スカーレット・レター // 亥刀須臾
この家に引き取られた時点で、運命は決まっていた。
逃げることは許されない。あるいは、忍の世界を離れることを選ぶなら、すべての記憶を忘却せねばならない。
――比喩ではなく文字どおり。脳が物理的に侵犯され、忍術と呼ばれる一見非科学的な技術によって、記憶中枢を弄り回されるのだ。
忍に関する機密保持は、ここでは人権すら簡単に上回る。
それが須臾を、この組織に引き止め続けている理由の一つ。
……。それだけなら、もう少しだけマシだったかもしれない。
シュユが引き取られたのは十五年前、四歳のときだ。最初の二年ほどは体力をつけさせる程度に留め、本格的な訓練が始まったのは六歳になってから。
一応シュユは『他の同世代の子より体力がある』という理由で、児童養護施設にいる何人もの子どもたちの中から選ばれた。しかしそれは運動神経が優れていることと同義ではない。
ましてや自分で望んだわけでもない修行の日々だ。はっきり言ってつらいだけだった。
そんなシュユにとって、支えと呼べるものは一つだけ。
「ほら。水分しっかり摂っとけよ」
「……瞬間兄さん」
「さっき打ったとこ見せてみな。……あ、やっぱ擦り剥けてんな、一応消毒しとくか。染みるけど我慢しろよ」
七つ上の義兄、シュンマは面倒見がいい。シュユたちの母親役である亥刀にわかという女性は、子どもたちのケアにあまり関心がない人で、シュユの世話はほとんど引き取られた当初から彼の仕事だった。
怪我の手当てだけではない。小学校からの父兄あての手紙の処理、行事の準備、その他あらゆる保護者の役割は、すべてシュンマが担った。
時には食事さえ『今日は忙しいから自分たちでなんとかして』と放り投げられる。ネグレクトもいいところだ。
訓練場にはまだ木刀を打ちあう音が響いていた。
実動部隊〈亥刀〉は複数の『家族』という分隊からなる。その一つに属する玉響と片時の義姉弟は、玉響の実母である頓子のもとで、異常に厳しい指導を受けていた。
「ぁゔッ……!」
叩き飛ばされた片時が何メートルも転がる。痛みに呻く暇もなく、肉薄した頓子が無抵抗の少年に木刀を振り下ろすのを、追いすがった玉響が必死に止めようとした。
けれども頓子は実の娘にすら容赦なく肘鉄を叩き込み、むせた一瞬の隙に彼女を蹴り飛ばす。
「がっ……ぁ……」
「二人とも立ちなさい。敵は休む暇など与えない」
「はッ……、はぁッ……」
「立てと言っているでしょう!」
汗で貼り付いた子どもたちの衣服には、ところどころ赤いものが滲んでいる。二人とも立つのがやっとの状態で、片時は何度も木刀を取り落としながら、母の追撃に抗っていた。
遠目にもわかるほど痣だらけの身体。……骨が折れる音を聞いたことさえある。
子ども心に、あんなのはおかしい、とずっと思っていた。
同じ亥刀なのに自分たちと違いすぎる。見ているだけで怖くてたまらないのに、どうして誰も何も言わないのだろう。
にわかに至っては「アハハ、頓子はキツいねぇ」なんて笑っているのだ、あれを見ながら。
一度、どうにも我慢ならなくなって父親役の造次に尋ねたことがある。どうして頓子さんはあんなに厳しいの、なぜ誰も止めようとしないの、と。
書類上の父は答えた。
「しゃあないよ、あれは頓ちゃんたちが決めたことだから。それに頓ちゃんも加減は弁えてる。死なせはしないさ」
なんて酷い理屈だろう。殺しさえしなければ、何をしてもいいというのか。
ここは現代社会から切り離された世界。忍宗という組織が作られた戦国時代かそれよりずっと前の感覚が、呪いのように守られ続けている。
自分たちは組織の駒で、つらいという感情さえ認められない。
……。
須臾にはシュンマがいた。彼は愛想のいいほうではないけれど、忍者としては破格なくらいに優しい。彼がいるから耐えられた。
でも、そうじゃない人は。
刻衆の面々は一つの集合住宅での共同生活を送っている。居住空間と訓練施設、武器庫などが一体化した、刑務所のような環境だ。
最上階は会議や宴会に使うワンフロアぶち抜きの大広間で、一時期シュユはよくそこで宿題をしていた。
誰もいない広い部屋の隅。あまり落ち着ける環境とは言えないが、シュンマや最近新たに引き取られた義妹と共有の自室よりはマシだ。
ノートを広げ、指定されたドリルのページをめくっていたら、数メートル先の襖が静かに開いた。
「……あ。シュユちゃん、いたんだ」
現れたのは片時だった。こんなところに何をしに来たのかと思えば、彼も小脇にそれらしい筆記用具を携えている。
それを見とめた瞬間シュユは少し嬉しくなった。自室に居場所がないのは自分だけではなかったんだ、と。
片時は大人しい性格らしく、それまであまり話したことはなかった。
訓練も滅多に一緒にはやらない。たぶんそれは頓子とにわかで教え方が違いすぎるせいだと思う。
端的に言って、玉響も片時も強すぎるのだ。ここで何年も生きているシュンマはともかく、シュユではレベルが違いすぎて、とても相手にならない。
だから何年も同じ組織で暮らしているわりに、よくは知らない。
歳は三つ上で、学年でいうとこのとき小学四年生のシュユに対して、彼は中学生。すでに高校を卒業したシュンマほどではないものの、大人びて感じる。
片時は向かいに腰を下ろし、しばらく無言で勉強していた。シュユは自分も宿題を続けながら、時々そっと視線を上に飛ばして、義従兄の姿を眺めていた。
首筋には痣や薄くなった火傷の痕。雑に貼られた頬のガーゼが痛々しく、もともと整った顔立ちなのが殊更に哀れましい。
「……なんか用?」
「え、……や、べつに、ごめんなさい」
「どうでもいいけど消しゴム貸して。無くしたの忘れてた」
「っ……ど、どうぞ」
心臓がぎくりと跳ねる。どうか気づかないでいてほしいと願いながら、一生懸命なんでもない顔を貼り付けて、筆箱に隠していたそれを差し出した。
なんの変哲もない、そこらの文房具店で買えるプラスチック消しゴムだ。本体を包むのは、よくあるブルーを基調としたデザインの、紙製のカバー。
ただの消しゴム。印象に残るところなんて何もない。
なのに、片時はふいにシュユを見つめたあと、そのカバーを剥いだ。
――晒される。真っ白な消しゴムの表面に刻まれた、シュユの秘密が。
ぎらぎらしい赤ペンのインクがかすかに滲みながらも、読み取るのには何ら支障がない、四つの文字。
「……ふーん。知ってるよ、これ。女子がやってたおまじないだ。消しゴムに好きな人の名前を書くってやつ」
シュユはろくに言葉を返せずに竦み上がるしかない。心臓の底に、氷の塊を差し込まれたような心地がした。
絆創膏の巻かれた指が、一文字ずつそれをなぞる。からかうように。
亥、刀、瞬、間。
「へえ。シュユちゃんて、シュンマくんのこと好きなんだ。
誰にも見られずに消しゴムを使い切ったら両想いになれるんだっけ? 残念だったね、おれに見られちゃって」
知らなかった。
――片時が、こんなふうに嫌な顔をして笑う人だったなんて。
「血は繋がってなくても兄妹でしょ? それにシュンマくんは玉響ちゃんと結婚するんだって」
「……それは、知ってるけど……っ」
「そもそも好きとか嫌いとか、そういうの関係ないんだよ。こんなおまじないなんかで亥刀のルールがどうにかなるとか思ったの? バカだなぁ」
「ッ……ぅう……」
耐えきれずに視界が滲み出す。しゃくりあげそうなシュユを見て、片時は微笑の色を深くした。
明らかな嘲笑から憐憫へとグラデーションが傾いていく。彼の傷だらけの手がぬっと伸びてきて、シュユの細い黒髪を、驚くほど優しく撫でた。
バカだなぁ、ともう一度繰り返された。今度のはまるで独り言のような静かさで。
「おれ、君みたいなバカって嫌い。あと弱いやつもだよ。バカで弱いとか最悪。最低のザコだ」
そのとおりだ。最悪だ。本当に最悪だ。誰にも知られたくなかったのに。
胸の秘密を勝手に暴いた人は、暴言とは裏腹に形ばかりシュユを宥める。毒を塗るように。
罵倒はなぜだか嘆くような響きを伴っていた。
頭を撫でられているからか、ひどい言葉で罵られているはずなのに、慰められているようでもあった。同時にぬかるみに押し込まれるような苦しさが終わらない。
涙でどろついた眼を少し開くと、彼の襟元の痣が目に入る。袖の奥の肘にはミミズ腫れが走っている。
どうしてか、傷だらけのその身体が、赤インクの滲んだ消しゴムとダブって見えた。
その日から亥刀という『家』は刑務所から地獄になった。
片時が執拗に絡んでくるようになったのだ。人目を憚らず放り投げられる暴言の数々は、今やいちいち数えていられないほど降り積もって、シュユの心を傷だらけにしてくれている。
義弟の豹変に玉響は呆れ、シュンマは憤った。けれど誰が何を言ってものれんに腕押し。
義兄姉たちは不思議に思っているだろう。なぜシュユだけが彼の標的にされたのか、なぜ義妹は絡まれるたびにいちいち相手をしてやるのかと。
弱みを握られたからだなんてとても言えない。
でも、それだけじゃない。
「ねえシュユちゃんてさ、今もシュンマくんに不毛な片想い続けてんの?」
「……なわけないじゃないですか。ていうか小学生の頃の話ですよ、元から単なる勘違いなんで、いい加減古いネタ引っ張るのやめてください」
「つまんないの。ところでもし『上』がおれと結婚しろって言ってきたらどうする?」
「そりゃしますよ。断る権限ないんで。そっちも同じでしょ」
「ハハ、いかにもザコの回答って感じ」
昔は物静かで表情がない人だと思っていたが、今やすっかり悪辣な嘲笑の顔だけはよく見るようになった。それにまあ罵倒の文句だけはよく舌が回る。
腹が立つと同時に、憐れだとも思う。歳下の弱い女を罵るしか楽しみのないその人生を。
「……じゃあ、片時さんはどうするんですか」
その遠回りな自傷行為に付き合うしかない己にも、どうしようもない惨めさを覚える。
「シュユちゃんを殺す。死ぬほど嫌だ、って意思表示させてあげる」
「頼んでませんけど。ていうかなんでわたしが殺されなきゃなんないんですか、そっちが死ねばいいでしょ」
「優先順位ってもの考えなよ。削ぎ落すのは無価値なほうからでしょ普通。まあ嫌なら抵抗してくれてもいいけど、無理だろうね、ザコだから」
「あーはいはいそうですね」
面倒になって適当に流すと、片時は少し寂しそうな顔をする。
腹を立てたり手を上げることはほとんどない。手合わせのときは、本当に殺されるかと思うくらいに容赦がないけれど、それ以外の場では彼の凶器はあくまで言葉だ。
あとどれだけシュユを傷つけたら彼は満足するのだろう。自分と同じになるまで? それはいつ?
耐えられるかわからない。どこかで壊れてしまうかもしれない。
けれど――きっと、そのときは。
「……、まあいいや。どうせそのあとでおれも死ぬから」
この家に引き取られた時点で運命は決まっていた。それが、片時と関わってしまった瞬間から少しずつ狂い出した。
忍を辞めることはできない。片時からも逃げられない。
それは、向こうも同じ。
いつかシュユが砕けたら、そのときは彼も一緒に壊れる。赤インクで呪いを刻んだ消しゴムのように、すり減ってなくなるまで使い切ったとき、その祈念は成就するだろう。
それを見届けるために、この地獄に居残っている。
忍術はあくまで科学の一端であって魔法ではないし、もうシュユはおまじないも、奇跡や偶然も信じてはいない。むろん願望でもなく、これはただの事実から導き出された当然の結論だ。
亥刀片時は、傷だらけである。
亥刀須臾は、彼より傷が少ない。
よって、彼のほうが、シュユより先に壊れる運命にある。
【Scarlet letter on our eraser:胸中に滲むは消えない緋文字】




