第五十六話 湖とコンプレックス
どこまで歩いても誰かの声は止まない。この世界は全ての人々が心を丸裸にして生きている。それが当たり前で僕らの常識ではない。悪意は淘汰されてしまったのか。罵倒や非難の声は何処にもない。合理的で必要最低限の会話だけが聞こえる。そして耳を傾けなければその声は止んだ。少年はこの環境下でかなり適応しはじめている。
モトコは苛ついていた。何故少年は平気なのか信じられない風である。
「あんたおかしいよ」
ガオウを纏った事で無数の声は聞こえなくなった。その代わり少年の記憶が断片的に流れ込んでくる。自分を非難する気持ちと恋しく構ってほしい気持ちが複雑に入り混じっている。初めて罪悪感を覚えた。不思議と悪い気分じゃない。ガイアの向けてくるそれと同じもののように思えた。少年はまだ子供だった。けれど自分の性格上。受け入れがたい変化である。そんな事を思いながら一歩一歩前に進んだ。
ガオウが示す先に湖があった。とても美しい澄んだ水が太陽の暖かい光を乱反射してキラキラと煌めいている。そのほとりに1人立つ人影がいた。実態の薄いモトコの輪郭だけがそこにいて水面を眺めている。それは僕らを見つけると語りかけてきた。
(私を取り戻しに来たの?)
不満そうである。とても歓迎してくれている様ではない。明らかに僕らを拒絶していた。
(そこで止まって。それ以上近づいて来たら私飛び込むから)
それが何だと言うのか。詳しくはわからない。けれど不味い事になるのは何となくわかった。他にも赤ん坊ぐらいの小さな影が何人も湖にゆっくりと入っていく。戻ってくる気配もない。ガオウがそれについて説明する。
(ここはヤバい。湖に入ったヤツの気配が消えた。あそこに入ったら存在が消滅する!)
それを聞いたモトコが慌てて自分を連れ戻そうと説得する。
「何なのよ!早く戻りなさいよ!!こっちはそれどころじゃないんだから!」
誰を説得しているのか。紛れもない自分だがこんなにも考えが合わないなんて信じられなかった。モトコの心の悪魔は尚も抵抗する。
(うるさい…。アンタはなんにもわかってない。…ほんとに。本当に不幸な女!!いつも他人と自分を比べて!勝手に不幸になる可哀想な女よ!!」
その言葉はモトコの心に深く突き刺さった。口と手が震える。突然のことで言い返せない。何故ならそれは自分の本心だからだ。溜まった不満は尽きる事がない。
(図星よね!!今までどれだけ我慢してきたと思ってるの!ねぇ?!手に入れたらそれで満足?すれば良いじゃない!!なんでもっと上を見るの?!何でそれで傷つくの!!何でもっと欲しがるの!!馬鹿じゃない…)
悪魔は泣いていた。モトコもつられて涙を流す。心の底から思っていた不満だった。自分の悪い癖。一番自分を不幸にしていたのは自分自身だった。
モトコをそんな人格にしたのは子供時代のコンプレックスが大きい。在学中に妊娠して学生結婚した母と高校を中退して土方の道に進んだ父との生活は貧しいものだった。狭いアパートに詰め込まれた日常は体だけではなく心をも窮屈にさせる。常態化する夫婦喧嘩。暴言と暴力。ストレスの吐口は幼いモトコに向かい母もボロボロになって離婚した。惨めだった。
学校でも私はストレスの吐口だった。ろくに風呂に入れてもらえずタバコの臭いが染みついた服はさぞかし異物感を醸し出していたのだろう。思春期の不満をぶつける格好の的だった。
その後母は何度か再婚したが男が自分に下心を持つとそれに勘付いた母に執拗に叩かれた。学校から虐待を疑われた事もある。けれど誰も本当に助けてくれる大人はいなかった。まともな生活が欲しかった。当たり前に笑って過ごせる日常が欲しかった。私を笑い物にする同級生も見て見ぬふりする大人もみんな見返したかった。いつの間にかその想いが自分のアイデンティティになっていた。
それはある意味私を救った。上り詰めていつか幸せを手に入れる。その決意が凄まじいハングリー精神を生み出したのだ。そして運のいい事に私は男心を掴む才能に恵まれていた。下積み時代を含めても夜の世界で上に駆け上がるスピードは半端じゃなかった。お金も手に入れ自信もついた。それはそれで幸せだったと思う。けれど過去の記憶が。不幸だった時間が幸せに塗り替えられる事はなく。心の底から満たされる事はなかった。
その頃上客だった今の夫。妻に先立たれ落ち込んでいた可哀想な男。そうして口説いたのも結婚に興味を持ちはじめたからだ。夜の世界から足を洗い。普通の幸せな家庭を築けば今度こそ満たされると信じて。
けれどやはり満たされる事はなかった。自分の血が流れる実の息子より優秀な連れ子。海外単身赴任から帰ってこない旦那。愚痴ばっかり盛り上がるうざいママ友。
何故だろう。金と時間を幾ら手に入れても幸せにはなれなかった。




