれが、聞き覚えのあるおどろおどろしい声で言った。
どういう力が働いているのか、意識がどうしてもはっきりせず、酷いめまいがしてまともに立つこともできない。
しかし、それが目の前の化け物によって引き起こされていることだけはわかる。
そうして、私はずっと『じん』の手のひらで踊らされていたのだと気づいた。
これは理性を持った化け物なのだ。
島津さんになりすましているのでも、島津さんの皮を被っているのでもない。
島津さんが『じん』だったのだ。
島津さんの口が大きく変形し、見るのもおぞましいほどの巨大なものになった。
そうして自分の体の、上半身と下半身が別々になったのがわかった。
★
一体、何があったというのだろう。
志賀が死んだらしい、との突然の報告で、俺は呆然とした。
仕事熱心な彼が、有給を取ったので、いつも働いているぶん、十分休んでほしいと思ったものだが、死んだなんて……。
閉め切られた棺を前にしても、俺は事実を受け入れられなかった。
死体が見つかったとき、そこには下半身しかなかったそうだ。
どう考えても他殺だろうということで、警察が懸命に捜索したが、何者かによって移動させられた痕跡もない。
結局、彼の上半身は見つからないまま葬儀は行われ、そしてもう終わる頃であった。
上半身と下半身が別れて死ぬなど、尋常なものではない。
志賀はなにか厄介なことに首を突っ込んだりしていたのだろうか。
特にここ半年ほど、彼の祖母が亡くなってからはどこか様子がおかしいとはおもっていた。
しかし解決できないまま、心の奥深くで納得できないものを抱えたまま、葬儀は終わりそうだ。
だが、自分は警察でもなければ、探偵でもない。
ただのしがない会社員だ。
だから、諦めるしかないのだとそう思ったところで女性に話しかけられた。
「初めまして。志賀さんの上司の永田さんですか」
「ええ、そうですが、一体そちらはどちら様で?」
彼女はポケットから一枚の名刺を出して言った。
「島津千代と申します」




