第五十七話 和解と橋渡し
人が幸せになる条件は思っていたよりも単純であった。皆それを知っていて敢えて知らないフリをする。隣の芝生は青いと言っても気にする事はない。より良き方へ意識を向けさせるのは生物としての本能なのか幸せの上限は勝手につり上がる。そんな気持ちでは幾らいい時計を買っても、良い車を手に入れても、素晴らしい伴侶と結ばれてもその瞳は別の方ばかり見て永遠に幸せは見えて来ないのだ。
だから主観に囚われてはならない。真っ直ぐに事実を見て今の自分を感じて素直に受け止めればいい。苦しいならただ苦しいで良い。息をゆっくり吸ってゆっくり吐いて素直に感じれば良い。それ以上に誰かのせいにしたり自分のせいにして傷つかなくて良い。本当の自分を受け入れれば良い。
少年は震える母の手を握った。モトコが何を思い何に傷ついているのか知る事は出来ない。けれど繋いだ手の温もりと力の感触がそれを和らげる事は事実として知っている。血は繋がっていないけれど自分の母になる事を決断したのは誰でもなくこの人だからそれが事実だから。
もう一方の手はモトコの心の悪魔に差し出された。ただ一言「お母さん。お願いだからこっちに来て」。それは子供が実の母にせがむような、甘えるような儚げな声で彼女を呼んだ。
本音の化身であるそれに嘘偽りは通用しない。だから少年は本音でそう言った。いつかお母さんと呼べる日を夢見ていた。その想いが伝わらないわけがない。モトコの心の悪魔はいつの間にかその手に惹かれて繋がっていた。少年を介してモトコは再び一つになる。その刹那に言葉を言い残す。
(もう良いと思う。拘らなくていいと思う)
それはモトコの心の変化を後押しする言葉だった。これで親子2人はこの世界の理から身を守る術を取り戻した。馴染めない事を悔しく思わない。それはそれで良いのだ。ただ秘宝のありかだけは知る必要があった。だから少年は遠く離れたあの青年に皮肉を込めて思いを送った。
(その節はお世話になりました。もう知っているかもしれませんが悪魔の血は何処にありますか?)
青年は少年の悪意がとても新鮮で刺激的な気持ちでいた。もうそんな風にコミニケーションをとれる人間はこの世界にはいない。返事に困ってしまった。今度また彼の真似がしたくなった。
(悪魔の血は知らないけれど、君たちが探しているのはその湖の事だと思うよ)
青年が嘘を付けない事はわかっている。だから本当なのだろう。心の悪魔達が湖の水に沈み溶けて無くなる。見方によれば彼らの血に染まった。そんな水なのかも知れない。
そして思い出したようにカエデに連絡をした。
少女は世界を跨ぎながらもそれはそれは鬼のように怒る。少年は聞かれなければ言い訳などしない。「ごめんなさい」と謝りながらも少し喜んでいる風である。連絡を終えるとモトコが少年を黙って見ていた。そしてポツリと言った。
「アンタってちゃんと笑うんだね」
愛想笑いでも作り笑いでも無い素直な少年の笑顔を初めて見た気がした。今更だけど可愛い顔をしているなと思う。背も低く中学生とは思えない抵身長。こんなにも彼をまじまじと見る事は無かった。だから今からでも彼を知りやり直すきっかけにしようと思えた。
モトコは自分の劇的な心境の変化に驚いていた。けれど悪い気はしない。これからはこの笑顔も好きになれる気がしていた。
2人は湖の水を布に染み込ませて持ち帰ってきた。それを瓶に移すとちゃんと秘宝の一つ「悪魔の血」と認識された。ナオスケは何があったか聞いてきた。
「あの時は肝を冷やしたぞ。何があったんだ。説明してくれ」
少年とモトコはその一部始終を話した。とても不思議な世界だったと。けれどその様子を見ていたミネコが疑問を投げかける。
「リクトくんと…お母さんって何かありました?」
まるで本当の親子のように距離が近くなっていた。前まではろくに目も合わさなかった2人が帰ってきてからずっと目を見て、笑って思い出話をするかの様に戯れている。少年は少し照れているが、それにしても違和感が凄いのだ。するとマサヤが変な事を言い出す。
「ちょっと待て、お前たち体を乗っ取られたのか?!」
異界は何があるかわからない。急に1人で警戒をする。カエデはそれを冷たい目で見た。本当にそうならニーナが勘付いている。心の悪魔と契約した者を舐めてはいけない。ニーナが「大丈夫ほっときましょ」とカエデと声をハモらせて兄をあしらった。ただ一つ特別な違和感は確かにある。それを聞いてみた。
「モトコさんって心の悪魔と契約したんですか?」
勘が働いた。鋭い指摘である。思い当たる節は確かにあった。まだそれは微弱な変化だ。けれど確かにその予兆がある。モトコの中で力を溜めて体から孵化するのをそれは待っていた。




