第九話 ドラゴンと父
カエデは肩に人の手が置かれるのを感じて振り向いた。ミネコが険しい顔で息も荒い状態でそこにいる。
「…なるほど」
何がなるほどなのかと思った。ミネコが深呼吸して気持ちを落ち着かせている。数回それを繰り返したのちにある仮説を立てた。
「一人の時は聴こえるけど誰かに触れていると聴こえないみたいね」
悪魔の囁きには対処法があった。状態はどうあれ他人に触れている間は囁きが止むらしい。手を離して暫くするとまた聴こえる。
「これからは手を繋いで行動しましょう。良いわね」
悪魔の囁きは人間の出来た聡明な人でもそう長くは持たない困難な試練だ。対処法無しには乗り越えられないだろう。
一方マサヤは気をつけの姿勢から腰を90度に折り曲げ大変美しいフォルムを保ちながら見えない何者かに悲願し謝罪をし格別の慈悲を得ようとしていた。
「それだけは!それだけは!!ご勘弁ください!!」
次に頭を下げると頭上から一撃が降りてきた。とても良い乾いた破裂音が部屋に響いて反響した。
「いい加減にして!もう!」
ミネコがマサヤの脳天を何処から手に入れた丸めた紙束で引っ叩く。
「あれ?止んだ…」
マサヤは束の間の静けさを取り戻した。だがそれは数秒の後に再び始まった。
「うわぁ!まだ聴こえる!」
「もう!」
マサヤの耳を引っ張りミネコは残り2人の元まで連れて行く。中腰のまま連行されるマサヤは案外嫌な顔をしなかった。
対処法を共有した4人は次の本が光るのを見た。カエデは立ち上がり少年の手を握って本棚に向かう。
「おいカエデ!なんでソイツと手を繋いでいるんだ!」
カエデはマサヤを無視してその本に触れた。手に取ると本は温度のない炎に包まれて消失した。
「へ?無くなっちゃった」
異変はすぐにわかる形で起こった。地響きが辺りを揺さぶりまるで巨大な象が図書館内を移動しているかのようだ。
「これはもしや一番ヤバいやつかもしれない…」
マサヤは何か知っているようだった。待ち受ける試練は最も危険で凶悪だ。父に何度も言い付けられてこの時のために自分はここにいると言っても過言じゃない。
「ドラゴンだ。この足音は絶対にドラゴンだ」
ドラゴン。それは爬虫類に近い種類で体調は10メートルから20メートルと大きさに幅があるが巨大なトカゲをイメージして貰えれば良いだろう。既に絶滅した恐竜という見方もある。だがそれらとは一線を画す特徴を持っている。炎を口からブレスのように吐くのだ。そして鱗は鋼鉄のように硬く重量のわりに飛行する種類も一部存在する。
「奴はここを目指している。すぐに離れよう」
マサヤはカエデの手を取り部屋を後にしようとする。しかしその手は払い除けられる。
「私リクト君と一緒に行くから」
そう言って先に歩き出す。少年は手を引かれ一緒に着いていく。
「ちょっと待てカエデ!」
「なーにヤキモチ焼いてんの。ほら、私たちも行くわよ」
ミネコの差し出した手を渋々掴んで音のする方向と逆の道を進んだ。
このままではいつか追い付かれてしまうのは時間の問題だろう。何か対処法を見付けなければならない少年はそう思っていた。
「お祖父さんはどんな人だったんですか?」
カエデは祖父の事を思い出していた。聡明で尊敬できる人だった。普段は厳しくしているがどんな小さい事も褒めてくれるマメな人だ。それに気になった事はすぐにメモをするメモ魔でもあった。そんな時カエデは決まってこう聞いた。
「お祖父様。何を書いてるの?」
すると笑顔になって「カエデはもうそんな歳になったのか」と喜んでくれた。何でも聞きたがる年頃の少女に嫌な顔を一つせず丁寧にゆっくり教えてくれた。
「どんな知識でも無駄にはならない。役に立つ時まで待ってくれているのだ。そうな風に思ったのだよ」
幼い少女に理解できることは少なかったが、一言ひとことがカエデの心に響いた。
「お祖父様は図書館の全てを知っていたわ。私が覚えている事は朧げだけど大好きな思い出よ」
少年は2冊の日記を本棚の中から見つけた。その時も何一つヒントのない中から散らばったメッセージをかき集め正しい順番で棚にある仕掛けを解いた。
残り何冊あるかわからないがきっとそこには攻略の糸口がある。
「マサヤさん」
マサヤは大人気なく少年にヤキモチを焼いて「何だ」と不機嫌に見せたが気にするほどでもない。
「お父さんは何でマサヤさんだけにドラゴンの存在を教えたんですか?」
「それは…」
祖父の遺した「役立つ時」がこの一族の一人ひとりに継承されて最高のタイミングに合わせて待っているのだと少年はそこに希望を見出していた。