ホーム・ビター・スイート・ホーム // 亥刀瞬間
――あんたら将来きっと夫婦を組まされるよ。
養母は何の気なしにそう言った。きっと本人は憶えてすらいないだろう。
彼らにとって結婚という契約は無味無臭の任務の一つでしかなく、そこに情の類はひと欠片だって含まれない。家族の概念も同じく単なる所属部隊の意味しかない。
そうとは知らない幼い瞬間は、この時から過ちに身を投じていたというのに。
それが、亥刀に引き取られた二十年前の話。
もう少し下って十一年前。すっかり一人前の忍者になった十六歳のシュンマは、同齢の玉響とともに夜半、とある民家の近くに潜んでいた。
むろん任務で。
「冷えるな」
「ん」
ごく短い会話だけ、白くけむる吐息に時々混ぜているが、それ以外は二人とも置物のようにじっと動かなかった。
背後からは幾度となく物凄まじい破壊の音やら悲鳴やらが響き渡り、夜の住宅街にあるべき静寂を冒涜している。放っておけば近隣の一般市民がようすを見に来たり警察を呼ぶに足る大音声の数々を、二人はひそかに張り巡らせた目に見えない膜で覆って、僅かにも外に漏らさないのを役割としていた。
作業は地味だが緻密極まりない。氷点下近い真冬の深夜だろうと、寒さに震えることすら許されないほどに。
ようやく膜の内側で合図が上がったとき、二人は確かに安堵した。
養父母たちが飛び出してくる。先頭にいる男の腕の中には、片手を過ぎたばかりの女の子が抱きかかえられていた。
ひと目でそうと知れたのは、その娘が古い外国の映画にでも出てきそうな恰好をしていたからだ。夜陰を被って色味は伺えないものの、背後の炎を受けて逆光に照る輪郭は、豪奢なレースを重ねて優雅にたなびくスカートの裾。
幼い少女だけを土産に、一行は音もなくその場を引き揚げた。あとは炎がすべてを隠滅して、世間的には単なる不幸な放火事件として、未解決のうちに処理されるだろう。
目撃者はおらず証拠もなければ、誰も忍者の暗躍に辿り着くことはできない。
「――で、この子どうする?」
大人たちが会議を始めたころ、シュンマと玉響は隣の部屋で少女のようすを見ていた。元は襖で区切られただけの大広間で、一か所片手が入る程度に開けていたから、会話はすべて筒抜けだ。
議題は確保した少女の処遇である。まず彼女の実の両親は、とうの昔に刻衆――つまりこの現代忍宗の手によって始末されていた。
親族を辿るのは不可能ではないが、身内だからといって快く引き受けるとは限らない。児童養護施設という選択肢もある。
しかし、どちらを選んでも片手落ちになる、重大な問題が一つあった。今日まで彼女を養育していたのは人ならざる闇の住民なのだ。
忍たちが娘を天涯孤独の身に貶めねばならなかったのは、怪物どもが幼児を誘拐したさい、邪魔な両親を道理にまつろわぬ同類に貶めたからである。
何年も探して居場所を特定し、機を伺い続けて昨晩ようやく少女を救い出すことはできた。しかし残念ながら敵の殲滅には至っていない。
このまま少女を単に手放すだけでは同じことの繰り返しになる。
なんなら施設一つを地獄に叩き落としてより重篤な事態を招きかねない。
「まあ顔も名前も変えて、別人にするしかないだろうな」
「その程度ではまだ探し出されるのでは。いえ……それより悪いのは、別の子どもが新たな標的にされることです」
「なら話は簡単だね」
煙草型の兵糧丸を咥えた亥刀にわか――シュンマの養母は、平生と変わらぬ軽い調子で続けた。
「顔も名前もそのまんまで、うちで忍として育てりゃいい。そうすりゃ本人は身を守れるし、あっちは娘を取り返そうとするだろうから、隠れられることもなくなる。一石二鳥じゃない?」
「要するに囮にするのか。相変わらず発想がゲスいな~おまえ」
「生ける屍ども相手に手段なんか選んでられるかっての。束乃、あんたどう? 親役」
「えー、歳近すぎん? あーし十代でシングルなったギャルママとか思われんのヤダ」
「適任じゃん」
「ヤダ。てか教育すんなら頓子姉ンとこが一番確実っしょ」
「……それは、その」
「あーいいよいいよ、言い出しっぺはにわかなんだから。責任取らせよう」
「どこから目線で物言ってんの? まあ構わないけどさ。じゃあ造次、あんたもせいぜい親父役するんだね」
「へいへい……」
短い会議が終わると、半開きにしていた襖が開け放たれた。敢えて明かりを置かずに薄暗くしていた室内に、無遠慮な光条が差し込まれ、顔を照らされた眠り姫がわずかに身動ぎをする。
仁王立ちしている養母はそれを視線の端に捉えつつも、さほど気にしたようすもなくシュンマに告げた。
「話は聞いてたね? その子、今日からあんたたちの義妹だから、面倒見てやりな」
「あ、はい……名前は?」
「へ?」
「この子の名前」
「あー……何つってたかなぁ、忘れた。まあ本人に聞けば。それくらいは答えられる歳でしょ」
シュンマは玉響と顔を見合わせる。その間ににわかは去ってゆき、気づけば他の大人たちもすでに室内に姿はなくなっていた。
名も知らぬ少女をこのまま大座敷に一人で寝かせておくのも忍びないと思って、二人はそれぞれの居室から自分の毛布を運び込み、少女を挟む形で川の字に座布団を敷き詰めた。どれも言い出したのはシュンマのほうで、玉響はそれに準じた形だ。
幼馴染みが少女をじっと眺めているのに気づいて、シュンマは少しだけ頬を緩めた。
「服、すごいよな。貴族みたいで」
「化け物の趣味でしょ。……動きづらそう」
「着たいか?」
「まさか」
玉響は首を振ったが、本音かどうかはわからない。シュンマはこっそり頭の中で少女と揃いの衣装に身を包んだ彼女を空想した。
白い肌に生成りのレースは映えるだろう、悪くはないと思う。……顔や手足に大きな痣さえ作っていなければ。
完全に明かりを落として闇に沈んだ室内で、玉響はぽつりと呟いた「この子は運がいい」
その意味を汲めるシュンマは敢えて答えない。
やがて二人分の寝息が重なって聞こえるようになった。シュンマも目を閉じて、さっきの玉響の独り言に続くであろう言葉を、胸の内で繋げていた。
――この子は運がいい。"引き取るのが頓子じゃないから"。
夜が明けると波乱に満ちていた。
何しろ少女からすれば、寝ている間に知らない場所に連れ去られていて、周りすべてが見知らぬ他人。朝から散々泣きじゃくり、口を開けば「ママはどこ、おうちに帰りたい」と繰り返した。
これでは名前を訊くどころではない。困り果てて養母に助けを求めたが、にわかはあっけらかんとして「放っておけばそのうち諦めるでしょ」とだけ言った。
シュンマは肩を落としたが、どちらかというと己の浅はかさに対する失望だ。なぜ無駄に尋ねたりしたのか、彼女はそういう人だとわかっていたじゃないか、という。
思えば自分や義妹に対しても、母親役という自覚がそもそもないのか、それらしいことなど一つもしたことがないのだから。
極度に厳しい指導で知られる玉響の実母・頓子ですら料理や洗濯をする。手が回らなければ夫と分担して不足がないよう取り計らい、なんなら娘や養息子が幼いころは、それぞれの服を選びさえしていた。
一方にわかは自分のついででしか家事をしない。彼女の書類上の夫、つまりシュンマの養父にあたる造次は少しマシで、頼めば一応は手を貸してくれる。
そんな生活を十年続けたシュンマはすっかり家事に慣れていた。五年前に引き取られた七つ下の義妹も、まだ小学生ながらすでに優秀な助手だ。
養父母は頼れない。少女の今後の暮らしは自分にかかっている。
……この環境に馴染むべきかどうかはわからないけれど。忍宗は正直、ろくな世界ではないから。
「なあおチビさん。ごめんな、勝手にこんなとこに連れて来ちまって」
腰を屈めて少女と視線を合わせ、これ以上怖がらせないように、なるべく優しい声を出す。
あまり目つきが良くないと周りに言われる顔立ちだ、大して効果はないかもしれない。それでも。
この子を化け物のところに返すわけにはいかない。あのまま彼らとともに居させれば、いつかは奴らの同類にされていただろう。
そうなればシュンマたちはこの子を殺さなくてはいけなくなる。この、何の罪もない命を。
だから引き離さねばならなかった。それだけは大人たちも間違っていない。
根気よく話しかけていると、泣き疲れてきたのもあって、少女は少しずつシュンマの話に耳を貸すようになった。簡単な問いかけなら答えてもくれた。
名前は? ――せつな。
歳はいくつになった? ――むっつ。
「……そっか、俺と同じだな」
「?」
「俺もここに来たときは六歳だった。右も左も、誰を頼ればいいかもわからなくて、毎日心細かったよ。……でもよ刹那、大丈夫だ。俺がいる。今日から、俺がおまえの兄ちゃんだ」
「にいちゃん、……ママ、どこ?」
「……ちょっと忙しいらしい。だから今日は会わせてやれないけど、そのママが心配するといけないから、あんま泣くな。それに喉乾いたろ? 腹も減ってんじゃねえか?」
「うん……」
「よし、じゃあまず飯にしよう」
手を差し出すと、ひと回りもふた回りも小さなそれが、きゅっと頼りなげに掴んできた。それを壊さないように優しく握り返しながら、シュンマは思う。
今は難しいが、いつかは教えねばならない。ママと呼び慕う相手は親などではないことを。
むしろ刹那をこのような身の上に追いやる原因になった仇であり、その本質はおぞましい人喰いの怪物、滅ぼすべき人類の敵であることを。
そうして真実を知った彼女が絶望しないように、シュンマが支えてやらなければ。いつか来る、決して避けられない残酷な運命に立ち向かうための心身の力を、この子に養わせるのが己の役目だ。
この日、シュンマは誓った。
刻衆を、刹那の『家』にする。化け物の許になど帰る必要がなくなるように。
この子が二度と生ける屍どもの姫君に戻ることがないように。
そのために家族になろう。
肩書きだけで中身のない紛い物ではなく。
流れる血は違っても、手を離しても、心で繋がっていられる、本当の家族に。
……そうして十年後。
「シュン兄ウザい」
「ぐッ……!」
「もー。行こ、ズミ」
「う、うん……失礼します……」
無事に反抗期を迎えたかわいい義妹から塩対応される日々が待っていようとは、あの時は思いもしなかった。
いやそれはいい。つらいけど悲しいけど、それだけ親代わりとして信頼してくれている証……たぶん恐らくきっとメイビーどうかそうであってくれ頼む。
だが。刹那の隣にいる男、人畜無害そうな顔をしてゾンビの本性を隠している少年の存在には、我慢がならなかった。
「刹那ァ……! そいつだけは兄ちゃん絶対認めねぇからな……!!」
「そういうのがウザがられんだろ」
負け惜しみじみた遠吠えにツッコミを入れてくれるのは、すっかり様変わりした玉響。かつては楚々とした儚げな少女だったのに、今や黒々したアイメイクで武装したパンクロック女となり、今でもシュンマの隣にいる。
親役に適した歳にはなったが、まだ婚姻届を出せとの命は下りていない。上は世情を鑑みてか歯車を増やすのに慎重らしい。
あるいは、単なる養母の戯れ言で、元からそんな想定はされていないのかもしれないが。
「……だいたい末っ子だけ猫可愛がりじゃ、もう一人にも恨まれてたりして」
「確かにな。須臾は良い子だから、何かと我慢させちまってる。
……あとそれ、もしかしておまえも妬いてるって意味……」
「は? めでたい思考してんなよ」
ドギツい赤が呆れたように緩く弧を描く。そこから漏れる溜息の音に、シュンマはそっと耳を凝らした。
なにも刹那だけではない。家族という言葉には、もともと人数の定めはないのだから。
叶うなら、この手が届くすべてのものを、懐に収めていたいと思う。それがどんなに傷ついていても、どれほど涙に萎れていても。
分不相応と知りつつ、なお願わずにいられない。
なぜなら――ここはどんなに寂しくても、愛おしい者たちの住まう場所だから。
【Home,bitter sweet home.
――ほろ甘き埴生の宿】
「もしあたしが妬いてたら、とっくに刹那を殺してる」
「あー……いや、つーかそもそも、おまえは別に妬く必要ねえよな。妹とはまた別枠だからよ」
「……ふーん?」
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